1007 フェルメール、覚え書き

終日、ブログの更新に追われる。

今回の旅の後半、ベルギー、オランダでの経験で書くべき事は目白押しではある。
が、頭からどうやっても離れないのはまずはフェルメールである。
フェルメールはこの旅の最初、イギリスのナショナルギャラリーに始まっている。
これまで行った場所で見れるものは必ず見て来た訳で、しかも彼に関しては今日いろんなところで語られているので今更僕が何か語る必要もないと思う。
いや、語りたい事は山ほどあるのだ。しかしそれをどう語って良いか分からないということなのだ。
このブログをご覧の方はもうすでに僕の見方が偏っている事はご存知だと思う。
レオナルドとヤン・ファン・アイクはまず別格として、デューラーとホルバイン、ボッシュとブリューゲル、そしてカラバッジョ、レンブラントがいるのだが、どうしても今語らねばならないのはフェルメールなのである。
時代も場所も異なるのにそれらを一緒くたに語る無茶苦茶さは承知の上です。しかももっと他にも優れた画家は沢山いるかもしれない。その点もごめんなさい。

ともあれ今はフェルメールのことを記さねばならないとおもうのだが今更何を語るべきなのか...。

「失われた時を求めて」を書いたマルセル・プルーストはフェルメールの「デルフトの眺望」を二度見ている。1902年マウリッツハウスと1921年パリでのオランダ絵画展覧会で。
そこで彼は書いている

「デン・ハーグの美術館で[デルフトの眺望]を目にして以来、私はこの世で最も美しい絵を見た事を知った」と
で彼の小説「失われた時を求めて」第五巻「囚われの女」の中に以下のテクストがある

「(...)しかし、ある批評家が書いているものによると、フェルメールの『デルフトの眺望』、彼が大好きでよく知っているつもりだったこの油絵のなかに、黄色い小さな壁面(それが彼にはよく思い出せなかった)が、じつによく描かれていて、そこだけ単独にながめても、十分に自足する美をそなえていて、すばらしい支那の美術品のように美しい、とあったので、ゴルベットは、じゃがいもをすこしたべ、外出し、展覧会場にはいった。階段をまず二、三段のぼったとたんに、彼は目まいに襲われた。いくつもの絵の前を通りすぎた、そしていかにもわざとらしい芸術の、うるおいのなさ、無用さの印象を受けた、(...)やっとフェルメールの絵の前にきた、その彼には、およそ知っているどの絵よりもはなやかで、他とはかけはなれていたという記憶があった、しかし彼は批評家の記事のおかげで、いまはじめて、青い服を着た小さな人物が何人かいること、砂がばら色をしていることに気がついた。そして最後にほんの小さく出ている黄色の壁面のみごとなマチエールに気がついた。...」

このプルーストの語る小さな黄色の壁面は本当に小さく、そう指摘されなければ探せないくらいのものだ。
しかしフェルメールの絵を見ていて実際、彼の本当の凄さはこの壁面にあると思う。
もちろんこの壁でなくても良いのだ。彼の絵におけるこの黄色い壁的なもの。
「牛乳をそそぐ」女の後ろの壁面でも、手紙を読む女の青い衣装でも、女の耳飾りでも。
そこには誰もが見えるのに誰もが描きえないものが厳然とある。
支那の美術品かどうかは知らないが少なくとも「自足する美をそなえて」いることは確かなのだ。
フェルメールと同時代の似たような題材を扱う優れた画家はいるものの、この感覚はフェルメールだけのものである。
これを何と言ったら良いのか。

僕には言葉が見当たらない。
抽象とか具象とかは全く関係のないことだけは確かだ。

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 1007 フェルメール、覚え書き

このブログ記事に対するトラックバックURL: https://www.esporre.net/blog/mt-tb.cgi/211

コメントする