2008年5月アーカイブ

今回のトルコの旅もかなり大詰めになってきた。セルチュクに滞在したのは地中海沿岸のクサントスやペルゲ、アスペンドスと同様、ここエーゲ海沿岸にも紀元前10世紀以降の古代都市がいくつもあるからだ。その中でもこの三都市は必ず見たいと思っていたのだがそれぞれ、20~30キロ以上離れておりしかも交通の便は大変、悪い。期待していたバス会社のツアーもない(昨晩、訊いてみると最大手のバス会社にもかかわらず、法外な値段をふっかけられたりしたのだ)。旅慣れてきたせいか(疲れてもうどうにでもなれとやけくそ気分も含まれて)だめで元々なんとかなるさ、自力で行ってやろうじゃないかと宿を出た。最初のディディムまでバスを3回乗り換えて2時間でスムーズに到着。すでに炎天下36度であった。昼過ぎからはドルムシュという小型バスの運行も極端に減るという情報なので、見終わった後、昼食もとらずに次のミレトをめざす。ここがミレトへの分岐点だとバスから降ろされた場所で聞いてみるとここからミレト遺跡までは5キロ、徒歩しか手段は無いと言われる。どうしようかと躊躇していると側に停まっていた車の中から若いお兄ちゃんが良かったら車で送ってあげるよと声をかけてくれた。あまりの幸運にユダヤの民を率いて紅海をわたるモーゼのような気分になりました(少し大げさかもしれないけど)。
ミレトでは一人で旅している日本の中年女性に声をかけられ、次に私たちがプリエネに行くというと、じゃあ一緒に行きましょう、あなた達が見終わるのを待っているわという。この時も次の目的地プリエネに行くバスはなく、一旦ソケという街に戻り、行き直すしかなかったのだ。我々が戻り、じゃあソケに行くしかないかと話していると今度はドルムシュ(小型バス)の運転手が50リラ(4500円くらい)出してくれればプリエネまで行ってやるけどという。バスの運転手がタクシーに早変わりだ。この適当さはトルコならではである。プリエネまでは25キロほどで3人でその値段ならば安いということで話はまとまり、プリエネまで無事に行き着く事ができた。トルコでは至る所重要な観光地にもかかわらず、肝心のところにわざとのように交通機関がない。まったくひどいなあと思いつつ、結局テキトーで親切なトルコ人に助けてもらうほかないのだ。これが今回私がマスターしたトルコ旅行のコツです。この日は結局水やコーラやビールやアイスのみで昼食がとれず、夜の8時にやっと食事をとることができた。いつもなら夜は涼しくなるのだがこの日は夜も暑く寝苦しい夜であった。

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以下ディディムの遺跡
ここはデルフォイとならぶ神託のメッカという。柱の太さや並べ方が間隔が他とはかなり異なる。遺跡面積は狭いが迫力がある。有名なメドゥーサも含め彫刻のディテールがかなり鮮やかに残る。

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以下ミレト(ミレトス)
ここはギリシア文明圏で(ということは世界で)最初に哲学と自然科学が生まれたといわれるイオニア文化の中心地である。紀元前4世紀に作られた大劇場が中心だがここも広大な場所に様々な街の遺構が点在している。ターレスとかソクラテスとかがこの街を歩いたのか!と思いつつ。

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プリエネの遺跡。復元図。
この都市の街並は都市計画においてグリッド(格子)を用いた最古のものであるという。背後にそびえる山の土砂によって19世紀まで埋もれていたという。

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この日はかなりの猛暑であった。予定していた13時のバスに乗れず17時までパムッカレに足止めされた。あまりの暑さに再びパムッカレに登る気もおこらず、近所の週に一回のバザールを覗いたほかは宿でブログの更新などをする。また宿にいるといろんなタイプの日本人旅行者が来て話をする。妻は宿の女性主人(日本人)と一緒に衛星放送で「ニュースセブン」を見ていた。これまで休みの無い時間が続いたので結果的には久々の休養日となった。
セルチュクまではバスで4時間。バスセンターで翌日の移動手段の確認をしたのだが全く要領を得ないまま9時半に宿に到着。夕食抜きで就寝。

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この日はとてもハードな一日。旅前にえびりんからのアドヴァイスにもここアフロディスィアスに行くのはとても難しいと聞いていた。パムッッカレからも100キロ以上あり、公共交通機関がない。レンタカーで普通は行く所だ。昨日移動した先の宿で相談した所、27日の朝になって我々以外にもアフロディスィアス行きの希望者があったためタクシーをシェアして行く事が可能になった。車をかなり飛ばして一時間半かかった。
ここは保存状態も良く、都市全体が残され競技場、神殿、オデオン、劇場、アゴラが点在している。アフロディスィアス博物館にはこの遺跡で発掘された彫刻や有史以前の装飾品も展示されている。苦労して来たかいがあった。アフロディスィアスからの帰還後、遅い昼食をとり宿からすぐのパムッカレ・エリアへ。ここは観光地として有名なので説明の必要はないかもしれない。丘が流れる温泉によって石灰棚で出来ており実際とても美しい。私たちの行った時刻は太陽がまだギラギラする3時頃であった。
ここを登ると丘全体にはヒエラポリスという紀元前2世紀の大都市の遺跡が広がっている。博物館もふくめここを炎天下のなか3時間程歩く。実際日陰になるような場所も無い。遠くには山脈が見え広大な空間のなかにある都市風景は圧巻である。この日は途中でカメラの容量が一杯になり写真が撮れなくなった。急遽妻のカメラで撮影したためここには掲載できないが8時の夕暮れまで丘で待ち、夕日と残照の中の石灰棚を撮影した。8時を過ぎると急激に涼しくなる。
この日宿で出会った韓国人のご夫婦は偶然私たちと同じように大学の海外研修で1年ヨーロッパを旅している人であった。コンピュータサイエンスが専門とのこと。シェンゲン協定の避け方も同じなら、せっかくの1年を外国の大学で過ごすなどまっぴらだという点も、子供の数や年齢もほぼ同じで意気投合する。ただ私と異なるのは彼らは車で全部移動しているとの事。とても冒険的ですねというと、フランスのプジョー社のキャンペーンで安く車をレンタルできたとのことだ。そういう手があったのか。

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アフロディスィアス遺跡

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アフロディスィアス博物館

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博物館外観

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石灰棚

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ヒエラポリス復元図。下の白い部分が石灰棚。

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3200年程昔の貨幣!

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ローマンバスを使用したヒエラポリス博物館

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ここで電池切れ。
ロドスからマルマリスへフェリーで戻る。マルマリスからバスでパムッカレへは5時間程。
パムッカレでは村のペンション同士の客引きにおける仁義なき戦いに巻き込まれ、一泊ずつ宿を変えることになる。(細かい話は省略するが)日本語に堪能なトルコ人も絶対信用してはならないという見本だった。この間日本人女性が妻だと称する男に3人あったが本当にそうだったのは一人だけだった。またここに滞在中には、世界一周旅行をしている人たち(一人旅やカップルなど)に何組か出会って話をする機会があった。皆さんとてもタフでそれを見ていると多分私たちが旅に対してナイーブなんだろうと思う。

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フェリー船上にて。

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パムッカレ

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ロドス考古学博物館

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この博物館はヨハネ騎士団のかつての病院として使われた建物だった。

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パレス・オブ・グランドマスター(騎士団長の館)

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我らの聖母教会

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ロドスは紀元前12世紀頃から人が住み始めカミロス、イアリソス、リンドスの三つの古代都市で有名である。現在はリンドスが町も残り、遺跡も保存が良い。ロドスは海のシルクロードの中に位置している。ローマ帝国、東ローマ帝国、サラセン、ベネチアとその支配者は歴史の中でめまぐるしく変わっている。この島を有名にしているのは島の先端(約900メートル四方の旧市街)が城壁で覆われているところだ。現在でも城壁はしっかり残っている。これは聖ヨハネ騎士団が200年にわたりビザンチン帝国の崩壊後、イスラムに対するキリスト教の前線基地とするためこの島を支配し、築いたものだ。このあたりは塩野七生さんの小説「ロードス島攻防記」に描かれている。攻撃をしたのはトルコのスレイマン一世でこの戦いでは大砲が本格的に使用されている。今でも城壁のあちこちに丸い石が転がっているが大砲の弾である。

400年近いトルコ支配の後、イタリア、ドイツが占領しギリシアに帰属できたのは第二次大戦後である。


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リンドスの町と丘


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遺跡から町を見下ろす


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スミス山(ロドスの町近く)の古代スタジアム


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古代劇場


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アポロン神殿


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城壁に戻る

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24日と25日はお祭りらしく城壁のあちこちでイヴェントが行われていた。


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大道芸の人々。昔、芸祭に来てもらったことのある黒色テントとそっくりのパフォーマンスだった。

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マルマリス湾

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まるで前田大作のような写真だ

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翌日フェリーでギリシアのロドス島に渡る為この日にはマルマリスに到着しておかねばならなかった。パタラからは結局7時間ほどかかった。この移動でも不思議な事があった。途中フェティエという町でバスを乗り換え、4時間ほどかけてマルマリスに向かうのだがバスセンターのおじさんが「あんたらどこに行くの?」(僕はトルコ語はメルハバしか知らないのだけど簡単な質問ならなんとなく分かるのだ)と聞くので「ロドスに行きます」と答えた。するとそのおじさんは動き始めたバスまで追いかけて来てマルマリスに着いたらここにいけとペンションのカードを渡すのだ。すると今回も案の定、マルマリスのバスセンターにアル・ゴアを若くしたようなお兄ちゃんがいて、自分のペンションに連れていくのだ。

でここから先を書くと長い話になるので、結論から言うと夕方の5時を過ぎていたにもかかわらず、翌日のフェリーのチケットも無事手に入り、嘘のようにうまくことは運んだのだ。しかし、私たちにしてみればバスセンターのおじさんやペンションの兄さんやフェリーの切符を用意してくれたおじさん達がどのような意図で、結びついているか理解できず、とても不安でもあり、不思議でもあったのだ。トルコはコネ社会なのだろうか?その日はその宿に泊まっていたトルコのサラリーマンのおじさん達と色々話をした。

クサントス、レトゥーンは二つで世界遺産になっている。そのあと私たちの滞在しているパタラの遺跡にも行ったが、パタラの遺跡は想像していたよりもずっと良い。クサントス、レトゥーンよりも良いのではないかと思った。皆それぞれスケールのでかい遺跡群であった。リキア文明、リキア文字については大変興味深いものがある。リエカに戻って改めて調べ直したいと思っている。


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パタラのメインストリート


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以下クサントスの遺跡

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以下レトゥーンの遺跡

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以下パタラの遺跡

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アンタルヤから2時間ほどかけてカシュに移動する。

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カシュの町

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岩窟墓(リキア時代)


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リキア文字


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古代劇場。向こうには紺碧の地中海。ほとんど人は来ない。


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幸運なことにペルゲ、アスペンドス、スィデの三カ所に行くツアーを見つけた。自分たちの足だけならば一つがせいぜいの距離である。その分かなりハードに動き回ったせいで体中が軋むように痛くなった。

ペルゲは紀元前数世紀以上前からの町である。町全体がそのまま残っている。

アスペンドスは紀元前10世紀からの町である。円形劇場は小アジア最大の規模であり、世界で最も保存状態が良いらしい。


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この辺りには滝が沢山あるそうだ。


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スィデ。ここに来た理由はこの町の名前がsideだからである

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夜行バスは絶対に避けようと思い、カッパドキア(カイセリ)-アンタルヤの航空便を探したがみつからず、また日中に行きつけそうなバス便もないためやむを得ずの強行軍になった。思った通り眠れなかった。これまでの中部アナトリアは春の季節であったが地中海沿岸のアンタルヤは既に夏であった。宿で眠っては却って調子を崩すと思い、真夏の日差しの中アンタルヤ考古学博物館へ。ここには後に行くペルゲ遺跡でみつかった彫刻が多く展示されている。イスラム美術も含めて収蔵品はかなりある。彫刻は2世紀のローマが中心でそれほどでもない。途中意識が朦朧としてきたので人気のない視聴覚室のようなところを探し出し、2人とも30分程仮眠をとる。博物館で仮眠をとったのは始めてである。


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ハドリアヌス門

イスタンブールで既に宿を予約していたため昨日はギョレメからユルギュップという町に夕方移動して宿泊した。ギョレメ屋外博物館を昨日は見れなかった(一昨日に夕方散歩で外からみただけ)ので、朝ネヴシェヒルという拠点の大きな町に行き、その夜の夜行バスの切符を購入、荷物を預け、再びギョレメへバスで(30分ほど)移動。そのユルギャップの宿は値段のわりにひどかったので、こんなことならギョレメに2泊すればよかったのだが。
ここではほとんど触れていないがそういうことは旅にはつきものとはいえ、結構疲れるものだ。

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ユルギュップの町

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ギョレメ屋外博物館はギョレメにある岩窟教会が集中している場所にある、オープンエアーのエコロジカルミュージアムである。ここはカッパドキア観光のハイライトの一つなのであろう、また日曜日というせいもあり大変な人が訪れていた。日本からの団体観光客を3組も見た。これまでトルコで見かけたアジア人の団体は圧倒的に中国でその次が韓国であった。カッパドキアは日本では人気があるのだろう。

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ギョレメ博物館を出てすぐのところにあるトカル・キリセの教会。10世紀後半

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ギョレメ屋外博物館を見ている途中、妻が教会と間違えて入った場所は管理事務所のようなところであった。そこにいた偉そうなおじさんが一人でターキッシュティーをいれていて、お茶に興味のある妻にいろいろ講釈をしてくれた。その人が君らは団体かと聞くのでいや2人で旅していると答えると(その間事務所には部下が何人もやってきてあわただしくなったのだが)トカルキリセの所でサリというやつが君らを待っている。彼が君たちをスペシャルな場所に連れて行ってくれるから行きなさいといってメモを渡してくれた。彼のサインとsaliという名前と20リラと書いてあった。一応サンキュウといってもらって別れたが、これは善意なのか、営業なのか理解に苦しむ所だ。もちろんこれまでの旅の過程でトルコ人は押し並べて親切で人が良く、治安もよいということは分かっているが、当然そこは観光客相手の部分もあり、営業なのか本意なのかそのトルコ的ごちゃ混ぜなのか、まだそこのところの見分けがつかないのだ。(多分ずっとつかないような気がする)
トカルキリセを出たころには我々はそのことを忘れかけていた。すると地味な無精髭のおじさんがやって来て君らをドライブに連れて行きたいがと行って来た。メモを見せてあなたはサリさんかと問うとそうだという。少し迷った末、どうせその日は夜行バスだし、時間はあるし、予定もなかったのでサリさんのオンボロ自動車でドライブに連れていってもらうことにした。行ったのは3カ所であったがガイドブックに載っていない場所で、アシュクバディシとペリバカラルバディシ、アヴァロンの丘の三カ所である。2時間程。最後アヴァロンでは絨毯工場に連れて行かれた。
ここでイソさんという人が出て来て流暢な日本語で解説をはじめた。実は我々は2人とも絨毯好きなのでまずいと思ったのだが、織りの現場から繭から糸の取り出し、染色と丁寧に見せてくれるし、こちらも興味ありありなものだから真剣に聞いてしまう。問題はさっきのことと同じで私たちは現時点で買う気がないということなのだった。そこで途中でイソさんに悪いが私たちは長旅の途中なのでそんな買い物なんかできない、説明してくれるあなたに悪いからというと、イソさんは泣きそうな顔をしながら私は久しぶりに日本語がしゃべれるだけで嬉しいんだ、買わなくてももちろんかまわない。ぜひ最後まで紹介させてくれという。素直に信じた訳ではないが、成り行き上しょうがないのでそうすることに。最後は畳三十畳くらいの部屋に我々をソファにこしかけさせ、イソさんは次々に床に絨毯を部下に広げさせて説明して行く。何十枚も。話しながら興奮している。これは凄いと思うものが確かにあった。(結局は買えないのだけど)イソさんとは握手をして別れた。
後で思ったのは私が絨毯を好きになった原因は少なくとも二つある。一つは小学校3〜4年の頃我が家に新しい絨毯が来た時の母が幸せそうだった記憶。もう一つはコッポラの映画ゴッドファーザーパート2だ。デニーロ扮する若き日のコルレオーネが友人から子供の誕生祝いに絨毯をあげると言われ、いそいそと彼のあとについて行って結局絨毯泥棒の片棒を担がされるというユーモラスなシークエンスがある。またここで絨毯は新しく生まれた命、ファミリーを包むとても重要なメタファーとして表されている。このシークエンスは無声映画のように言葉がほとんどなく映像だけで描かれていて、コッポラの全ての映画の中でも最も冴えきった映像だったと記憶している。(撮影はゴードン・ウィリス!)それに単純な僕は影響されて結婚した時とか子供が生まれた時に絨毯を買ったのだった。(もちろん高級品ではありませんが)

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夜行バスでアンタルヤに向かう。
地下都市も地上都市も穴を掘っている限り同じなのだと思う。モグラと同じで遠近感はなくなるだろう。誰もが「どうして」と思う場所だが、アラン諸島やディングル半島を旅した身からするとそのことは特別なことじゃない。ように思える。人間はもともと穴に住んでいたのだ。ここでは、ただ試しに掘ってみたらその岩が意外にもろく、簡単に掘れたから、掘る事がやめられなくなり、それが遺伝子にまで染み付いたのではないかと勝手に考えた。住居とは何かを考える上ではここは大変興味深い場所である。

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宿のバルコニーから、ギョレメ村を見る。
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ギョレメパノラマ。

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向こうに見えるのはウチサヒルの町。

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カイマクルの地下都市。僕の悪夢パターンのベスト2は高所、穴(閉所)であるがこの日は二つとも現実のものとして味わうことになった。興味深いが絶対に住みたくない場所である。写真は暗すぎてあまり撮れなかった。掲載しているのは比較的広い場所で、ようやく通れる位の穴が随所にある。多分多くは暗闇の中で生活していたのではないか。

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ここは地下5階といわれているがそのようなエレベーション感覚は住んでる人間にはなかったのではないだろうか。

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敵の侵入を阻止する仕掛けが至る所にあるそうだ。ここを襲う敵とはどのような人たちだったのだろう。

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各階をつなぐ通気口。ここには礼拝堂、教室、食料庫、井戸、厨房、ワイン醸造所、ゴミ処理施設、お墓など全てがあり、2万人が住んでいたという。それなりに機能的にできていて、例えば日本のマンションとどこが違うのか?と考えてみると、「同じかも」という感想も出て来るのだ。

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通気口から上を見上げる。

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ウフララ渓谷

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岩の中にある教会や礼拝堂。

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フランス、トルコ、カナダ、オーストラリア、日本、国籍混交のツアー。お昼ご飯。

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ゼルヴェ峡谷。ここがこれまでで一番興味深い場所だった。観光客も少なくゆっくり見る事ができる。

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ピジョンヴァレー(鳩の峡谷)。木にぶら下がっているのは魔除けの目。

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岩に暮らす人々の生業はワインの生産だった。彼らは鳩を飼いその糞を飼料にしていたらしい。

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まるでマグリットの絵のような...。




ハットゥシャシュのあるボアズカレ村はとても良い所でここにもう一泊する予定だったが、これからの移動の時間を考えて、悩んだ末、カッパドキアに向かうことにする。ボアズカレから大きなバスセンターのあるヨズガットには公共交通機関はなく、昨日案内してくれたタクシードライバーの携帯に電話し、送ってもらうことにする。約40キロ。ヨズガットからカッパドキアへのバスは13時からで時間が余ったので、町で一番大きなデパート(4階建て)のインターネットカフェへ。ここで作業中突然「カーネルサンダース現象」というトラブルが発生。サファリが使用不能となる。(その後自動修復したらしく現在は問題なく動いている)カッパドキアのネヴィシェヒルに4時到着、客引きにだまされそうになるが運良く目的地ギョレメ村へのドルムシュを発見。ギョレメ村には夕刻到着。この日は宿を決めてなかったので荷物を引きづり宿探しを行う。夕刻、屋外博物館まで散歩する。カッパドキアには地下都市を見たくて来たが思ったより広大でどう見て行くかしっかりした計画の無かった私たちは少し途方に暮れたのだった。

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ヨズガットのバスセンター。向こうに見える少し高い建物がデパート。
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アンカラのオトガルからバスに乗ってスングルルの町まで約3時間。スングルルから目的地ボアズカレ村までドルムシュという小型バスがあるはずなのだが、何しろ始めての場所なのでバス停の位置も何もわからない。やむを得ずタクシーで向かう。(約20km)この旅ではなるべく公共交通機関を利用しようと思っているがなかなかうまくはいかない。しかしお陰で予定よりも早くボアズカレ村に着くことができた。タクシーの運転手とのやりとりや宿を決めるプロセスもいろいろ事件がありおもしろいのだが時間がないので省略。
ハットゥシャシュは3000〜4000年前のヒッタイト人の築いた王国である。それまでの緑の少ない丘陵の中にここは緑が比較的多く、昔から美しい場所であったことが想像される。遺跡は丘全体に広がり全体を見て回るのに約7キロ歩く。そこから3キロ、北東にヤズルカヤという露天の神殿があり、そこも訪ねる。約5時間で14〜5キロ程(半分は上り坂)歩く強行軍であった。
ここではかつて1万枚もの粘度板が発見されたところとしても有名で、その粘度板によれば2千キロ離れたエジプトと交流があったことがわかっている。ヒエログリフとくさび形文字の交流の跡が見られる。王国の遺跡は大変ダイナミックでかつてここに建っていた状況を想像するだけでわくわくさせられる場所である。何故か観光客は少ない。村には一件の宿しかないのだ。人々は大変素朴である。
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ハットゥシャシュ
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大神殿

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古堅さんに似たタクシードライバーがやってきて小一時間程熱心に解説してくれた。翌日彼にタクシーを頼むことになる。
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ライオン門
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ライオン門の外
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スフィンクス門地下道
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城壁
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スフィンクス門

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ニシャンテベ。古代文字が書かれている。
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ヤズルカヤの神殿へ、谷をおりて再び登る。
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アンカラの目的はこのアナトリア文明博物館に来たかったからだ。アナトリアのヒッタイト時代はもちろんのこと、人類最古の集落と言われるチャタル・ホユックの遺物もある。紀元前7000年の集落である。これをみればほぼ9000年前にいかに高度な文明が存在していたかがわかる。イスタンブールの古代東方博物館とならんでスペシャルなところ。全く期待は裏切られなかった。このあと、その遺物が発掘された場所、ハットウシャシュにいくのだが。ここに掲載した写真はごく一部である。

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アウグストウス神殿跡

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ローマ浴場跡

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アウグストウス神殿側の住居


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旧市街からバスセンター(オトガル)がある新市街へフェリーで行く。料金は安くしかも大変気持ちの良いルートだ。

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アンカラへはバスで約6時間。バス会社は競争が激しくサービス合戦をしているらしい。まるで飛行機のようにスチュワードのような車掌が飲み物やケーキを配る。

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夕方アンカラ到着。ここが首都になって80数年、6万人の都市から320万の都市にしたと聞いてもっとモダンな街を想像していたが、街はお世辞にもきれいとはいえない。排気ガスが結構すごいし、全体的にはカオティックな印象を受ける。

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ひとまず一番高い場所、アンカラ城に行ってみる。

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息をきらして城の中に入るとそこは意外にも町(集落)があった。後でこの家々が一夜建築と呼ばれている事を知る。こどもたちがわらわらと遊んでいる。城は閉まっているときいていたが、子供の一人が城まで連れて行くという。半信半疑でその子の後について迷路のような一夜城を通っていくと確かに城に登る事ができた。(良いのかどうかしらないが)その子はちゃっかり1リラ(約90円)を案内賃として要求してきた。

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城の中でサッカーをする子供達

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丘の上がアンカラ城

色々書きたい事もあるがこれ以上やると旅自体に支障をきたすのでとりあえず写真のみ。
行った場所は国立考古学博物館、古代東方博物館、装飾タイル博物館、アヤソフィア博物館、トルコ・イスラーム美術博物館。

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国立考古学博物館、古代東方博物館、装飾タイル博物館の三館は同じ敷地内にあり、大変素晴らしい。右手は国立考古学博物館、左手奥が装飾タイル博物館、手前に古代東方博物館がある。アレクサンダー大王の石棺の素晴らしさは完全に僕の想像を超えていた。

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大王の石棺
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装飾タイル博物館
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アヤソフィア博物館
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トプカプ宮殿はいわずとしれたオスマントルコ帝国時代の歴代支配者(スルタン)の超有名な居城である。巨大であり、財宝のかたまりである。見て回るのにもかなりの時間がかかる。ハーレムもある。まあ色々、すごいです。が実はここでも一等感動したのは視覚的なものではなくてコーランをずっと読み(詠い)続けている僧侶がいて、その声とメロディなのであった。何故かはわからないが。触覚の次は聴覚か。

その後エジプシャン・バザールを歩き、町中をさまよいながらスュレイマニエジャーミー(中が工事中でステンドグラスは見れず)、シェフザーデバシュジャーミーなどへ。京都の寺周り感覚です。祈りの前に水道で手足を洗う若者が印象的であった。日本の神社ならば手と口を漱ぐくらいだけど、ここの人たちは銭湯で身体を洗っている様子を想像していただきたいのだがもっと真剣だ。その後ローマ時代の遺跡バレンス水道橋を見、古本街からグランドバザールへ。グランドバザールは本当に迷路のようで実際かなり迷ってしまった。

そこでくたびれ果てたころ夕方なのだが、昨日行ったブルーモスクに再訪。

帰路、疲れたのでやめようかと言っていたのだがローマ時代の地下宮殿なる所に行く。ここはたいした所ではないと思っていた。古い家を壊したら地下からローマ時代の柱が出て来ました、くらいのもんではないかと。ところがこれが大間違いで、本当に地下に巨大な宮殿があり、その床は池のように水がたまり魚さえ泳いでいるのだ。ここには28本の列柱が12列、計336本あったそうである(現在見えているのは246本)。4世紀から5世紀にこれは貯水池として作られたという。私たちが昼間見たバレンス水道橋を通って来た水がここに貯水されていたのだ。この空間が千何百年もの間暗闇に眠り続けていたことに不思議な感動を覚える。昨年のゼミ生、荒尾君の時間論を思い出す。この暗闇の時間イメージの不気味さはニュートン的ではなくライプニッツ的である。20年程前に掘り起こされた列柱の台座になっているメドゥーサの首は横向きで恐ろしい。それにしても貯水槽のためにこの規模と構造の空間を作るなんて。この時代その最盛期を過ぎていたにもかかわらずローマ人のやることは凄いなと思わせられる。その後ブルーモスクの下には実はまだ発見されていないローマの宮殿が眠っているのではないかと勝手に夢想してしまった。

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以下トプカプ宮殿

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宮殿テラスからボスポラス海峡を望む

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エジプシャン・バザール入り口

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ジャーミー巡り。名前を覚えきれず。

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バレンス水道橋

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古本屋街

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再びブルーモスクへ。どこかの美大の先生と学生だ。イスタンブールで古美研も最高だね。

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地下宮殿(実際の見えよりも少し明るい)

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床には魚が泳いでいるのが見える。

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このメドゥーサの頭は逆さまで

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こちらは横向き。結構怖いでしょ。


5時半に目が覚め、6時に宿を出て歩いてバスセンターへ。空港まで30分。ザグレブ空港から9時過ぎ発のプロペラ機でミュンヘンへ。ミュンヘンでトランジットしイスタンブールへ(直行便がないのでかなり遠回り)。今回のトランジットタイムも1時間弱だったが飛行機は遅れも無く無事に到着。空港からのシャトルバスでマルマラ海峡を右手に見ながらアクサライまで約30分(久々の交通渋滞)。トラムに乗り換え3つ目の停留所がスルタンアフメットで私たちの滞在場所である。イスタンブールは大きく旧市街、新市街、アジア側の3エリアあり、スルタンアフメットは旧市街にある。新市街には金閣湾を橋かフェリーでわたり、アジア側にはフェリーでボスポラス海峡を渡る事になるが今回の私たちの滞在目的場所は全て旧市街にある。宿から歩いて78分の所にスルタンアフメットジャーミー(別名ブルーモスク、ジャーミーは寺院)がありここには時間制限(お祈りの時間以外)がないので夕方入ってみる。ここは日本のお寺と同じで靴を脱いで入る。床には絨毯がびっしり敷き詰められている。靴を脱ぐということがアジアとヨーロッパを分けているのだと何となく実感。絨毯の柔らかい触覚がかえってここで冬祈る時の寒さを感じさせる。この地で美しい絨毯が生まれたわけがわかるような気がした。この感覚が意外にもドームの視覚的な凄さ(スペクタクル)よりも印象深いのだ。

この寺院の横は昔のローマの大競技場跡であり、テシオドス一世とコンスタンティヌス三世のオベリスク(石柱)、途中で折れている青銅の蛇の柱がある。

夜は環境の急激な変化と前日のゼニート事件などの影響か、疲れているはずなのに眠れず。ブログの58日分はこの眠れない時に書いたもの。朝方4時過ぎにやっと就寝。朝方街のどこからかコーランの祈りの声が聞こえる。二日続きの睡眠不足は旅の敵である。


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ブルーモスク

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アヤソフィア

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ブルーモスク(スルタンアフメットジャーミー)正面

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オベリスク

9時のバスでザグレブへ。12時到着。さすがに首都だけあってリエカよりはずっと大きい(しかしロンドンや東京に比べれば驚く程小さな首都である)。

博物館や教会など街の主要なものを徒歩圏内で見て回れる。

(ここから先は僕の本に関するきわめて個人的な記録なので興味ない人は飛ばして下さい。)

そして一渡り見た後、古本屋があったので2軒ほど覗いてみた。グラゴール文字について欲しい本があったので訊いてみたが置いてなかった。ザグレブへはまた来る予定もあるし、そろそろ宿に帰ろうかということになってぶらぶら歩いていた。そうしたらいつもの本の神様がまたもや唐突にやってきて奇跡を起こしてくれたのだ。(このことについてはかつて一緒にパリを散歩していて現場を見たことのある陣さんは説明抜きで信じてくれると思うのだが、僕には本の神様がついていて時々必要な場所に思いがけなく連れて行ってくれることがあるのだ)。今回も歩いている途中、通りからたまたま普通ならば入らないような路地がふっと見え、何故かそこにその時だけ吸い寄せられるように入る僕なのであった。妻は突然の僕の不審な行動に何事かと驚く。路地の奥はなんてことのない中庭になっていて地元の人だけが集まるような小さなカフェがあるだけ。何もないし人もいない。ただその向こうにガラス張りのビルの一角が面している。その佇まいが何となく銀座のgggギャラリーを小さくした感じなのだ(わかる人にはわかると思う)。なんの事前情報も無いのだが吸い寄せられるように迷い無くそこに入る僕。するとそこは予感どおりグラフィック専門のギャラリーで、何かの展示のオープニング5分位前だったのだ。人がにわかにごったがえし出し、テレビカメラのクルーもいる。まるでそこに呼ばれたゲストのようにいる僕(多分謎の東洋人に見えただろう)。その奥にメインエヴェントのように飾られてあったのが写真の本である!そばにいたおじさんに自己紹介し、突然でしかも偶然で申し訳ないのだがこれはいったい何の展覧会かと聞く(後で考えればとてもおかしいシチュエーションだ)。そのおじさん(ひょっとしたらクロアチアで有名なデザイナーの一人だったかもしれない)はとても親切に答えてくれる。ここのギャラリーのオーナー(あそこにいるけど今テレビのインタビューで忙しそうだ。ちなみに若い女性)がこのたびユーゴスラビア1920年代の主立ったアヴァンギャルドの雑誌(ざっとみて20冊は下らない)をコンプリートにリプリントし、今日はそのお披露目のパーティーなのだという。そのリプリントの中にはあのリシツキーが表紙をデザインしたゼニートが燦然と輝いているしダダもある。ゼニートについては今までオリジナルを見た事はなかった。そうこうするうちに会場は人で溢れ出すしオーナーの彼女とはどうせゆっくりは話ができそうにないので立派なパンフレットをもらい、トルコ旅行のあとちゃんとアポイントメントをとって来ようと決め会場をあとにしたのだった。

当然僕は興奮していた。

(あのおじさんに)ゼニートは本当にここザグレブなのか?

表紙にはベオグラードって書いてあるじゃないか?

いやここザグレブで発行されたのだ!

1922年という年はリシツキーがモスクワからベルリンに行き二つの正方形の物語やベシチをデザインした輝かしい年だ。ということはベルリンへの途上でユーゴスラヴィアに寄ったのか?それともその後の進歩派芸術家会議によるものか、頭を想像がぐるぐる駆け巡る。

(こういうことを奇跡と言わなくて何と言ったら良いのか?何で彼女は今ここでリプリントをしたのか。そのお披露目が何故今日なのか。何故その日に僕はザグレブにいるのか。なぜあの時間にあそこを僕は通りかかったのか。何故あの路地に何かあると僕は感じたのか。)

12年前パリの古本屋で同じようにリシツキーの「USSRコンストラクション」を発見し、翌々日に「声の為に」に出会いそれがきっかけとなり日本で展覧会を企画し本を作るはめになったのだった。今回大英博物館でパスをもらえたことやグラゴール文字と滞在先の関係など、密かにいつもの本の神様の差配と感謝はしてはいたのだが、まさかリシツキーのゼニートにここで引き合わされるとは!

リシツキーが「もっと研究を深めよ!」と言っている。いやそう言っているのは僕の本の神様か。


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宿のそば

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ザグレブ考古学博物館。ザグレブで最も古いエレベーター。

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ザグレブ歴史博物館

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荷造り作業。気持ち的にはトルコはもう夏ではないかと思えるのだがネットでみると意外にもクロアチアよりも気温が低かったりする。可能な限り荷物の重量を減らす事に腐心する。東京からではなく中継地点ともいえるクロアチアからの旅なのでかなり思い切った軽量化が可能になった。お昼にソボルさんと(結局充電中に床に落として調子の悪くなった)携帯の換わりを購入に街のセンタービルという最も大きなショッピングセンターに行く。その後エスプレッソを飲みながらソボルさん自身についての質問や僕のデザインの事について話をした。彼はいわゆる得度したというのか、相当長期間の修行を積んだ真言密教の立派なお坊さんだったのだ。ヨーロッパ全土で50人以下という。何故とかどのようにについて書くと長くなるのでまたいつか。彼の修行が生半可なものではないことだけは感じる事ができた。

また僕がデザインについて考えてきたことと(その社会的な存在の意味など)彼が何故仏教にひかれその世界にはいったかについてその理由はほとんど同じだね(これはソボルさんの言葉だが)という話になった。ただのモダンでもなく、がちがちの伝統主義者でもなく、伝統を可能な限り深く理解した上で、それと今をいかにクロスさせるかに興味があること、その時重要なのはフォルムではなくて「ホーリスティックな生成している状態」であることなどなど...。

その帰りに「あそこには何があるの」と以前僕が質問したのだがリチエナ河の奥の谷に車で連れて行ってもらった。残念ながら電池切れで写真には残せなかった。ここは近代産業の工場等の廃墟あとで現在はロックコンサートなどが開かれているという。また第二次大戦中の戦争の不気味な遺物もある。ここにこれから5年くらいかけて建築、美術、デザイン、音楽の専門家が集まる芸術地区を作る計画があるそうだ。ユーゴスラビア紛争の後、その傷も次第に癒えてこの街も大きな変貌を迎えようとしているように見えた。

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街にあるクロアチア航空のオフィスで次のフライトのリコンファームを行う。ブログの更新作業。帰りはバスではなくペダル・クジッチの階段621段を登ったがあとで膝が痛くなってしまった。家に着くとマイーダさんが来ていてダリンカさんが庭に作っている菜園の野菜を何でも好きなだけ持って行けという。おかげで今晩の夕食のサラダはいつも以上にごちそうになった。また香草も何種類かいただいた。魚の料理やスープなどに香草は欠かせないが、こちらのマーケットではいまいち分かる香草がなかったので妻は感激していた。また僕たちの為にダリンカさんはトマトを育ててくれているらしく、あなた達がトルコ旅行から帰って来たら出来てるよみたいなことを言っていた。楽しみだ。

リエカでは皆さんのお陰で落ち着いた日々を送る事ができ、また予定通りの日程を消化することができた。他のヨーロッパ諸国へ移動する際にフェリー、バス、電車、飛行機のどれがベストなのかについて等未だに良くわからないとこは沢山あるが実際やってみなきゃわからない事の方が多いのだろうと思う。

いよいよ48日から次のトルコへの旅が始まるのでだんだん緊張感が高まってくる。

今朝は5時半起き、6時過ぎに家を出ました。

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いつも乗っているバス

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イストラ半島中部、ブルサル-オルセラの村

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ロヴィニィ手前のリムスキーフィヨルド。アウトドアスポーツの名所らしい。

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ロヴィニィ到着。今日はあいにくの雨模様である。

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旧市街への入り口バルビ門。かつてはここは海で旧市街は島だったのだ。

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聖エイフェミヤ教会。エウフェミヤはローマ時代に迫害され車輪で拷問されたうえ、コロッセウムでライオンにかみ殺され殉教したといわれる人。塔の先端には車輪とエウフェミヤの像がある。

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港から旧市街エウフェミヤ教会の尖塔が見える。

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バスで約1時間、ローマ時代の古代都市、ポレチュへ移動。あいにくの雨だが濡れた石畳の色が美しい。

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エウフランシス・バジリカ。世界遺産に指定されているらしいが、ビザンチン・モザイク?という感じで始めはあまり興味がわかなかった。そもそもビザンチン美術についてあまり良い印象を持ってなかったので。しかしその考えはかつてリシツキー研究のためロシアのサンクトペテルブルグに行った時ロシアイコンの凄さに驚いたのと同様に、考えを改めさせられた。この教会は美しい。

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現教会床の下にある古いモザイクの床。

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塔の先端に昇る

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ポレチュの街並

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ローマの神殿遺跡。

大掃除。ブログの更新。次の旅の準備など。

昼間、例のごとくコンチネンタルホテルまで出かけて、ブログを更新していたらトラブル発生。せっかく更新した半分がだめになる。いろいろやってみたがうまくいかず急遽、設計者であるあきお君にヘルプのメール。その後、彼の迅速な対応のおかげで無事復旧しました。ありがとう。その他、次回の旅の目的地であるトルコについて、かつてそこで数年暮らしていた後輩のえびりんに色々質問をし有用なアドバイスをもらったりした。とにかく遠く日本を離れてもパソコンとネットワークのお陰で助かることが多い。時々、もし今持って来ているノートブックがいかれたらどうなるのだろうと少し不安にもなる。えびりんは確か僕の4級下の後輩になる。彼女からのニュースによればその1級下の落語家林家たい平(師匠)が今回文部大臣賞なるものを受賞したとの報せが。みぎわさんとお祝いの会に行くそうである。彼が学生当時皆と伊豆の印刷工場見学に行ったのはもう二十数年昔のことなんて信じられないなあ。

この旅の記録をどうするかについては少し迷った。ヴィデオカメラは論外であった。まずどっちみち帰国した後、見直す時間がない。結局、写真機をどうするかに尽きた。ニコン某、キャノン某の高解像度デジタルカメラを買うべきか。あるいは新島さんは僕に「寺さん、プロなら記録はデジタルなんてだめだよ。フィルムでとらなきゃ後で使えないよ」などとプレッシャーをかけるし。しかしデジカメとアナログ両方持って行くなんて箸と筆とマウス以上に重いものを持った事の無い育ちの僕には無理だ。

いや、実際は年のせいですが、とにかく重いものをかついで旅する根性はないなあと思って悩んでいたのだった。結局、一緒に事務所をやっていた大村麻紀子嬢が持っていたかっこいいカメラをみて(昨年)欲しくなって、単にまねをしてそのカメラにしたのだった。それが今回使っているRICOH CAPLIO GX100である。フィルターも何もない。20代の頃はニコンのFEというカメラがいつも鞄のなかにあって自分の身体の延長のようになっていた時期がある。30代の10年は仕事でも写真はプロのカメラマンまかせになり、自分では撮影しないし、もっぱら子供を撮るのに専心していた。そんなこんなで20代のようなカメラ感覚はどんどん薄れていた。そのうち世の中はデジタル化し、そういったカメラも必要にかられて時には使ってはみたものの、かつてニコンのFEを使っていた自分の目の代わり的な感覚は全く失われていたのだ。しかし今回の旅で久しぶりに毎日のようにカメラを手にしていると、それなりに感覚というのは戻ってくるもので面白い。フィルムと違って必要な時にはその場で確かめられるなんて夢のようだ。(もちろんその場で確かめられない良さ!というのもありますが)解像度が問題なのはしょうがないと思う事にしている。使う機能はマニュアルでシャッタースピードと絞りを調整するだけ。デジカメ特有のいろんな機能は全く使いこなせてないが(その気もないせいだが)面白いのはオートにしていると聖堂や博物館などの薄暗い場所でも勝手にカメラが補正して実際よりも明るく映る事だ。だから単なる記録というよりも別の画像を見ている感じもある。僕はカメラについているフラッシュがきらいなので全く使わない。基本的には室内ではロースピードシャッターになる。最初は15分の1で危ないかなあと思っていたが、最近は2分の1秒であまりぶれなくなりましたよ。気合いでしょうか。

そしてここまで書いてようやくふと気づいたのはレンズがニコンFE時代と同じ28ミリであること。今のカメラはズームもついているが必要じゃない限り使わない。当時はTTLと言って露出計を使わずにレンズを通して測光出来る事自体が新しかったし、プロは光の様子から絞りとシャッタースピードが即座に分からないようじゃ写真撮る資格は無いなどと言われていた。学生でズームなんて使っていたら写真の先生に怒られたものだ。28ミリという画角は僕にとって機械的な制約でもあるが、それゆえ自由に振る舞える無意識的な枠だったのだ。これは個人的なことではあるがちょっと感動的な発見である。

この日は読書、洗濯、昼寝!(かなり疲れているのかもしれない)食料の買い出し等。

ついにリエカの西、イストリア・ペニンシュラへ。ここイストリア半島は内陸部がいわゆる山岳都市、沿岸は港町で全く異なる二つの風景を見る事が出来る。山岳都市というか山のてっぺんに古い集落がある場所は一般の観光客が訪れるのはなかなか難しく、ソボルさんがそのうち車で行きましょうといってくれている。この半島はトリュフとワインの産地であるらしい。

半島の南端に近い街プーラへ向かうため朝7時に家を出る。偶然ダリンカさんの夫、ユリックさん(大家さん)の外出と鉢合わせをしたので、バスセンターまで車(ベンツ)で送ってくれた。ユリックさんの英語も私と同程度なのでちょうど良い感じで会話する。70歳だそうだ。自分用の船も持っていて奥さんと釣りに行くのが趣味らしい。(この時はやたらでかい船を連想したのだが、後で自宅にあるヤマハのエンジンをつけた小さいボートを見せてもらうことになる)自宅には2台も車はあるし悠々自適の老後といったところか。娘のマイーダさんは私の幼い頃は「ここ(トルサット)じゃなくて、つまらない労働者アパートに住んでいたのよ」と言っていたが。70歳にしては僕の知っている人から見ると少し老けてみえる。僕の日本での知り合いが皆異常に若いせいかもしれない。

この日はプーラに宿泊して半島西岸のローマ時代の遺跡を追って、ロヴィニィ、ポレチュと回る予定だったが観光客の多さに圧倒されたせいもあり、プーラだけにしてリエカに戻ってきてしまった。リエカが自宅化したせいか変なホテルに泊まるよりも帰ってきたくなったのだ。行きはトンネルを使った高速で半島を途中まで横断して南下。帰りは沿岸沿いのルート。それぞれ2時間と2時間半。日本で言うと自宅から鎌倉への小旅行という感覚に近いか。ドライブ中も風光明媚で見応えがある。美しい海と山の間に宮崎駿のファンタジーに出て来そうな村や港を通る。ユーロ圏の人々が大挙して訪れる訳が分かるような気がした。(しかも幸いな事に日本的な渋滞とは全く無縁である)

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朝リエカのバスセンター

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プーラにあるローマ時代の円形劇場。ローマ、ボローニャに次3番目の大きさと言う。ほぼ完璧な形で円形が見られる。現在でも5000人収容のコンサートが開かれ現役である。往時は2万5千人。地下室が展示場になっていた。

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地下展示場

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ここをかつて拳闘士達が駆け抜けたのだろうか。

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街にいくつか残っているローマ時代の凱旋門の一つ、セルギ門のディテール。

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アウグストゥス神殿。かなりの変形が加えられていてもプロポーションは抜群に美しい。

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聖マリア・フォルモッザ教会周辺。ローマ時代の石の破片がごろごろしている。

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フランチェスコ教会。ここの聖堂は静謐で美しい。

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イストリア歴史博物館(昔の城跡にある塔)から街を望む。向こうにコロッセウムが見える。

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城壁にある朽ちかけた物見の塔。

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古代ローマ劇場跡。上が昔の城壁である。

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劇場としては完璧なサイズだと思える。

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イストリア考古学博物館

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博物館入り口

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帰路

今日はメーデー。ここクロアチアもお休みの日。

携帯電話の調子が悪くソボルさんが様子を見に来てくれる。ささやかなお茶会を開く。水がどうも日本と違うので香りが弱いのが気になる。ソボルさんに水のことを聞くがリエカは背後に山脈をかかえているので水は豊かでおいしいという。水道水ももちろん飲める。日本と比べて水温がかなり低い。ただし岩盤はライムつまり石灰岩なので水質は軟質なのか硬質なのかここでは知る由もないが日本の水とはあきらかに異なるのだ。(それに比してイストリア地方の水は飲めないそうだ)

ところでソボルさんは何と16才の時に「茶の本」を読んだという。それだけではなく「宮本武蔵」と「五輪の書」「葉隠」もだ。(これらは英語経由でクロアチア語訳があったという)全くどういうやつだ。リアリ?

ましてや僕も気になっていた本だが読んでなかったアレックス・カーの「美しき日本の残像」を知っているかと聞く。はじめは原タイトル「Lost Japan」というので分からなかったのだが。これは確か松岡正剛さんが千夜千冊でとりあげていて僕も「読みたい本リスト」にあげてはいたのだが未読であった。ちょっと悔しい。彼から日本の大本教や神道、合気道について矢継ぎ早に質問されたがほとんどまともには答えられなかった。息子が合気道をかじっているので聞いた名前は出て来たが。

「ディエゴ・ソボル 君は何者か?」

彼は小学生から中学生の間、父親の仕事の関係でチェコスロバキアのプラハで4年過ごしている。そこのロシアンスクールに通ったという。そこにはアメリカンスクールや地元の学校もあったが幼少時の教育はロシア式がベストだと思うと言っていた。

人間謎が多い方が楽しい。

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朝は少し雨模様だったが8時に家を出て島に向かう。リエカのバスセンターからクルック島へはバスが何便も出ている。目的は島の最南端のバシュカである。陸から島へは大きな橋で渡る。なんだか眠たくてバスに乗ったら催眠術にかかったように寝てしまった。3時間かけてお昼にバシュカ到着。教会は2時半まではお昼休みだから行っても中には入れないとインフォメーションで告げられがっくりしたが、とりあえず歩いて(2.5キロ程)行ってみる。街からかなり距離があるのであてにしていた教会近くのレストランもシーズンオフらしく閉まっていた。やむを得ず、目的の聖ルキア教会のまわりをうろついていると中から女性が出て来て見せてあげましょうと言ってくれる。まず最初に15分程のヴィデオ解説を見た後に教会の内部へ。

クロアチアも、このクルック島もそうだが陸地自体が石灰の巨大な岩盤でできており、山の上部は植物が生えず岩肌が見えごつごつした印象だ。山口県の秋吉台をもっとスケールアップした感じ(中学、高校の勉強不足がたたって地理的ボキャブラリーが貧困なのはお許し下さい)。平野部分の面積が狭く海岸線から直ぐに山が切り立っている。この教会はそのような岩山を背景に10世紀ころに建てられたもので、その素朴な形にはある種の強さを感じる。素朴ではあるが黄金比などの比率はかなり厳密に適用されていて、とても単純だが美しい。(昨年院生の金那姫さんと一緒にやった研究がこんなところに生きている)グラゴール文字の刻まれたタブレットが最初に発見された場所である。

またバシュカの街自体は細い路地が入り組んだ古い街で大変美しい所だ。近隣には「アパート貸します」のような看板が沢山あったので、夏はおそらく長期滞在のバカンスの客でごったがえすのだろうと思う。

帰りは1時間程バスでもどり、島最大の港町クルックで途中下車し遅い昼食をとる。ここも港に続く城壁に囲まれた旧市街は美しい。クルック島はワインの産地でもあるので一応買ってみる。

夜、岡倉天心の「茶の本」を読み出したら止まらなくなり、最後まで読了。この本は3度目だ。これは英文が収録されているのでソボルさんにあげるつもり。

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バシュカ郊外

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聖ルキア教会

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聖堂のみが残っている

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港町クルック

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城壁

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釣り人

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窓の修理をする尼僧

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帰りのバスの車窓から。リエカ近くの別の港町。

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終日雨らしいので、あんなに意気込んではいたが、朝KRK(クルック)島行きは断念する。この日あたりから一応ネットで天候を調べることにする。何せクロアチア・テレビの天気予報は短い上に分かりにくいのだ(クロアチア語なのだから当たり前か)。終日、次の長旅の準備をしたり(ほぼ旅程の大枠が決まる。見たいものばかりでかなり欲張りな計画を立ててしまったような気が)、日記を書いたり、いつものコンチネンタル・ホテルでブログの更新作業などをして過ごす。

このブログというメディアについて実際やってみると、改めて考える所もあるが長ったらしくなりそうなのでやめる。簡単にいうとこのブログ、あまり深く考えずにスタートしてしまった。つまり本来ならこれはメディアとして一体何の意味があるのかを熟慮すべきではなかったかと。(自分はそういう仕事の専門家のはずだ)また、もしデザイナーとして本気でやるのならもっと考えてスタートしたかもしれないとも思うのだ。

まあそんな小理屈は別にしても、(こうして幸運にも)全てではないにせよ日常の多くの義務やしがらみから一旦身を離すことが許されて、これまでずーっと見たいと思っていたものを見る旅の日々を記録し、一部ではあっても公開するなんてことは、人様からすればどうみたって自慢話にしか見えないよなと思ったのだ。気恥ずかしさの所以はそこにある。

しかしまあ熟考せずに物事にあたるのはきわめて自分らしいことでもある。難しく考えるのはやめよう。身内に手紙を書くような無防備さでいくしかないのだ。

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