2008年6月アーカイブ

買い出し。ダリンカさんに教えてもらった近所の別の小さなマーケットへ。歩いて約20分。ここのパイはおいしい。行くだけで汗だくになるが。

あとはひたすら読書。

「ギリシア神話」の続き。

「ローマ散策」河島英昭著 岩波新書。

8月の旅行の計画など。


以下ローマ覚え書きの付け足し。

ローマには本当に魅力的な本屋がたくさんあった。しかも美術書や映画の本専門である。店の構え、ディスプレイからして美しいのだ。街角を歩いているとそのことは気配からわかるものだ。

また当然ながら各美術館にはミュージアムショップがあってここにも多くの魅力的な美術書がこれ見よがしに(?)置いてある。

しかし!

今回、何冊かの例外を除いて本は買わなかったし、そのような本屋にも意識的に入る事はしなかった。

その理由は一旦入ってしまうと自分が冷静さを失ってしまうような気がしたから。

恐らくバッグに溢れてこの先読みもしない本まで買ってしまいそうな気がしたのだ。

妻は不思議そうに「本屋さんには行かないの?」と聞いたが。

ともかく今は本じゃなくて「実物、実空間!」だろと自分に言い聞かせたのであった。

「...」。

それで良かったかどうかは自分でも分からない。

次にローマに行ったときはどうなるのだろう。

河島さんによれば古本でいえばローマよりもナーポリが凄いらしい...。


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相変わらずの強烈な暑さである。

自宅でひたすら読書。「ギリシア神話」呉茂一著 新潮文庫。文体は少し読みにくくはあるが大変な名著だと思う。ヴィジュアルコミュニケーションに関するこのような本があれば良いのにと思いながら感動しながら読んでいる。

前にも書いたが自慢の船で(実はボートではなくちゃんとした船であった)アドリア海クルーズに出かけていた大家のユリックさんとダリンカさんが夕方帰宅。

夜、ユーロ選手権、ロシア対スペインをTV観戦する。スペインは何となくだが、もし日本が強くなったらこんなチームになるのかなあと思わせるタイプのチームである。全体に小柄だが機敏に良く動き、でかい相手に運動量とテクニカルな戦術で対抗する。でも時として技に溺れがちでもある。(にわか評論家をお許し下さい)ロシアはあのヒディングが率いるチームで前半は健闘していた。僕はこの試合は何となく無骨なロシアを応援することにした。前半は互角であると思われた。ところがハーフタイムの後突然ロシアは乱れだしぼろぼろになって負けてしまった。サッカーとは本当に不思議なスポーツだと思った。結果いよいよ、ユーロ選手権も大詰めでスペインとドイツの一騎打ちとなった。


今読んでいるギリシア神話でもそうだが、これまで旅した中で見たここクロアチア、そしてトルコ、ローマの様々な遺跡の中、競技場つまりコロッセオと劇場というのはどれも印象深いものばかりであった。(当時の人々がいかにそのことを大事にしていたかという意味で)

それで今日スポーツといっているものの意味が、それまでよりも僕にとって別の大きな意味を持っていると感じられ出したのだ。

僕らは子供の頃、スポーツは「余暇」だと教えられてきた。あくまでも普通の日常生活の付け足しの様な扱いであった。同じように学校では美術も音楽もそのような扱いであった。(日本における民主的戦後教育の成果?立身出世とは無縁の?)

しかし本当は違う。美術もスポーツも演劇も余暇なんかじゃない。何を馬鹿な事を...。

と2000年以上前のギリシア人やローマ人が言っている様な気がするのだ。


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今日はクロアチアの祭日である。朝から強烈に暑く、強い日差し。午後、昨日買った切符の再確認の必要が生じ再び駅に行くはめに。町は閑散としている。おそらくこの日差しの中うろうろしている人のほとんどが旅行者だと思う。私たちもついでに四たび博物館へ向かう。しかし何とまたしてもお休み。よほどこの博物館とは縁がないのだろう。博物館の前で愕然としている旅行者を見かける。その後歩いて駅に向かう途中のバスセンターの側の教会に暑さを逃れようと入ると何とここも閉まっていた。ここでもがっくりしている旅人がいた。私たちの近所、トルサット教会は開いているよと教えたかったが大きなお世話かもしれないと思い黙っておく事にした。

クロアチアでは(おそらく他のヨーロッパとアメリカも)6月から小中学校(多分高校も)は夏休みということだ。大学は6月までやっているところもあるらしいが。ともかく夏休みが3ヶ月と長い。日本の子供たちが聞いたらさぞうらやましいと思うだろう。それで町のあちこちにバックパッカーの若人たちを見かける。

夜はユーロ選手権のドイツ対トルコをTV観戦する。

やはりどうしてもトルコを応援してしまう僕であった。ドイツは一時トルコを植民地化していたのでお互いの国民感情はどのようなものかと考えながら見てしまった。(もちろん単純なものではないと思われる)

(にわかサッカー評論家になって恐縮だが)試合内容は実際僕にはトルコの方が好ましく感じた。結構良い試合だと思ったが残念ながら最終的にはドイツのつまらない省エネサッカーが勝った。

ともあれサッカーはどっちかに肩入れするというか応援して見た方が楽しいのだと思った。いつのまにかユーロ選手権の興奮に私たちも知らずのうちに巻き込まれているのかもしれない。このトルコに負けた(後で知ったのだが)クロアチアでは今でもTVのゴールデンタイムであの時こうしてれば的な番組を放送しているのだ。あきらめが悪いというかよっぽどくやしかっただろうなと思う。


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ダリンカさんとユリックさんは旅行で不在なので庭の水やりをする。


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午前中、次の旅のルートなどを調べる。

家の外に出る気が起こらない程、日差し強烈。日本でいえば高気圧の張り出した8月の初めあたりの感じです。そう山下達郎的です。

午後から一人で(妻は自宅で読書)例のごとくコンチネンタルに行きだらだら汗を流しながら23日までのブログの更新を行った後、7月1日のリュブリャナ行きの電車のチケットを購入の為歩いて駅へ。そもそもリュブリャナ行きの電車が動いているかどうかが不明だったのだが、7月1日朝5時20分のリエカ出発が決まる。(駅員はとても親切な女性だった)そのまま即日リュブリャナ空港からアテネへ向かうことになる。

夜、ドイツ、チェコなどの日程を検討。


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バルコニーの日よけの出し方を教えてもらった。


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カフェコント

旅の整理の続き。食料や日常雑貨の買い出しなど。


ソボルさん、マイーダさんが訪ねてきてくれる。私たちのこれからの旅程などを伝える。今後の計画は7月からギリシアに18日、オーストリア、チェコ、ドイツに14日ほどの長旅が控えている。これらの大雑把な計画は出発前に決めておいたものだが、ギリシア以外はルートをまだ決めておらずこれから計画を立てねばならない。リエカに到着してもローマの余韻にゆったり浸る時間がなく、少し慌ただしい。


ローマに関しての簡単な覚え書き。

このブログを読み返すとその場その場で無責任というか勝手でぞんざいな印象を書いていて我ながら恥ずかしいが、まあそれはライブということで保存しておこうと思う。ローマについてはもっと時間が経たないと書けないし、再度、訪れるつもりなのでおいおい書く事になるだろう。


ジェラートはさすがにどこでもおいしかった。いつも食べるのに忙しく写真など思いつきもしないので画像記録はないが。

その他食事のことなど。

ヴィラ・ジュリアで三島由紀夫邸を思い出したこと。

二人のミケランジェロ、ブオナローティとメリージのこと。ミケランジェロその人と通称カラヴァッジョの二人である。

松に代表される植生とそのコントロールの仕方について。相当な強い意志を感じた。これに関しては恐らくちゃんとした文献があるのだろうと思うが...。


朝から掃除や洗濯、旅の荷物の整理など。

サッカーでは一昨日にクロアチアは負けたらしく町は静かである。しかも今日は日曜日で祭日(ファシズム抵抗の日)らしい。午後、コンチネンタルでブログの更新を行う。ローマの旅の最終分である。今回の旅行ではホテルでのインターネット環境は完璧で、スピードも日本と同じくらい(この旅で初めて)で快適であった。しかしここコンチネンタルでは相変わらず交信に時間がかかり、全ての更新が終えるのに3〜4時間もかかってしまう。自宅にネットが敷かれるのは8月からである。今少し不便なネット生活に耐えねばならない。

そういえば前日の出発時、電光掲示板に従ってホームで電車を待っていたら直前になってプラットホームの変更アナウンスが流れ、あわてて移動することになった。イタリア語のアナウンスは全く理解できないので周りの乗客の動きに従ったということだが。

ともかくも夜行電車で無事トリエステに戻る。朝の8時頃到着。やはり少ししか眠れず。ただバスと異なり体を伸ばせるので疲労度は全く異なるし、もう少しで自分の家に帰れるという安心感もあってそうつらくはなかった。トリエステから8時半リエカ行きのバスもあったが遅らせて12時半までトリエステで過ごす。

帰りのバスではパスポートコントロール(イタリアースロベニア間)で入国拒否をされた南アフリカの女性がいて、結構もめていた。土曜日ということもあり、お役所はどこも休みなので彼女(白人)は国境沿いからタクシーで入国地点のトリエステまで戻る事になった。(ようだ)言葉がわからないので詳しい事は不明だがシェンゲンがどうのこうのというのは聞こえた。そのせいでバスは少し遅れたが無事リエカまで帰還。

「ローマは暑い、暑い」と書いてきたがクロアチアはもっと暑くて驚いた。ただここはイタリアよりも幾分湿気が少なく感じる。しかも家は丘の上なので夜になると風が出て温度が急激に下がり、寝苦しいことは全くない。


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トリエステ。駅は町の中心から少し離れている。


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港に向かって広がる大きな広場

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この日は今回のローマ滞在最終日だ。夜の1050分のトリエステ行きの夜行に乗る。

朝レビッビアから地下鉄で出発駅のティブルティーナ駅まで行き荷物を預ける。バスでヴェネツィア広場まで向かい(いつものことながら旅の終わりになって地下鉄やバスの要領が分かってくるものだ)、カンピドーリオ広場の坂を上ってカピトリーニ美術館へ。ここは世界最古の美術館といわれているところ。約540年前の創設だ。ここはヴァティカンを別にしてこれまで見た中で彫刻、絵画とも最も充実しているように思う。昼食をはさんで45時間いただろうか。カピトリーノの丘にあるので、美術館最上階にあるカフェからのローマの街並、フォロ・ロマーノの眺めも絶景である。


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カンピドーリオ広場の坂


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以下、カピトリーニ美術館


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まるでジョセフ・コーネルのような...。


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その後クリプタ・バルビへ。ここは今では地下にあるローマ時代の年の遺構がしっかり保存されており丁寧にみせてくれる博物館である。学芸員の解説付き(ただしイタリア語)。


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その後強い日差しを避けながら(さすがに前日のアッピアウオーキングが効いていて結構疲労してます)、ジェズ教会へ。天井画、バッチャによる。サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会、パンテオン再訪。


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カエサルが暗殺された場所アレア・サクラ(聖域)トッレ・アルジェンティナ広場。


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サンタゴスティーノ教会にてカラヴァッジョの「巡礼の聖母」をみる。

最後の見納めは「ルドヴィシの玉座」をもう一度見ようということになり、アルテンプス宮(ローマ国立博物館)へ。ここの照明は自然光が主なので夕暮れの弱い光で見にくくもあったが、なかなか風情があってよかった。この時間帯(7時頃)には見学者は他にはいない。

ローマにしばしの別れを告げる。

今日は炎天下の中、覚悟の上でアウトドアである。アッピア旧街道をひたすら歩こうと思っていた。しかし実際歩いてみるとアッピア旧街道で昔の風情でゆっくり歩ける場所は限られている事が判明。(狭い上に車が猛スピードで走り歩道はなく両サイドは石壁が続く。茶店等全くない部分がかなりなのだ)途中から慣れないローカル・バスを乗り継ぎながらの旅となった。(よくある行き当たりばったりのパターン)


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まずは前回入れなかったカラカラ浴場。

カラカラ浴場は思っていた以上に壮大である。ローマにいるとどうしても宗教的(カトリック的)荘厳さがこれでもかというほどにあって少しうんざりさせられるが、(というのも禅宗のせいか、我々日本人は宗教上の物質的荘厳さに対してどこか疑いを持ってしまうところがあるように思う)それとは別の純粋な構築物的荘厳さとでいうものがここにはある。宗教の醸し出すそれとは性質の異なる強さがある。

「テルメ小川もお風呂の王様もあんな規模じゃ歴史には残れないねえ」とここに来た日本人ならば皆しみじみ考えるのじゃないかしら(そんなことないか)。例えば今の東京都庁舎の廃墟を2000年後に見せられて昔の日本人は風呂の為にこれだけのものを作ったんですと言われればだれだって驚くと思う。そんな凄みがカラカラ浴場にはありました。変な比喩ですいません。


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アッピア旧街道へ


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サン・セバスティアーノ門手前、ドゥルーゾの門


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サン・セバスティアーノ門


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クインティーリ荘博物館。


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クインティーリ荘

ここはカラカラ浴場から20キロ近く離れているので観光客はほとんどいない。広大な敷地である。ローマのそばとはにわかに信じがたい。とても良いところ。かなり記憶に残る場所。


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チェッチリア・メテッラの墓。ここもアッピア街道沿い。


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アッピア街道を沿って歩く。


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セント・セバスティアーノのカタコンベ(入る気が起きなかったのでパス)


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近くにサレジオ教会があることを地図で発見。ここは観光地でも何でもない。ここ20年来、縁あって東京のサレジオ会(小平市)の教会や児童福祉施設、小中学校のデザインに関するお手伝いをさせていただいた経緯もあったので、ここローマ郊外にその本拠があると知ってしまったからには(?)行かねばならないだろうと思い、往復6キロの杉木立とオリーブの美しい道を歩いて訪ねる事に。

http://www.salesio.or.jp/

http://www.salesio.ac.jp/

いわゆるローマの町中の教会とは全然異なるのでどこが入り口かわからない。周辺をうろついていると普段着だったが神父様とおぼしき方から声をかけられた。かいつまんで訪問の理由をしゃべったがもとよりこっちの勝手な思い入れで来たのだから理解されたかどうかあやしい。しかし彼はニコッと笑うと礼拝堂が見たいかと聞いてきた。「イエス」と答えるとこっちだよと礼拝堂に入れてくれた。疲れた一日だったのでほっとした時間を過ごす事ができた。しかも私たちの為に英語の話せる若い修道士がわざわざ来てくれて何かしてほしいことはないかと聞いてくれた。心から来れてよかったと挨拶をして辞した。


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ドン・ボスコの肖像


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ドン・ボスコとドミニコ・サヴィオ


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ドミニコ・サヴィオの像


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2000年以上前の敷石


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ボルゲーゼ美術館に入館する為にはあらかじめ予約が必要で、月曜日に電話で予約をしておいた。朝宿を出て地下鉄B線、A線と乗り継いでボルゲーゼ公園方面に向かう。

途中サンタ・マリア・デル・ポポロ教会へ。


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カラヴァッジョの礼拝堂。「聖パオロの改宗」と「聖ピエトロの逆さ磔」その他チボの礼拝堂、ピントリッキオのフレスコ画など。ここはかなり充実度が高い。


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ポポロ広場、ラムセス二世のオベリスク。


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ポポロ広場、双子教会(サンタ・マリア・イン・モンテサント教会とサンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会)。


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サンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会内部。


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ボルゲーゼ公園、ナポレオン広場からポポロ広場を見下ろす。


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小金井公園に似ています。


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ボルゲーゼ美術館

ここは名品ぞろい(カノーヴァ、ベルニーニ、カラヴァッジョ、クラナッハ、ラッファエロ、ティツィアーノ、ボッティチェリ、リューベンス他)であることは間違いない。僕の主な目的はやはりここでもカラヴァッジョで「馬丁の聖母」「果物籠と青年」「ゴリアテの頭を持つダヴィデ」「バッカスに扮する自画像」「聖ヨハネ」「聖ヒエロニスム」であった。

個人的な好みで申し訳ないがラッファエロ(前にも書いたが)と同様ベルニーニが苦手です。ロレンツォ・ロットの「聖なる対話」が素晴らしかった。

木本さんからは「美術館情報をしっかり書け」という指示をもらっていますが、言い訳するようで何だがここでは別にまともな美術案内をするつもりはないので皆さんそのつもりで読んで下さい。私の好みなんてコロッと変わってしまいますから。とはいえここの美術館は先にも書いたように予約を要求する上予約料と入場料で軽く2000円以上をとり、2時間たつと入れ替え制で追い出されるのだ。落ち着かない事この上ない。


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当然館内は撮影禁止なのでカラヴァッジョ、クラナッハなど(以下は参考イメージです)


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ロット


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次はヴィラ・ジュリア・エトルスコ博物館。ローマ美術に影響を与えたギリシアとならぶ源泉(しかもローマによって徹底的に破壊されたため残存品が少ない)エトルリア美術に興味を持っていたので期待が大きかった。しかしここは展示、解説ともわかりにくくかなり失望した。ただこの博物館内にある館ヴィラ・ジュリアの遺構は素晴らしかった。


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ヴィラ・ジュリア


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再びボルゲーゼ公園を通り国立近代美術館へ。

ここは19世紀から20世紀にかけての主立った近現代絵画がイタリアを中心にしながら全ての作家あります的な展示だった。内容に関してはかなりムラがあるように思う。全体の印象はあまり強くない。ただデュシャンをまとめて56点見れたのは収穫だった。

 

今日はシンプルな1日である。ヴァティカン博物館にとりあえず1日をさいた。噂に聞いていた入館行列というのはほとんどなくスムーズに入れた。エジプト美術、古代彫刻、エトルスク、ギリシア彫刻といった今興味のあるところに時間をとられすぎ、タペストリー、地図のギャラリーは駆け足で、ラッファエロの間、現代宗教美術も適当に流し、システィーナ礼拝堂でタイムリミットとなった。図書館の回廊、彩色写本や絵画館などはまたの機会となった。前半のエジプト、エトルスク、ギリシア彫刻は文句なく素晴らしい。受験生の時デッサンした石膏のオリジナルを見るのは不思議な感覚である。これは10歳代で見ておくべきだよなと思った。今更ですが。
システィーナ礼拝堂では写真を禁じられているのでイメージはここにはないが、古代のものは別として、ミケランジェロの天井画は突出していた。色も美しいし画面構成も実験的というか本人が楽しくてしょうがない感じが伝わってくる。(伝記や映画等では眉間にしわを寄せて苦しんだことになっているけど画面からはそんな感じはしなかった。とても瑞々しい。私は画面から受けた印象の方を信じる)それに比べれば24年後に描かれた最後の審判の方は驚く程暗い。別人のようだ。しかも観念的な感じすらする。(勝手な感想ですが)この部屋には2時間程いたか。
ラファエロは昔から何故そんなに良いと言われるのか理解できなかったが今回オリジナルを見ても残念ながらその感想は変わらない。
今回、長年見たいと思っていたカラヴァッジョの「キリスト降架」を見損なった。どうしよう?

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エジプト美術館

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スカラベ(ケース)

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スカラベ(中)

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ラムセスの母、トーヤの肖像。

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以下古代彫刻 ピオ・クレメンティーノ美術館、キアラモンティ美術館、新回廊、大燭台のギャラリー。

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アウグストゥス

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ラオコーン オリジナル。もともとロドス島にあったものだ。

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アポロ

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トルソ

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以下エトルスク美術館

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ラファエロの間

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宿を替わる日。これまで滞在した場所はテルミニ駅から10分くらいの所で比較的便利な場所であった。東京駅に対する日本橋とか銀座の感覚である。今後の事も考えて後半は地下鉄で中心部から少し離れた場所を選んでみた。地下鉄B線の最後の駅、レビッビアである。それでもテルミニから15分弱。地下鉄の車両は落書きで表も内部も悲惨な状況である(後で全ての車両ではないことが分かったが)。レビッビアまで来ると完全な郊外の住宅地である。新しい宿は駅から45分なので思ったより不便ではない。一旦荷物を預け再びテルミニ駅へ戻る。

今日は月曜日で美術館関係は休みが多いので、ローマ巡りのバス券(116ユーロ、ダブルデッカー)を購入し、遺跡巡りと町巡りをすることに。このバスは終日、何度でも乗り降り自由でかなり頻繁に走っている。まずは日本語のガイドを聞きながら約1時間半かけてローマの町を一周する。テルミニ駅で一旦昼食後、次はコロッセオで下車、コロッセオ、カラカラの浴場跡、パラティーノの丘を散策。といってもコロッセオには博物施設もあり、パラティーノの丘も同様で、しかもかなり広大で4時間はかかった。真夏の暑さであった。サングラスだけではだめで帽子をしなければ目が参ってしまう程、光がきつい。考えてみればこの季節、日本では梅雨である。ヨーロッパの夏は長いのだと実感する。その後、夕暮れのサンピエトロ寺院に行く。宿に戻ったのは9時過ぎであった。その後0615の更新をして1時就寝。


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バスの車窓から


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コロッセオ。


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コロッセオ内部の展示。なかなか凝っていて好感が持てた。


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コロッセオからコンスタンティヌスの凱旋門を見る。


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コロッセオから松並木(サン・グレゴーリオ通り)を通ってカラカラ浴場跡に向かう。2キロくらいか。


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浴場競技場。入り口を間違えてこの競技場を一周するはめに。


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カラカラ浴場跡。なんと午後2時までで入れず。


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閑静な良い場所だったのでまた機会があれば来る事にしようと思う。


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歩いてまたコロッセオのそばパラティーノの丘へ。以下パラティーノの丘


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スタディオ


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パラティーノ博物館


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パラティーノの丘から東を見る。


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丘から北を見るとフォロ・ロマーノが見下ろせる。この角度からかつての市民たちは皇帝の凱旋を見ていたのだ。


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丘をおりる。


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以下サン・ピエトロ広場と寺院。


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ピエタ


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下に見えるのがピエタ。


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長い夕暮れ


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三たびテヴェレを渡りテルミニへ。


朝8時半に宿を出る。


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マッシモ宮 ローマ国立博物館  9時開館のはずなのに10分以上待たされる。ここはローマを中心にギリシア美術も含む。コレクションはさすがに全て素晴らしい。特にフレスコ、モザイクの多様さは特筆すべきものがあった、


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まるでダリのドゥローイングのような。


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リヴィアの家のフレスコ画。


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円盤投げ ランチェロッティ


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以下ディオクレティアヌスの浴場跡 実はローマ国立博物館。始めは単なる遺跡だと思って入場すると、とんでもない、かなりの規模の考古学博物館であった。特に文字、スクリプトゥムに関する丁寧な展示が行われていた事には驚く。しかしとにかく量が半端ではなく見切れなかった。


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コンパス。このようなディテールの展示が学芸員の意識の高さを示しているように思う。


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こういった展示の仕方もセンスの高さを示しています。


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一階は屋外の展示


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鉄の書物


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珍しく同行していた妻が足が痛いと悲鳴を上げる。たしかに8時半から2時まで歩きっぱなしだもの。ホテルに戻り休憩をとることにする。


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共和国広場 ナイアディの噴水


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サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会。ミケランジェロがファサードのデザインをしたことで有名である。確かに本当に素晴らしいものである。彼は自分の意匠を完全に殺してローマ時代の遺跡が全面に出るようにデザインしているのだ。自己顕示欲の強い人かと思っていたので意外だった。写真の扉デザインはもちろん別人です。


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床には天球図が大理石で埋め込まれていた。


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教会裏手にはローマ時代の遺構が残る。


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ファサード正面。内部と外部のコントラストこそミケランジェロがやりたかったことなのだろう。多分。


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ナイアディの噴水


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以下サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(裏側。こちらを最初に見て閉まっていると勘違いしました)


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妻に言わせれば「ローマで最もありがたみ(?)の感じる教会ということだが、確かにそのような感じがしないでもない。



 

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バルベリーニ広場


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トリトーネの噴水


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スペイン広場(朝)


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船の噴水


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ボルゲーゼ宮


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以下アルデンプス宮 ローマ国立博物館

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天井とフレスコ


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ルドヴィシの玉座 側面


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ルドヴィシの玉座 二人の乙女に海から引きあげられるアフロディーテ


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ルドヴィシの玉座 側面

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(妻を殺して)自害するガリア人


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ナヴォナ広場 ネプチューンの噴水


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ナヴォナ広場 四大河の噴水(工事中)


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以下パンテオン


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ミネルヴァのオベリスク


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サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会(フィッリピーノ・リッピ、アンジェリコ、ロマーノなどの絵があった)


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サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会(外観)


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ドーリア・パンフィーリ美術館

ここはローマ一大きな屋敷の一部が美術館になっているところ。私設である。ライティングも悪いし、収集のしかたが金持ち趣味というか好きな所ではなかったがここにはカラヴァッジョが三点もある。その中でも「エジプト逃避途中の休憩」は傑作中の傑作であると思う。その他、ここにはベラスケスの有名な「イノケンテゥウス十世」、ピッピ、ティッツアーノ、ブリューゲル、メムリンク等等があるがいかんせん、展示の仕方が最悪。平気でカラヴァッジョの贋作を展示しているのだもの。


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「エジプト逃避途中の休憩」


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サン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会ここにもカラヴァッジョが三点あります。傑作です。


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聖マタイの殉教


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聖マタイと天使


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そして「聖マタイの召し出し」


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たまたま結婚式に遭遇した。


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テヴェレ河


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スペイン広場(夕刻)

これからも何度も行く事になるであろうイタリアへの最初の旅である。朝5時に家を出てバスで町のバスセンターへ。ハンバーガーを買って6時のトリエステ行きのバスに乗る。トリエステには8時半に到着。実際の距離は車で普通に行けば1時間もかからない距離だと思うのだが、バスは客を拾うため近隣のオパティアなどをまわり、しかも途中でパスポートコントロールなどがあるので2時間半かかってしまう。

トリエステでドキドキしながらバスセンターから駅へ急ぐ。(無謀にも列車の予約をとらずに来たのだ)運良くローマまでの特急券(ユーロスター)をとることができた。しかも帰りの夜行寝台も。受付のお兄さんがとても親切でラッキーだった。

列車は950分発。トリエステからヴェネツィアまで1時間半弱。ヴェネツィアからフィレンツェまで2時間半。フィレンツェからローマまで1時間40分。ローマに到着したのは16時過ぎである。

ローマへは初めてである。25年前、イラストレーターの斉藤君と一ヶ月間ヨーロッパ旅行をした時、ローマまで行く時間がなく、フィレンツェ、ヴェネツィアまでで引き返したのだ。二、三日の滞在をするくらいなら行きたくない(行くべきではない)と思ったのだ。行くのならばちゃんと行かなきゃ、なんて思った記憶がある。それから25年も経つとは思わなかったが。

ローマが近くになるにつれ、「満を持しすぎたかなあ?」と突然不安になる。というのもこの10数年の間、ゲーテの「イタリア紀行」と和辻哲郎の「イタリア古寺巡礼」に始まって塩野七生さんの「ローマ人の物語」(当然全巻読破しました)他、ローマ、イタリア関係の本を随分読んできたのだった。なぜ不安になったかというと文字による妄想があまりにも先行しすぎているかもしれないと思うからだ。

とりあえず宿に荷物を置いて夕暮れの町を散策した。


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トリエステ駅


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駅前


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ユーロスター。もっと立派できれいな車両を想像していました。


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恐る恐るローマを歩く。


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クイリナーレ広場


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フォロ・トライヤーノ


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トラヤヌスの記念柱


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ヴィットリアーノ


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フォロ・ロマーノ


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コロッセオ


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明日からイタリアのローマに短期旅行に行く予定。本格的な旅の準備に追われる。

例のサッカーのヨーロッパ選手権でクロアチアは今度はドイツに勝った模様。このあたりは閑静な住宅街にもかかわらず、家の中にいてさえも、どよめきや爆竹の音が聞こえる。町中はこの前とは比べ物にならないくらい大騒ぎなのだろう。この試合はテレビで見たが確かにクロアチアは強いように思う。良い試合であった。少し前だが同じ大会で土砂降りの中トルコがスイスに勝ったのも少しうれしかった。

ソボルさんと地元の警察に滞在許可証延長の申請に行く。帰りに町で次の旅の準備、ブログの更新等。夜テレビで映画「ブラックレイン」をやっていたのでついつい見てしまう。嘘でもいいから日本が映っていればそれだけで見てしまうのだ。「ああ、ひどい映画だな」と思いつつも「おお20年前のポストモダンが流行っていた頃の大阪だ」とか、健さんの英語力とか。


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近所のトルサット聖母教会につい最近完成したビジターセンター。


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そう、レンガがクロアチア国旗の意匠なのでした。


【展覧会のお知らせ】ここで何度か登場したえびりんとこおおらいさんの展覧会が偶然今開催中で、お知らせします。お近くの方はどうぞ。6月14日(土曜日17:00)まで

おおらいえみこ展 「ヒゲとロバと三日月と」

ギャラリーLa Mer(ラメール) 中央区銀座1-9-8奥野ビル205

03-5250-8108 http://www.g-lamer.com



今度結婚式が行われる卒業生のための祝辞を書く。

このような文章は結構時間がかかるものです。

あとはひたすら読書など。ローマの歴史について。

英語の勉強と称して「草枕」夏目漱石の英訳文を読んでいる。

これで英語の勉強になるかどうかはかなりあやしいけれども。

609

不安定な梅雨のような天候が続いていたが今日は晴天である。家にいて読書と勉強。エジプトの歴史について。ラムセス二世の伝記。

久しぶりに、ちょっと目の調子が悪くなり、散歩にも行かず。

トラブル修復のつづき。

インターネット用プリペイドを更新するために丘をおりて30分ほど歩き、センタービルのショッピングセンターへ。ついでに買い物をする。意外なことにここのカフェで出されたコップの水がおいしくて夫婦で顔を見合わせる。前にも書いたがクロアチアの水は私たちにはきつすぎてどうもだめで(ペットボトルの水でさえ)今日は他のペットボトルを試そうと話していたところだったのだ。(ちなみにトルコでは何の違和感もなく水はOKだった)そうだ!浄水器だという話になり、浄水器売り場へ。蛇口に装着式ではなく、貯水式のものを購入。結局これにて水問題は解消した。

その後妻は家に戻り、僕は20分ほど歩いて町まで行き、コンチネンタルでブログの更新を試みる。なんとか復活。しかし、トルコでのカーネルサンダース現象といい、今回のトラブルといい全く原因がわからず、しかし災難は確実に常に忘れたころやってくる。大村嬢にはソフトが無事動いている限り、ネット経由で送られてくるソフトの更新はしないほうが安全ですよと言われていたのでそれも守っているのだが。このレオパルドというOSのせいだろうか。勝手に何かしでかすのだ。この先が思いやられます。またプリペイド方式も面倒なので(ブログの更新やちょっと集中的に調べものをすると250メガなんてあっというまになくなってしまうのだ。その度にシティセンターまで行くのはあまりにも効率が悪い)ソボルさんに電話線を敷く相談をしなければならない。

コンチネンタルのカフェで作業していて、ふと気づくと外は昼間のようにあかるいのだが、8時を過ぎていた。帰ろうとすると、周りの雰囲気が異様なことに気づく。皆レッドスクエアのTシャツを着てそこここでさわいでいるのだ。おそらく何かサッカーの試合でクロアチアが勝ったのだろうとは想像はついた。大通りまで出て帰りのバスを待っていたら目の前を町の中心に向かって走っていく車にはクロアチアのユニフォームを着た人が乗っていて車窓から体を乗り出して旗を振っている。道を歩いている集団も興奮し雄叫びをあげている。そのような車が瞬く間に続々増えだし、全ての車がクラクションをならし、ジグザグ運転を始めたりしている。あっというまに大交通渋滞。しかも発煙筒が焚かれているらしく道の先では煙も漂い、騒乱状態である。おかげでバスは30分以上またされるはめになる。家に帰るとテレビではヨーロッパ選手権かなにかが行われているらしく、クロアチアがオーストリアに勝ったとのことだ。まるでワールドカップに優勝したみたいな騒ぎ方ではないのか?

やれやれ。

雨時々晴れ

そろそろ、精神状態も日常生活に戻り次の旅の準備もはじめなければと思っていた矢先、またもやコンピュータトラブルが発生した。この日は町の市場に食料の買い物に行き、ついでにブログの更新と東京にいる息子とスカイプでチャットをする予定であった。チャットの最中、だんだんとコンピュータの挙動がおかしくなったので、一旦スカイプを切断し再起動をかけた。こちらの異常を息子に伝えるためメールソフトのエントラージュを立ち上げるといきなり、更新(?)されていて、今までの送受信データ全てがなくなってしまっているのだ。アドレス帳にあった情報も全てなくなっている。同じくサファリをみるとこちらも同様、いきなりまっさらな状態に勝手になってしまっているのだ。履歴も何も消えてしまっている。ここにはブックマークにこれまでの旅程で集めた各重要情報のアドレスがあったのだが全てなくなってしまっていた。ここ一ヶ月以上、保存もしていなかったのだが。

全く原因がわからない。

呆然とする。

結局息子とは電話で話すことになる。

帰宅し、やむを得ずエントラージュにメールアカウントを入れ直すと4月半ば以降の受信分を再び読み込み始めた。(それ以前は全て失われたのだろうか?不明である)多くは迷惑メール、宣伝の類いだが大事なメールを救うためには全てを読み込まなければしょうがない。これに夜おそくまでかかる。こちらから送信したものは全く失われたままだ。このおかげでネット用プリペイドを使い尽くし翌日に持ち越す。サファリもどうすることもできない。自分のブログのアドレスやそれに書き込むためのアドレスすらわからないのだ。またしてもアキオ君にメールで教えてもらうこととなる。

終日雨。読書。旅の記録。他。

以下、トルコ旅行中訪ねた主な場所。

museum/library美術館/博物館等】

トプカプ宮殿/アヤソフィア博物館/国立考古学博物館/装飾タイル博物館/古代東方博物館/トルコ・イスラーム美術博物館/アナトリア文明博物館/ハットゥシャシュ博物館/ギョレメ屋外博物館/ゼルヴェ屋外博物館/アンタルヤ考古学博物館/騎士団長の宮殿(ギリシア、ロドス)/考古学博物館(ギリシア、ロドス)/アフロディスィアス博物館/エフェス考古学博物館 以上15カ所

ruins遺跡等】

地下宮殿/ヒッポロドーム/ヴァレンス水通橋/アンカラ城/アウグストゥス神殿/ローマ浴場跡/ハットゥシャシュ遺跡/ヤズルカヤ神殿/カイマクル地下都市/ハドリアヌス門/ファセリス遺跡/ペルゲ遺跡/アスペンドス遺跡/スィデ円形劇場/アポロンとアテナ神殿/リキヤの墓/カシュ古代劇場/パタラ遺跡/クサントス遺跡/レトゥーン遺跡/スミス山遺跡(ギリシア、ロドス)/リンドス遺跡(ギリシア、ロドス)/ヒエラポリス遺跡/アフロディスィアス遺跡/ディディム遺跡/プリエネ遺跡/ミレト遺跡/エフェス遺跡/アクロポリス遺跡(ベルガマ) 以上29カ所

camii/temple/churchジャーミー/教会/寺院等】

スルタンアフメット・ジャーミー/スルタンアフメット一世廟/スュレイマニエ・ジャーミー/トカル・キリセ/スレイマン・モスク(ギリシア、ロドス)/エヴァンゲリスモス教会(ギリシア、ロドス)/我らの聖母教会(ギリシア、ロドス)/オルハン・カーズィー・ジャーミー/イェシル・ジャーミー/ウル・ジャーミー/レッド・バジリカ 以上11カ所ただし小さいジャーミーは省略

city/nature街並と自然景観等】

グランドバザール/古本街/エジプシャン・バザール/ギョレメ・パノラマ/パシャバー地区/アヴァノス/ローズバレー/ウフララ渓谷/クルシュンルの滝/石灰棚/ブルサ・バザール

 以上11カ所


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以下智子の写真機より

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イスタンブール

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ザグレブで見つけた「ゼニート」というアヴァンギャルド機関誌について調べるためどうしても英語--クロアチア語の辞書が必要になり買い物に出る。ついでにコンチネンタルのネットカフェでブログの更新。その他食料や日常品の買い出しなど。

一日はおおむねクロアチア語、英語の勉強と資料の読書や整理であっといまに過ぎていきます。

 

トルコ覚え書き2

このブログにも何度か登場した私の個人的トルコ旅行アドヴァイザーであるえびりん(ちなみに彼女は版画家で毎年、銀座で個展をしています)から聞いた話に以下のようなものがあった。(無断使用をお許し下さい)

かつて120年程前日本を訪れたトルコの使節団(まだトルコにスルタンがいた時代ですね)の船が帰路、台風のせいで不幸にも串本沖で座礁し、打ち上げられた人々を串本の貧しい漁民たちが親身に助けたのだという。その話は伝説としてずっと今日までトルコでは語り継がれていて、彼らの親日感情の背景にはそのことがあるという。えびりんの話で感動的なのはその後で、実に最近の湾岸戦争時の話に移ります。

かのフセインが「イラク上空を飛ぶ飛行機は全て撃ち落とす」と言って、実際何機か撃ち落とされていた時、イラクには逃げ遅れた日本人(商社関係の人など)がいたそうだ。いつものことながら在留邦人には冷たい日本政府は当時、早々に彼らを見放してしまったのだった。これら絶望的な状況の日本人に救いの手を差し伸べたのがトルコ政府で、彼らはその為のチャーター便を飛ばし無事多くの日本人が救われたということなのだ。ひょっとしたら同じ回教徒の国なのでトルコ航空機は撃墜される確率が少なかったこともあったのかもしれない。しかし安全である保障はどこにもなかったはずだ。恥ずかしながらえびりんにこの話を聞くまで僕はこの事実を知らなかった。自国民が関係しているならばいざ知らず全く関係のない日本人に対するトルコのこの行為はかつての串本の日本人に対するトルコ人からのご恩返しだったようだ。実際日本人の商社マンたちは涙を流して感謝したらしい。

...とここまでの話は事実であり美談である。

しかしえびりんの話はこの後、暗いアイロニーへと転調するのであった。何故ならばかつての串本沖で救われたトルコ人とは異なり、湾岸戦争で救われた時には涙を流したはずの日本人は帰国後そういった事実を日本人にはほとんど伝えていないという事実があるからである。もともと、外国を旅する日本人に冷たい日本政府や外務省(そもそも一旦は見捨てたのだから後ろ暗いので)は宣伝するわけがない。しかし、100年以上も前の借りをしっかり返す義理堅いトルコの人と、危機が自分の目の前から去れば恩も忘れる日本人とは何なのでしょうねとえびりんは寂しそうに語ってくれたのであった(勝手に脚色してごめん)。

 

さすがに今回の旅では僕に串本の恩を返させてくれとも、湾岸戦争の借りを返せとも言ったトルコの人はいなかった。しかし「日本人は表面上ではニコニコ笑って親密な態度なんだけど、本当はいったい何を考えているのだろう?日本人は素晴らしいと思うが旅の途中に示す親密な態度は本物なのか、その場しのぎなのか私にはわからない。私は日本人を信じたいのだけれどあなたはどう思いますか」と訴えてくる若者がいたのは事実である。また「日本と韓国はトルコ人から見ると同じに見えるがその関係はどうなっているんだ」(関係=コネクションと彼は言ったのだがそれは2000年にわたるコネクションなのか最近のことなのか、政治的なことなのか、文化的なことなのかよく分からなかった)とか「私たちは英米人から何でトルコ人は日本人や、中国人に対してそんなに親切なんだと言われるくらい私たちは日本人に親近感を持っているのに日本人は私たちに対してどうなんだろう」という結構(人種差別的な問題も含む)複雑な疑問までも投げかけられたのであった。私は旅に忙しい日々を送っていた。しかし夜遅くブログなどを宿の人気の無いレストランなどで一人更新しているとよく話しかけられたのだ。彼らの何気ない質問は仮に日本語で話すにしても微妙で難しい話であった。それを英語で問いかけられたのだからかなり難儀しました。実際僕の答えは無茶苦茶なものとなったと思う。本当はそっとしておいてほしかったのだけど、僕はそんな質問を誘発するような顔をしていたのだろうか?(ひげのせいかもしれないが「お前はこれからジャーミーにお祈りに行くのか」といった冗談を二度程言われた)

しかし僕もご存知のようにこのブログで迂闊にも「トルコ人の考えていること、その真意がどこにあるか分かり辛い」とか勝手なことを書いてしまっていたのだが、苦笑ものだが彼らも日本人に対して同じような疑問を持っていることがわかって興味深かった。またこのような状況下、自分の母国のこと(あるいは母国と中国、朝鮮半島、東南アジアの国々との関係)を母国語以外の言葉で話すという経験は重要なものだとも感じた。

 

もちろんたかだか一ヶ月弱の滞在でトルコ人についてとかトルコについて僕が語れるわけは無いしそのつもりもなかったのだ。しかし彼らの質問はそのような僕のありきたりの答えを認めないたぐいの真剣さがあった。例え短期であったとしても意見を求めて来る彼らの直裁さというものは貴重なものだとも思った。例えば日本人が日本に来た外国人に「日本はどうですか?」と聞く儀礼的な質問(はじめから真剣な答えなど期待していない)と彼らのそれとは異なるように思えたのだ。彼らの多くは儀礼的な返答を好まないようだ。実際僕はどこまで話せば良いのか迷いました。それは日本人特有の「良い加減」と彼らの背後にいる「アッラー」のせめぎあいなのかどうかは分からないけれど。

 

少なくとも僕は今回の旅で多くのトルコの人にもらった沢山の(時には不思議な)親切と暖かみを忘れないことくらいはできると思う。


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昨晩は久々にゆっくり眠ることができた。当初、このような拠点(クロアチアにフラットを持続的に借りること)を持つことは少し贅沢なのではないかという気持ちもあった。しかし実際旅してみると、拠点なしの移動(放浪?)生活はあまりにもきついということがわかった。もちろんここリエカでの生活も東京の自宅のように自在とは到底言えないまでも、充分以上にその意味があったことを実感させられている。

トルコで見た様々のものや多くの人と話したことなどが熱をもった大きな一塊となって頭や心に残っており、それらを抱えたままここ数日は過ごさねばならないようだ。整理がつこうがつくまいが、そうしなくてはどうも元の精神状態には戻れないように感じている。それくらいトルコでの経験はインパクトがあった。リエカは今、日本の梅雨のようで雨が降ったり止んだりしている。(僕らが戻る直前までは31度の暑さだったそうだ)

今日は終日荷物の整理などをして一歩も外には出なかった。

 

トルコ旅行覚え書きの前にこの旅のそもそもの目的を記しておきたいと思う。

このブログを見ている方々には気楽な遺跡巡りにも見えるかもしれませんが、私の旅はこれでも一応研修旅行なのです。

【研究課題】

ヴィジュアル・コミュニケーションにおける「文字」「図像」「書物」など「視覚記号」諸要素の起源、歴史的変遷、環境との関係に関する調査と研究。

【研究理由】

私のこれまでの研究テーマは以下の2点である。

1)書物、ダイヤグラム、サイン・システムなどタイポグラフィと図像を軸としたグラフィック・デザイン史研究、およびそれらを今日的視点で再解釈し近代の視覚言語とは何かを問うもの。

2)文字の発生前後からの人類の記述の変遷(History of WRITING)をたどり、その中にヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン史を定位し今日的視点からデザイン概念を再構築すること。

[これまでの研究と今回の在外研究との関連]

1)トラヤヌス碑文に見られるインペリアル・キャピタルからルネッサンスを経て今日までリバイバルを重ねた人文主義的タイプフェイスの歴史と変遷(記念碑、墓石から印刷された書物まで)の現地調査と資料収集。

(2)2007共同研究「オットー・ノイラート研究」に関連し、ISOTYPE(International System Of Typographic Picture Education)をヨーロッパにおけるヒエログリフ解読(エジプト再発見)の文脈で考察し、同時に18世紀以降のダイヤグラム、サイン・システムを主とした視覚記号のヨーロッパ各国における展開の現地調査と資料収集を行いたい。

 

以上が(大学に提出した書類の抜粋なので文章が硬くてごめんなさい)私の今回の旅の大きな目的である。もしこれに付け加えることがあるとすれば、出来る限りそれらが生み出されたその場所に行くことであった。

今回のトルコの旅ではまさにトラヤヌス時代の文字が生まれるかなり以前からその前後までの様々な文字(記号)による碑文、粘度板、円筒印章、貨幣、文様、器具、彫刻、装飾品等をかなりまとめて見る事ができた。それらはシュメールによる楔形文字の発生から彼ら独自のアルファベット(表音文字化)への移行、エジプトの象形文字とそのアルファベットへの移行、象形文字と楔形文字の交流と新たな文字の発生(未解読の多くの文字も含まれる)などである。短く見積もってもBC2000年間の変遷がそこにはある。現在の私の中では整理がつかず混乱状態であるものの、少なくともエジプト、シリア、アラブ、ヒッタイト(トルコ)ギリシアといった地中海をとりまく諸地域が商活動、侵略、戦争、民族移動などを通して、かなりダイナミックに交流し、その中で否応なく文字が生成、流通してきたことが実感として理解できた。このことは今後丁寧にトレースする必要がある。

これまでタイポグラフィの教科書にも全く触れられることのなかった「何故、トラヤヌスの時代(要するに今から2000年程前)に既にあれほど完成された書体ができていたのか」(「それをまさか単純にローマ人の功績に帰すだけでは済まないだろう、では誰がどのようにして?」...これこそが私のこの旅の本当の目的であるが)についてのヒントがいくつもあった。またそのことはただ単に文字の形だけを見ていても理解できないような気がする。当時の人々、少なくとも造形に携わった人間たちの装飾品や建築物に対する数学的、幾何学的対比、比率に対する感覚と密接に結びついている事も間違いの無いことのように思われる。この地域と時代は歴史学的にも考古学的にもまだまだ謎が多くこれからの新たな発見などによって文字の歴史もかなり書き換えられていくような予感も感じた。ある本によれば歴史家は文字が生まれてからを歴史時代としそれ以前を考古学的対象と切り分けるそうだが、コミュニケーションという視点からみるとその理屈はあまりにもアカデミズム的でおかしいと思う。考古学と歴史学のもっと統合的で視覚記号論的な歴史生態学が必要なのではないのかという気もした。(門外漢なので勝手な感想ですが)

今回わかったことはこれまでのわたし達に与えられている歴史的知見がヨーロッパにおいてもたかだか18世紀の終わりから始まったということだ。

私自身も自分の整理の為に地道に年表を作ろうと思っているが自由に参照できる資料が手元に無いので、この場所でどこまでできるかわからない。しかしこれからの旅のためにはできる限りのことをしておきたいと思っている。

 

この旅において特筆すべきなのはアンカラのアナトリア文明博物館で見たチャタル・ホユックの遺跡出土品であった。(もちろんアレクサンダー大王の石棺における想像を絶する彫刻の完成度の高さとか、特筆すべきものを言い出せばほかにも目白押しなのだけれど)

これは現在のところ人類最古の集落といわれているところである。紀元前7000年頃以降のもの、つまり今から9000年前である。博物館で見る事のできた紀元前56000年から3000年にかけての土器、家屋の復元、地母神の座像、呪術的な造形物の強さ素晴らしさには全く驚かされた。人類が時間を経るごとに賢く(?)というか進歩、成長しているという発達史的な歴史観はこれをみると簡単に吹っ飛びます。ヒッタイト文明やアッシリアなどの「歴史上の」文明とそれ以前の「考古学的」事実であるチャタル・ホユックとの関係、関連を文字で証明するものがないので一般の歴史書には断絶してしか触れられていないが、場所的にみればどう考えても何らかの関係があるように思える。

またこれはアイルランドに行ったときと同様だが、今日の私たちが考えている造形とはそもそも何なのかとも考えさせらずにはいられない。歴史が新しくなればなるほど繊細さや量的な規模は増大するかもしれない。しかしものに込められた造形上の強さはそれに反比例して弱まっていくものなのだろうか?

 

最後についでと言っては何だけれどももう一つの旅の目的(というよりも野望に近いかも)も書いておこうと思う。(何事も言ってしまえば未来のいつかに実現するような気がするので)今回は諸事情と時間の制約から現在のイラク、シリア、ヨルダン、サウジアラビア、イスラエルといった中東諸国まで足を伸ばすことができない。この1年の旅の後、機会があれば今度は東アジア、東南アジアの側からイスタンブールに向かう旅をしたいと考えている。もちろん1年フルにというのではなく、断片的になるだろうけれども。そうしなければどう考えても自分の中のバランスがとれないだろうと思えるのだ。


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以下智子の写真機より


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朝、宿に荷物を預かってもらい、再びリュブリアナの街をのんびり散策。一ヶ月ぶりにちゃんとしたカプチーノが飲めた。(トルコではひたすらティーだった。へたにコーヒーを頼むとネスカフェが出て来るので)その後1455分発の電車でリエカへ。途中二箇所でパスポートコントロール。電車は緑の中をゆっくり進む。客は少なく六人用のコンパートメントには私たちだけだ。トルコではほとんどバスでの移動だったので久々の電車でのゆったりした移動にあらためて感動。五時半ごろ到着。無事リエカに帰還する。


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リュブリアナの中心はほぼこの模型で収まる規模である。しかも街中への車の乗り入れが禁止されているのでとても気持ちが良い。


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私たちの乗った電車ではないが蒸気機関車が現役で動いていた。

朝、イェニカブの宿からタクシーでアタテュルク空港へ。約30分。オーストリア航空でウイーンに向かいトランジット、アドリア航空に乗り換えてスロベニアの首都、リュブリアナへ到着。リュブリアナはクロアチアのリエカから大変近いのだが(直線距離で約80キロ)バスがない。クロアチアからスロベニアを通ってイタリアのトリエステやウイーンに向かうバスはあるのだが、多分旧ユーゴスラヴィア同士、歴史的に微妙な関係らしい。ソボルさんによれば領土問題も含まれているとのこと。恐らくクロアチアがEUに加盟してしまえばその問題も雲散霧消してしまうだろうとも言っていた。ともかくリュブリアナからリエカには列車が一日に二本しか走ってないのだ。ということでリュブリアナに一泊する。今後この街もザグレブと同様、ヨーロッパの各地に移動する時に通過することもあると思われるのでどのような所か知っておきたいというのもあった。

宿に荷物を預け街をぶらっと歩いた。ここもザグレブと似て落ち着いた緑の多い街である。ただ、まだ頭と身体にはトルコでのハードな日々が刻印されていてかなりボーッとした状態である。トルコでの体験を消化できないままだ。これは当然のことだと思う。とにかくトルコ旅行自体が事故も無く無事であったことにほっとしている。

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リュブリアナ城から街を見下ろす


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イスタンブールのアタチュルク空港から出発は62日に決まっているのでこの日は何としてもイスタンブールまで辿り着かねばならなかった。飛行機も駄目、あてにしていた別のフェリールートもガイドブックに掲載されていたものは既にルート自体がなかったりした。やむなく先日ベルガマからブルサという街まで約8時間、バスの強行軍であった。ブルサはトルコ第四の都市らしい。私個人としては、短期滞在ではあったが、不思議と落ち着いた良い街の印象がある(街の佇まいもそうだが人の雰囲気も)。トルコの大都市の中でも最も気に入った所だった。この日午前中にブルサの有名な寺院を見て、マルマラ海沿岸のヤロワに行きそこからフェリーで(予定した最初の便は何と満員で乗れなかったが)イスタンブールになんとか戻ることができた。この間何人かのトルコの人々と印象に残る話などをしたが、それはまたの機会に。

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ブルサにて

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再びイスタンブールに戻る。この港公園ぞいの夕暮れは最高だ。景色ではなくここを通り過ぎる老若男女の姿が。いつまで見ていても見飽きる事が無い。

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丘からベルガマの街を見る。

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朝、セルチュクの宿の人が遺跡まで車で送ってくれる。距離はだいたい4キロくらい。エフェスは地中海沿岸の古代都市の中でも規模が大きく、観光客の数も例えば昨日に行ったプリエネやディディムと比べて桁違い多い。これまであまり人気の無い遺跡を歩いてきたので、団体客がぞろぞろ続く場所は少し落ち着かない。

 

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オデオン(音楽堂)

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トラヤヌスの泉

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公衆トイレ

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ケルスス図書館。一万二千巻の書物が所蔵されていたという。

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大劇場。山の斜面にそって作られている。

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以下エフェス考古学博物館

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サン・ダイアル

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豊饒神

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拳闘士に関する特別展が行われていた。

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ベルガマの町へ移動。セルチュクからバスで3時間半。

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クズル・アウル(レッド・バジリカ)。かつて古代エジプトのセラピス神(オシリスとアピス-プルトーン神)を祀り、のちにキリスト教の聖堂になった場所。

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