バルセロナからスペインとフランスの国境の街、ポルボウへ。
ここはワルター・ベンヤミンが1940年に陥落するパリを逃れマルセイユを経て、ピレネーを超えて亡命するために到着した場所である。
そして入国を拒否された彼はここでモルヒネで服毒自殺をする。
1940年9月26日。死亡は翌日。
ここには彫刻家ダニ・カラヴァンがベンヤミンに捧げた素晴らしい彫刻がある。
そのことを教えてくれたのはK先生で(数年前)それ以来、ここには必ず来たいと思っていた場所である。僕はその記憶からK先生は既に訪れているものと勝手に勘違いしていたのだが、今回先生もまだ訪れていないことが1月にわかったのだった。
急な話だがせっかくなのでご一緒できればという話になった。しかし残念ながら諸事情で先生の今回の訪問は無理となった。
しかし先生はこの間、ベンヤミンがこの脱出行の時に持っていた原稿の入った重い黒い鞄に関するエピソード(『ベンヤミンの黒い鞄 亡命の記録』リーザ・フィトコ)を読んでない僕の為にわざわざテキストをメールで打ち込んで送って下さっていたのだった。
自分がいかにベンヤミンに影響を受けたかについてここで事細かに語るつもりはない。しかし簡単に言えば20歳代の自分がデザインをすることはどういうことかをリシツキーから学んだとすれば、デザインされたものと社会との関係はどのようなものか、考える事の意味と深さを学んだのはベンヤミンであることは間違いのないことだ。
ある人の記述によればスペインの国境警備隊がそれまでやって来ていたフランスからの亡命者を拒否することに決定したのはベンヤミン一行の到着前日であったらしい。
(ここら辺の事情は複雑で、私にはよく分らない。当時スペインはフランコが統治していて、このあたりにはドイツの駐在軍もいたらしいので)
しかしともかくも、つまりベンヤミンがもし前日に到着していたならば助かっていたのである。
そしてベンヤミンの自殺に感銘を受けたスペイン側の国境警備官はベンヤミンとともに来た他の人々がポルトガルへ逃れることを許可したという。
...とても悲劇的だが、ある意味ベンヤミン的だとも思う。
そしてベンヤミンが命に代えても守ろうとした黒い鞄は現在も見つかっていない。
その中身はパッサージュ論の原稿であろうと言われている。
彼程かしこい人が自分の危険を察知しないはずはない。(彼はユダヤ人だったので)
さっさと危険なパリを後にすれば良かったのにと今の僕は思う。
しかし彼はパリの図書館にある資料でこの論文を書かざるをえなかった。
今回一緒に巡礼の旅に出たあきお君。
彼はムサビの学部、院を修了し現在はS大学の博士課程3年目である。言うまでもない事だが、大変優秀な男である。今回の旅は博士論文の為の調査も含まれている。今年論文提出予定なのでこれから修羅場が待ち受けているのだ。
ポルボウ駅
ポルボウの港。向こうがピレネー山脈。
ベンヤミンの墓のある丘に立つカラヴァンの作品。タイトルは「パサージュ、ヴァルター・ベンヤミンへのオマージュ」これは垂直の断崖に斜めに貫通した階段であるが、他にも2点ありそれらはセットになっているようだった。
向こうは海だが分厚いガラスでここから先には行けない。
階段から見上げる。
近くの墓地にあるベンヤミンの墓。小石が積み上げられていた。ここを訪ねた人たちによるのだろう。
二番目の作品。
墓地から海を見る。
三番目の作品。ここに昇るとはるかピレネーと海が見える。
その後、ポルボウにおけるベンヤミンの足跡を訪ねる。
市民センター。閉まっていたが2階にベンヤミンに関する展示があった。
当時フランスからピレネーを超えてスペイン領へ脱出する人々。
ベンヤミンの亡くなった場所。真ん中の赤い壁の2階奥。
最後にベンヤミンにとって書物と都市とは何か松岡正剛さんのテキストを引用させていただく。
「...ベンヤミンが若い頃から書物を偏愛し(これは予想がつくが)、それ以上に装幀に稠密な好奇心をもっていたことにあらわれている。ベンヤミンにとって書物とは、それが見えているときと、それが手にとられるときだけが書物であったからである。その書物の配列と布置と同様に、ベンヤミンには都市が抽出と引用を待つ世界模型に見えた。
しかし、書物も都市もそれを「外側から内側に向かって集約されたもの」と見るか、それとも「内側が外側に押し出されたもの」と見るかによって、その相貌が異なってくる。」
(松岡正剛の千夜千冊ベンヤミン「パサージュ論」http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0908.html)
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