2009年2月アーカイブ

終日アルハンブラ宮殿。

ここについてはいろいろ感想ありますが、書き出すときりがないので省略。

離宮へネラリフェ、パルタル庭園、王宮、アルカサバ、カルロス5世宮殿というルートで歩いた。


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冒頭で感想省略と書いたが、庭に関しての覚え書きを少々加えておく。

ここはかつてローマ人の作った神殿の上に、ムーア人が宮殿を造り、そこにレコンキスタ以降のスペイン人が手を加えている。だから今私たちが見ている庭が少なくともアルハンブラ造営時代のものかどうかが、はなはだあやしい。(ような気がする)

この500年の間にかなりフランス庭園化しているのではないか。

イスラムにとって庭は天国の楽園の象徴だったのでこのことはとても重要である。

私の印象はこの変形がどのようなものであったかを知る必要があるということだ。

現在の折衷された感じの庭は意外にも全然凄いとは思えなかった。

正直な所。

また、してはいけないとおもいつつ、桂離宮や修学院等など、とんでもなく洗練された庭文化を持ってしまった私たちからすれば...?という思いがどうしても去来してしまうのだった。

例のごとく月曜日は美術館等はお休みなので町の散策へ。

夜は町の北東でアラブの統治下にできたグラナダ最古の街並が残るアルバイシン地区を歩く。


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以下、町の中心にあるカテドラル。1518年モスクの跡に作られ、工事は1704年まで続いたが未完。折衷様式でプラテレスコ様式というそうだが柱と天井のバランスが大変美しい。またパイプオルガンの巨大さに驚いた。実際演奏されていた。


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パイプオルガン


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アルハンブラ宮殿の裏側?


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向こうに見えるのはシェラ・ネヴァダの山脈。


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科学博物館


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ガルシア・ロルカ公園


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闘牛場


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以下、王室礼拝堂


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アルヘシラスから列車で約5時間、グラナダへ移動。
ここもアンダルシア地方の中心的都市である。
ローマ時代から栄え、モーロ人(イスラム教)のイベリア半島支配時代はコルドバ同様繁栄した古い町である。
またイスラム最後の王朝が築いたアルハンブラ宮殿がある。

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旅をしているのだから、当たり前と言えば当たり前のことなのだが、沢山いろんなものを見、感じているわけだ。それらの中には自分の頭や気分のなかでふわふわと転がしていたいものがあるにもかかわらず、旅の時間は否応なく進行するのでなんとも気持ちの整理が難しい。
ブログの更新が遅れるのは物理的な時間のなさもあるがむしろ、気持ちの問題も大きい。
今日のような電車での移動はそういった意味でパソコンで写真を整理したり、日記をつけたりするのに格好の時間となる。
うまく気持ちが切り替わるかと言うとそんなもんじゃあないのだが、とにかく過去を振り返る時間に充当することができるのだ。
しかしバスでの移動の場合、ノートブックの画面を見ていると気持ちが悪くなって来るのでこれができない。
ポルトガルをへてスペインに入って結構日が過ぎたのでその印象も書いてみたい気もするがなかなか手が進まず。

そういえば一昨日の夜の映画はこれも未見の「ノーカントリー」というもので、途中から見たがなかなか面白かった。CMも放映中には入らない。その前の「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」といいスペインのTV局はセンスがあるなあと思う。


アルヘシラスからバスに乗って40分でジブラルタル海峡に飛び出した岬、ジブラルタルに行く。ここはイギリス領で軍事上の要衝である。一応国境がありパスポートコントロールもある。ここは免税価格で買い物ができる町なので週末にはスペイン人が買い物にやってきて賑わう町だ。だから国境と言っても物々しさは全くない。私たちの目的はこの岬を象徴する岩山ターリクの山に登り、ジブラルタル海峡を見る事であった。少し曇りがちな天候であったがかすかにアフリカ大陸を見る事ができた。

ここからの眺めは絶景である。

その後アルヘシラスに戻り、夕方の5時から町の闘牛場で闘牛を見る事ができた。前にも書いたがまだ季節ではないので無理だと思っていたが幸運だった。

感想は長くなりそうなので省略。


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向こうに見えるターリクの山。


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この岩山全体は自然公園になっていて野生の猿の生息地として有名である。


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向こうに微かに見えるのがアフリカ大陸。


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右手がアルヘシラスの港。


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山を下りて岬の先端、灯台から山振り返る。


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決闘というのか試合というのか戦いというのか、5試合見たのだが、スタジアムが急に冷え込んで来て我慢の限界だったので我々は闘牛場を後にした。

まだ続きそうな感じであった。

またこの日は週末なので町中ではサッカーの試合で盛り上がっていた。




朝から曇りで雨模様。

朝10時の高速艇に乗ってアルヘシラスの港からアフリカ大陸の対岸セウタへ渡る。約1時間(ジブラルタル海峡の幅は15キロ)。

セウタはまだわずかな土地がスペイン領でそこを通り過ぎるとモロッコへの国境がある。

まずセウタ近くのテトゥアンの町を尋ねる。迷路のような複雑なスーク(市場)やユダヤ人街などを歩き回る。昼食。

その後車でタンジェ(タンジール)へ。

ここで絵を描いたマティスのこと、作家のポール・ボウルズ、ウイリアム・バロウズのことを考えながら。

その後、再びセウタまで戻りアルヘシラスへ戻る。


タンジェやテトゥアンは悪質な客引きで有名であるが、エジプトに比べれば全然かわいいものだ。モロッコの人気(じんき)は総じて良いように思う。

約12時間の日帰り旅行であった。


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連日の疲れがかなりたまってきた。

このブログの更新も滞っている。

それでも今日は移動日なので昼までホテルで写真の整理などを行ってタクシーでバスセンターへ。

13時のバスでアルヘシラスへ向かう。約3時間半。

アルヘシラスはスペインの最南端に近く、アフリカ大陸への起点となる大きな港町である。

初めはこの後コルドバ行きを予定していたが、考えた末、気が変わったのだ。理由は省略。結果が吉と出るか凶と出るかはわからないけど。


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セヴィーリャのバスセンター


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途中、相当大規模な風力発電地域があった。


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夜、宿のテレビをつけたら映画が放送されていて、あまりにも映像が美しく夫婦で見とれてしまった。スペイン語に吹き替えられているがアメリカ映画であることは分った。見た事のない映画である。しかしその映画がただものではないことは60秒くらい見てれば分るものだ。その後1時間程見たが気になってネットで調べてみた。

「石油掘りの男の映画」で検索すると一発で出た。「ゼア・ウイル・ビー・ブラッド」(これは何と訳すのだろうか?)というタイトルであった。昨年の春以降の日本公開らしいので知らなかったことに納得。日本に帰ったらちゃんと見てみたいと思う。

例によって話はどうだか分らないが撮影がすこぶる美しい。言葉が少ないのも好ましい。

多分若い監督だと思うが巨匠の風格であった。

セヴィーリャの旧市街の外側を流れるグアダルキビル川沿いを歩いて、南にある考古学博物館、民俗博物館に向かう。3~4キロ程だろうか。

途中、3つの橋を見、海洋博物館になっている黄金の塔に寄る。


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左手にマエストランサ闘牛場を見る。今は闘牛の季節ではないらしい。


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黄金の塔


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内部


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塔の上から町を見る。右手が旧市街。


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広大なマリア・ルイサ庭園内にある考古学博物館、正面。


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ここにあるローマ時代のものは多くが先日行ったイタリカからの出土である。


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その後昼食を挟み向かい側にある民俗博物館へ。


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その後トラムやバスなどの適当な交通機関もないので再び歩いて宿まで戻ることに。

途中バスセンターで翌日の移動の確認、スペイン広場、カテドラルのある旧市街で夕食をとり、ホテルに戻る。

昨日の遺跡歩きも相当なものだったが今日も少し歩き過ぎて足が痛くなる。

全部で12〜3キロくらいだろうか、あるいはもっとか。朝ホテルを出て食事時と時たまの休憩以外はずっと立ちっぱなし、歩きっぱなしである。

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以下スペイン広場


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セヴィーリャから9キロ離れたところに古代ローマ時代の遺跡、イタリカがあり、午前中バスで出かける。この遺跡は紀元前206年に築かれた大都市である。
詳述する時間はないがこの時期ローマはカルタゴ、あのハンニバルとの激闘を繰り返していた(第二次ポエニ戦争)。この後(イベリア半島征服=地中海の完全覇権掌握によって)ローマは本当の世界帝国になっていくのであるがこの都市はそのポエニ戦争の最中につくられたものである。
またここはあのトラヤヌス帝、ハドリアヌス帝が生まれた場所でもある。つまりトラヤヌスはローマ貴族出身ではなくローマ帝国内属領出身の最初の皇帝になった人でもある。
私たちはローマの遺跡に来ると何故か元気になる。妻の風邪も完全に回復したようだ。
ローマ人が都市を築く場所は常にその地域における最高の場所だからだと思う。
昔の東洋人ならば風水的に最高の地というだろう。

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ホテル前の路上にて。

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以下イタリカ遺跡。この遺跡は広大である。幸いにして周辺が都市化されていないためこのような完全な形で残ったのだと思う。発掘されているのは全体の10分の1(あるいはそれ以下)程度ではないかと推測する。
何もない所でもかつての都市の空間全体の広さを感じる事ができるのが素晴らしい。

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未発掘の場所

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手前が発掘されていて向こうは土に埋められている。

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円形劇場

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その後セヴィーリャの町に戻り、美術館へ。
17世紀に建てられた修道院だったところ。アンダルシア地方の画家の作品が集められている。
ムリーリョを筆頭にスルバラン、ベラスケス、バチェーコ、その他近代の作家まで。

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ファーロからバスでスペイン、アンダルシア地方の州都セヴィーリャに移動。バスで3時間(+時差1時間)。
スペイン南部のアンダルシアは闘牛やフラメンコなどスペインの中でも最もスペインらしいところと言われる。ジブラルタル海峡を挟んでアフリカ大陸も近く、その文化的な影響も色濃い。

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ポルトガルとスペインの国境の川、グアディアナ川を渡る。


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以下セヴィーリャ市街。

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市役所広場

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ヒラルダの塔、先端。ヒラルダとは風見のこと。

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セヴィーリャの歴史的象徴のひとつ、カテドラルとヒラルダの塔。
詳述する時間はないが、712年のモーロ人(=ムーア人=アフリカのイスラム)に征服されたイベリア半島(その中心地がセヴィーリャであった)がその後レコンキスタによって再びキリスト教に再征服される。このカテドラルにはイスラムが残した塔やオレンジの中庭と、レコンキスタ後に作られた巨大な(ヨーロッパ全土でサン・ピエトロ、セント・ポールに次いで3番目の大きさ)聖堂が合体している。
確かに巨大だが、威圧感はあまり感じない。これが大変不思議というか、普通の聖堂が持つシンメトリーが微妙にはずされた空間、結果的に中心軸をずらした空間になっていて興味深い。
これをイスラムとキリストの調和と言うべきかどうか知らないし、ましてやポストモダン的というと語弊がありそうだけれども、僕にとっては「結果的に出来てしまった」ようなその全体の構成が大変面白く、とても好ましい空間であった。

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オレンジの中庭

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今日は日曜日。
最初に訪れた郷土博物館が休みで出鼻を挫かれる。ガイドブックの記載と異なるのだ。これは大変残念。その後旧市街の外側に広がる新市街を散歩し市場などに行き、旧市街にある考古学博物館へ。内部は写真不可だった。
その後、時間が余ったので昨日僕は見れなかった例の夕焼けを見た後、映画に行く事にした。
町の映画館ではアメリカ映画を2本やっていて「ベンジャミン・バトン」というのを見た。
大きなスクリーンで見るのはヴェネツィア映画祭以来なので久々である。
字幕はポルトガル語。英語がもちろんちゃんとは分らない。なのでひたすら画面を凝視し内容を追うことになる。こういった見方は不便ではあるけど、他方意外と面白みもあるのだ。映像のリズムとかトーンのようなものに普段よりも意識が行かざるを得ないのだ。日本だとどうしても字幕に意識が行き過ぎるのだ。
なので感想を書くのは少し憚られるのだが、この特殊な見方においてこの映画の感想を述べておこう。
まず最初に出て来るケイト・ブランシェットのメーキャップが、かつて見たコッポラの「ドラキュラ」ゲイリー・オールドマンのメーキャップそのままで、はじめは別のホラー映画の宣伝だと思ったくらいだ。(もしドラキュラを見てない方はぜ確認してみて下さい)
それから想起される事はドラキュラも不死を主題にしており、時間と逆行して若返るというこの映画とはつながっているのだ。
で、結局はケイト・ブランシェットの醜いメーキャップは、欧米人の老いに対する強烈な潜在恐怖が図らずも露呈しているのだと解釈せざるを得ないのだ。

画面を見ながら「老いる事はそんなに醜い事なのか?」という問いが最初から出て来て困る。
(クロサワの「乱」における老いもそういえば醜かったなあ。しかしこの映画においては老いと誕生は一つに結ばなきゃならないんじゃないか?アジアでは鶴亀の例の様に老いはめでたいことなのだ)

この映画の中ではベンジャミンの育ての母親の存在感が頭抜けて良いし、船でロシアに行くエピソードなど時々ファンタジックな部分もあるものの、戦後の描き方はいきなり平板になってしまう(つまりこの映画の比較的良い部分は、時間と逆行して生きざるを得ないベンジャミンと基本的にはあまり関係のない所で展開する)。
そして結局やたらと長い。長過ぎる。母親(ブランシェット)と娘の何度も繰り返す挿入シーンなどは全く不要ではないのか。
ニューオリンズのあのハリケーンにダブらせる必然性はあったのだろうか。
観客は後半ひたすらブラット・ピットが若返ること(CG加工やメーキャップ)に意識を向けられていく。これも本来の主題とは関係のない事だ。世界中の人間がブラット・ピットの若返りに固唾をのむなんてちょっと倒錯的な感じがしました。

以上、言葉の理解なしの見地から見た無謀な批評でした。実際はどんなに凡作であったって映画を見れただけで楽しかったんですけど。
まあこの監督「エイリアン3」の時から相性が良くないようだ。もしこの映画が好きな人がいたら許して下さい。

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考古学博物館

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オウムを背負って夕日を見に来る男。

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奇妙な偶然。映画「ベンジャミン・バトン」でこれと全く同じ構図の画面が二度登場する。映画の方は朝だったけれど。

朝の列車でリスボンを発ちポルトガルの南端の町、ファーロに向かう。約22030キロの距離か。電車で約4時間。


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今回のポルトガル、スペインの南部諸都市訪問の目的はローマやギリシアの遺跡を見る事も当然あるけれど、ヨーロッパにおけるイスラムの痕跡、イスラムとキリスト教の混交を見る事も目的の一つである。

ここファーロはポルトガルにおけるイスラム勢力の終焉した場所なのである。地中海を渡ればもうそこはアフリカなのだ。


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ファーロ沖合に広がるラグーンの航空写真。私たちは町が出来る前のヴェネツィアがこのような状況だったのではないかと想像した。


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旧市街の門、アルコ・ダ・ヴィラを内から振り返る。


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旧市街の中心。


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夕方、僕は散髪に行ったのだがその間妻が撮った夕焼けの写真。


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沖合にラグーンの影が見える。

妻の風邪が少しぶり返し、調子が今一なのでホテルに残し、僕は午前中は一人で町を散歩する。ホテルからドゥケ・デ・サルダーニャ広場を通り、ボンバル侯爵広場、ラト広場などぶらぶらと5キロ程歩く。


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午後、少し体調の良くなった妻と再びグルベキアン美術館へ。歩いて10分程のところにある。

別館で今日からダーウィン展が始まるので、その為に改めて来たのだ。

展覧会は大変熱のこもった素晴らしいものだった。また改めてここの美術館全体は素晴らしいと思う。設計の中心はリベイロ・テレス(Ribeiro Teles)という人らしいがやはり詳しい事はわからない。ポルトガル初期モダニズム建築の傑作と言われているらしい。私の印象は鎌倉の近代美術館を思わせる落ち着きと佇まいを持つ。


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最近、たまたまK先生とベンヤミンをめぐってメールのやりとりをしていて、それはベンヤミン自身のナチスからの最後の逃避行のことについてなのだが、同時にかの有名な「アウラ」というこばをめぐって自分なりに見えて来たものについて語っていたりしていたのだ。その話はまだ続いているのでいつかここでまた触れると思う。

それとは別にK先生とのやりとりで以前に三木成夫さんのことを教えてもらったことがあり、ちょうどそれを改めて読み直したいと思っていたところだったのだ。その本の書名は『海・呼吸・古代形象』であった。三木さんは解剖学者、発生学者なので直接ダーウインとは関係があるのかどうかは知らない。僕にとってのダーウィンは佐々木正人さんやエドワード・リードによる「魂(ソウル)から心(マインド)へ―心理学の誕生 」経由(読みかじり?)なのだ。しかし今の僕の中ではこの三木さんという人とダーウィンが繋がっているのだ。しかも三木さんはモルフォロギアでゲーテに繋がっている。

説明はしませんが。

...ということもあって(話せば長くなりますが)、今回のダーウィン展は大変刺激的でした。

また展示ではかのラマルク「form follow the function」についてもちゃんと触れられていたし、リンネやビュフォンなどの博物学の歴史についても。


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リンネ


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リンネの分類模型


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ビュフォン


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ラマルク


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ビーグル号


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生モノもちゃんと展示してます


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これは剥製。


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ダーウィンのメモ


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この後妻はホテルに戻り、僕はリスボン最後の夜なので町を無目的に彷徨う。



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リベイラ市場。

二階には大きな書店とワイン・ショップがあった。そういえばポルトガルで特筆すべきはワインのおいしさである。しかも大変安い。コストパフォーマンスが大変高いことに驚く。


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CCBはベレン・文化・センターの略称。

設計はイタリア人グレゴッティという人。劇場、会議場、ギャラリー、レストラン、ショップなどの複合施設。大きさの割には外壁の石の色のせいか威圧感はない。大ギャラリーでは現代美術(1940年以降)を中心にした展覧会を行っていた。


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国立考古学博物館。

ここは広大なジェロニモス修道院の西棟部分にある。この修道院は大航海時代のポルトガルの栄光を偲ばせる大建築である。


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エントランス。内部は撮影不可であった。

展示は大変凝ったもので、ポルトガルの底力を感じる。


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海洋博物館。

ジェロニモス修道院の西の端に入り口がある。素晴らしい博物館であった。


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ここはさすがに船の模型が凄い。質量ともに圧倒される。


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海洋博物館のミュージアム・グッズは意外な事にこれまでに行った全てのミュージアムの中で最も良いと思った。とてもオリジナリティのある品揃えである。このショーケースなんか全部買い占めたいと思ったものだ。もちろんそんなことはしませんが。しかしそんな気にさせること自体が今までにないことでした。

これまで見て来たミュージアム・グッズはどこもアメリカかフランスの有名ミュージアムをお手本に(単なる真似)しているせいか似たり寄ったりでつまらない所が多いのだ。

今日の目的はユーラシア大陸の西の果て、ロカ岬である。

詩人カモンイスが「ここに地果て、海始まる」と詠んだところ。

まずは途中のシントラまで電車で行く。シントラはリスボンの西28キロ、電車で約40分。

山の中に王宮や別荘が点在する町である。

ここからさらにバスに乗って西に約40分でロカ岬に到着。

この旅のはじめの頃のアイルランド、ディングル半島を思い出す。

天気は晴天だが風が強い。

1時間程してシントラに戻る。

シントラには14世紀の王宮、7~8世紀に作られたムーア人の城跡、ペーナ宮殿などがあり町からそれぞれを巡るバスが出ている。

ペーナ宮殿を作った(作らせた)のはあの有名なドイツのノイシュヴァンシュタイン城を作ったルードヴィヒ二世のいとこ、フェルディナンド二世である。

血は争えないというべきか、笑ってしまう程のキッチュさである。1850年に完成。

何故こうもキッチュに見えるのか、多分本来ならば石や大理石で作られるべきところにコンクリを多用している所ではないかと。


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ロカ岬


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大西洋。彼方はアメリカである。


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以下シントラ、ペーナ宮殿。


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ムーア人の砦。


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シントラの町。


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午前中に歩いて近くのグルベキアン美術館へ。ここはアルメニア人の石油王の残したコレクションからできた美術館である。建物はモダニズム・スタイルで近代建築のお手本のような素晴らしい空間と思う。3人のポルトガル人建築家の共同らしい。

ここの建築にまつわる本もあったがポルトガル語だったのでよくわからなかったのは残念。美術館のカフェからの眺めなど周辺環境もとても良い。

コレクションの幅もエジプトからギリシア、イスラム、日本、ヨーロッパ美術と多彩かつ質が高い。さりげなく置かれていたが日本の蒔絵は特に突出して素晴らしい。多分大英博物館のコレクションにも劣らないのではないだろうか。


その後地下鉄と市電を乗り継いで国立古美術館へ。

ここは撮影禁止なので画像はない。ポルトガルを代表する美術館と言われるところだ。

14~19世紀のヨーロッパ美術、インド、中国、日本、アフリカなどかつて関係のあった国々の美術、そしてポルトガルの絵画と彫刻の三本柱で構成されている。

特に工芸品の量は膨大である。

ボッシュの「聖アントニオの誘惑」は特に印象深い。駄作のないボッシュの中でも最高の部類であると思う。

もうひとつは南蛮屏風が凄かった。

狩野派おそるべし、と思った。

桃山文化の最高傑作というのもうなづける。これは昔から画集で何度も見て良いとは思っていた。しかし本物の凄さというのは全く違っていた。これだけでもポルトガルに来た甲斐があったと思う。

夜、バイシャ地区にあるファドハウスに行き、食事をしながら念願のファドを聞く。7時半から結局11時半まで。


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以下グルベキアン美術館。


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そういえば。ここリスボンで思ったことではないが、ここで今まで記したことがなかったけれど、この旅で日本の伝統工芸美術がいかに素晴らしいかを思い知らされた。これは僕にとってこの旅の本当に特筆すべきことの一つであった。


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国立古美術館からテージョ川を見る。


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ファドに関するコメントは書き出すと長くなるのでやめます。


今日は月曜日なので例によって町巡りの一日となる。

私たちの宿は市の北部、カンポ・ペケーノというところで傍に大きな闘牛場がある。

リスボンの市内交通は地下鉄、バス、トラム(市電)、ケーブルカーがある。どれにも乗れる一日券でどこにでも行ける。よく言われるようにリスボンは坂の町である。せまい坂道の石畳を小さな市電がゴトゴト、ぐいぐい走って行く。

コメルシオ広場、リベイラ市場、フィゲイラ広場、サンタ・ジュスタのエレベーター、バイロ・アルト周辺、アルファマ周辺、テージョ川沿いの発見のモニュメント、ジェロニモス修道院など。

リスボンの町の規模や位置関係、市電、地下鉄、バスの路線がだいたい分る。


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朝起きたらホテルの前に三島のポスターが。残念ながらもう終わってましたが。


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「発見」という自己中心的な言葉には当然異議はありますけど。せめて「出会い」くらいにするべきだよね。21世紀にもなって。

ただ本当の意味で日本の近代を覚醒させたのは幕末の黒船なんかじゃなくて、それよりもずっと前のポルトガルの種子島到着だったことは間違いのない事だと思う。


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暖かく(10度くらい)雨模様の朝、10時20分にリエカを発つ。

ユーリッチさん、ダリンカさん、マイーダさんとお別れ。

ダミールさんの車でヴェネツィアのマルコ・ポーロ空港まで送ってもらう。

いつもならば朝6時のバスでトリエステまで出て列車でヴェネツィア、バスで空港というルートだが今回は妻が病み上がりということもあってダミールさんに運転をお願いしたのだ。

さすがに車で行くと早い、トリエステまで1時間半(バスならば2時間半)。

途中余裕ができたのでヴェネツィア近くの町のトラットリアで昼食。

2時20分に空港到着。4時発予定のポルトガル行きの飛行機は2時間の遅れとなり結局リスボン空港に降り立ったのは8時半。

10時頃宿に無事到着。日本との時差は9時間となる。


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マルコ・ポーロ空港からアドリア海とヴェネツィアを見る。


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宿に着いた後、夕食の為にレストランを探して近辺を探すもほとんどの店が閉まっていた。

諦めかけていた頃にやっと見つけたのが「ピザハット」であった。


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霧雨模様。

鳥の鳴き声、虫の声からなんとなく春の訪れの気配を感じる。

2月はもう少し厳しい寒さを予期していたので意外な感じのここ数日です。多分また何度か寒い日もぶり返すのだろうけれど。

実は今週あたりからリエカ最大のお祭り、仮装行列による大フェスティバルが本格化するのだが、残念ながら私たちは見る事ができない。この祭りはすでに近隣各地の村々で始まっていてそれが徐々に盛り上がっていくものらしい。

春を迎えるこの祭りは、はるかキリスト教以前からの土着のものが起源ということだ。約3週間後にリエカの中心街で行われるパレードでピークを迎えるとの事。

妻は見れない事を残念がっている。


午前中、町に行き両替などをする。

午後、私たちの名前がついたオリーブの樹をダルマチア、プリモシュテンにあるユーリッチさんのオリーブ畑に植樹するためのセレモニーを行う。名札を刺して樹が元気に育ち実を沢山つけるようにお祈りし土をかけ、そして皆でウオッカで乾杯する。

私たちはこの樹のゴッドファーザーとゴットマーザーだとのこと。

これからユーリッチさんたちはオリーブ畑に行く度にこの樹に「トモコサン」「テラヤマさん」と声をかけるんだという。ユーリッチさんらしい別れの挨拶。


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終日、大掃除に追われる。

夕方やってきたマイーダさんとの会話。

彼女は現在新しく作っているリエカ市のウェブサイトの編集ディレクターをしていることを昨日はじめて聞いたのだった。彼女はそこで様々な提案をしているらしく、今日はその為の重大な会議があると言っていた。ここの市長はすでに8年続いているリベラルな人で市民からは信頼されているらしい。5月には選挙もあるので、選挙のストラテジスト(戦略家?)やザグレブのデザイナーなどもやって来るという。

「今日の会議はどうだった?」と僕が尋ねると

「問題なく完璧に行きました。」とマイーダさん。その会議の中で

「この前撮影したテラヤマさん夫婦のリエカ市へのメッセージビデオを見せて紹介したら、市長がぜひディナーに招待したいので伝えてくれと言って来たの。」

「へえー。」

「でもテラヤマさんは明後日にはリエカを発ちます。と答えたら」市長から

「何で昨年の4月から今までこの僕に紹介してくれなかったんだ。と言われたわ。」

「だってテラヤマさんは自分はシャイだと言ってたし、そもそもこうゆうポリティカルなこと嫌いでしょ。」

「うん。そりゃそうだ。でももしそれがソボルさんやマイーダさんにとって必要だったならば多分どこへでも行ったと思うよ。」

彼女は笑っていた。


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朝、郵便局で荷物を送る為にマイーダさんが車で迎えに来てくれる。荷物が結構重いし、雨も降っているしで妻も手伝いに行くと言っていたのだがマイーダさんから「あなたは来てはダメ。家で寝てなさい」と言われ結局彼女の言葉に甘える事になった。
クロアチアで郵便を送る場合、完全にパッケージしてはだめで箱を開けられる状態で持って行く。そこで郵便局員が内容をチェックしOKが出てから梱包をし直すのだ。
郵便局員はマイーダさんと顔見知りの人だったらしく、とても良い人だったが、荷物を持って行って作業が終わるまでに2時間もかかった。
たかだか3箱の荷物を送るのに1人の郵便局員がかかり切りで2時間かけるなんて。こんなことで果たしてクロアチアのシステム大丈夫か?と思うが、僕が心配してもはじまらない。
2時間の間、荷物をあっちやこっちやに移動し、検査後指示されたとおりにパッケージし直す作業をやっていると汗がでてきた。まるでジムで運動したみたいねとマイーダさんと苦笑する。
とにかく荷物を無事送り出す事ができたのでホッとした。
帰りに車で「こんな非効率的なシステムで大丈夫かなあ」というとマイーダさんはいつものように済まなさそうに「クロアチアでは毎年の様にルールが変わるの。ごめんなさいね。」と言う。実際値段もネットであらかじめ調べていたのと全く違っていた。
でも実は最近では異常なまでに社会の隅々までサービスが行き渡った今の日本が普通じゃないのだと思うようになりましたけど。
考えようによっては今の(これまでの)日本は天国のような所なのだ。住んでいると気づかないけど。でもその日本システムもこれからは維持していけないかもしれないなあと思う。多分日本人がその為に相応の無理をしているのかもしれないから。

帰りの車でマイーダさんと話した事がもう一つ。
僕がリエカとザグレブで講義をしたことを知ったスプリットの美術大学の先生がマイーダさんに電話して来て、是非スプリットの美術大学に来てくれという依頼があったとのこと。
クロアチアはザグレブ、リエカ、スプリットが人口でも文化的にも3大都市なのだ。
スプリットは9月に訪れたところで、あのディオクレティアヌスの宮殿跡が旧市街になっている所。近くにはサロナ遺跡もあり、僕にとってはかなりお気に入りの町だった。
http://www.esporre.net/terayama/2008/09/0917split.php
http://www.esporre.net/terayama/2008/09/0918salona.php
「そこの美術大学の先生が、ザグレブなんてコンサバティブじゃない。私たちのところはモダーンだから、テラヤマは私たちの所にこそ来るべきよ」と言って来たという。
それを聞いて僕は「ああ、またスプリットに行きたいな」と単純におもったのだったが、
「でもテラヤマさん、奥さんが風邪でそれどころじゃなかったし、もう時間もないからあなたにはわざわざ相談しなかったわ。私からイッツトゥーレイト。ネクストタイムと言っときましたたからね。」と言われた。
「テラヤマさんあなたは今やここではユーメイジンよ。」とおもしろそうに笑っていた。
...僕は一瞬頭に浮かんだスプリット再訪が出来ない事が少し残念であった。


午前中、銀行や買い物などのために町に行く。
ここ数日寒さが緩んだようだ。小雨で霧が出ている。
このペタルクジッチの階段で町まで出るのももう最後かと思いながら歩いて行く。

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昨年末からリエカの最も古い教会の横で発掘作業が行われていた。先日そこからローマ時代のきれいなモザイクが現れ、4〜5世紀の石棺も出土したことが新聞でもテレビでも大々的に報道されていた。新聞はソボルさんがわざわざ持って来て見せてくれた。
その現場に寄ってみる。
この正面の教会の塔の向こうが海である。おそらくここはかなり広い神殿だったと推察できる。トルサット城ももとはローマ人が造った監視用の砦だったのだと思う。
僕が市長ならこの教会や周りの建物みんな移築して完全に掘り返してみたいが、この後どうするのだろう。

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午後、アメリカに発つソボルさんが別れの挨拶にやってきた。
いつか彼らと日本でまた会える日を楽しみとしたい。

夕方、いよいよ荷造り本格化。妻は時折起きて来てテキトーな僕の荷造り作業を監視するまでに回復した。
8日の出発までには何とかなりそうなので一安心である。
荷物は総計80キロで3箱。重さ調整が本当にやっかいであった。
妻の症状あまり変わらず。
今日あたり元気になるのではないかという僕の希望的観測は外れる。
ただ夕方あたりには、少し回復の兆し。
少なくとも最悪のピークを越したのではないかと思う。

昨日に引き続き荷物の選別や荷造り作業などを一人で行う。
あまり捗らず。

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以下妻の写真機より。前回のザグレブ行きの途中風景。

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妻には全く回復の兆し見えず。 
僕の時よりも症状が重いようである。

でも、呆然としているわけにもいかず、とにかく撤収のための荷造りを一人でやるしかない。
しかしここクロアチアでは荷造りの前に、荷物を送るということそのものが日本のように簡単ではないのだ。
マイーダさんとこちらの郵便事情、システムを相談するところからやる必要があるのだ。調べてもらうと料金も日本より高いしよくわからない制約がありそうだ。
こちらでは僕にすればひたすら本を買わないよう努めてきたが、それでも各所で頂いたものや資料、恐らく日本では手に入りにくいだろうと思われ購入した本が60キロほどになる。段ボール箱二箱半くらい。
その他全部で80キロ程のそれらをどのように送るかを検討。

以下10月末からこれまでの旅の覚え書きを記す。
覚え書きを記しながら思ったのだが、藤田さん、薬師寺さんが訪ねてきてくれたのはわずか3ヶ月前、ついこの間だ。
その後こんなにあっちやこっちや行ったのかと思うと我ながらこの旅尋常じゃないなと思う。
まあ自分で言うのも変ですが。
旅の前半、6月頃だったと思うが友人のスエマツ君にメールで「よくお前のその無茶苦茶な旅のスケジュールに奥さんが耐えられているなあ」と言われたことを思い出す。
実はこの旅の出発ぎりぎりまで妻は一緒に来たくないと言っていたのだ。
「あなたの研究なんだから、一人で行けばいいじゃない。子供たちが心配だから私は東京にいます。お金もかかるし。もし困ったら行ってあげるから。」だった。
まあそんな経緯もあったのだがともかく旅はここまで来たのだ。
何とか全うするしかありません。

旅の記録

10月26日以降2月頭まで。クロアチア、スロヴェニア、フランス、オーストリア、ドイツ、イタリア、エジプト、ヨルダン。


museum/library 美術館/博物館等】

ステューデント・センター(美術館)(ザグレブ)/1930年万博会場跡(ザグレブ)/ルーブル美術館(パリ)/パリ・フォト(パリ)/T.A.F(パリ)/ポンピドゥー美術館(パリ)/科学技術博物館(ウイーン)/旧総督邸(文化歴史博物館)(ドブロブニク)/クロアチア芸術協会美術館(ザグレブ)/イムホテップ博物館(エジプト)/ヌビア博物館(エジプト)/ルクソール博物館/エジプト考古学博物館/聖カトリーナ修道院(図書館)/レッド・ドット・ミュージアム(デュッセルドルフ)/シオルフェライン炭鉱跡(デュッセルドルフ)/クンスト・パラスト(デュッセルドルフ)/エーレンホーフ文化センター(デュッセルドルフ)/K21シュテンデハウス州立美術館(デュッセルドルフ)/グーテンベルク・ミュージアム(マインツ)/マチルダの丘(マインツ)/芸術家コロニー美術館(ダルムシュタット)/ドイツ映画博物館(フランクフルト)/ドイツコミュニケーション博物館(フランクフルト)/シュテーデル美術館(フランクフルト)/建築博物館(フランクフルト)/応用工芸美術館(フランクフルト)/モダン・アート・ミュージアム(フランクフルト)/シーオルガン(ザダール)/リエカ近現代美術館(リエカ)/フォルマ・ヴィヴァ屋外石彫美術館(ポルトロージェ)以上30カ所



camii/temple/church 教会/寺院/城/近代建造物等】

聖母被聖天大聖堂(ザグレブ)/トルサット城(リエカ)/ドブロブニク大聖堂(ドブロブニク)/ドミニコ会修道院(ドブロブニク)/スポンサ宮殿(ドブロブニク)/フランシスコ会修道院(ドブロブニク)/アスワン・ダム(エジプト)/アスワン・ハイ・ダム(エジプト)/スクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ教会(ヴェネツィア)/サンティッシマ・ジョバンニ・エ・パオロ教会(ヴェネツィア)/ペンラート城(デュッセルドルフ)/結婚記念塔(ダルムシュタット)/ロシア教会(ダルムシュタット)/オルブリヒ自邸(ダルムシュタット)/ベーレンスハウス(ダルムシュタット)/ハウス・ダイタース(ダルムシュタット)/グリュッケルト・ハウス(ダルムシュタット)/ケルン大聖堂/フランシスコ会修道院(ザダール)/聖ストシャ大聖堂(ザダール)/聖マリア教会修道院(ザダール)/聖ドナド教会(ザダール)/聖ユーリ教会(ロブラン)/聖ユーリ教会(ピラン)/ピラン城壁 以上25カ所


city/nature 街並/自然景観等】

オパティア市街/モトブン市街/ドブロブニク旧市街/カイロ市街/ナイル沿岸(エジプト)/ナセル湖/スーク/バフレイヤ・オアシス(白砂漠、黒砂漠。クリスタ/シナイ山/ダハブ市街/アカバ港(ヨルダン)/死海(ヨルダン)/サン・マルコ広場(ヴェネツィア)/リド島(ヴェネツィア)/メディエンハーフェン(再開発地区)(デュッセルドルフ)/デュッセルドルフ旧市街/ケルン市街/バカール市街(クロアチア)/ザダール市街/ロブラン市街(ロブラン)/ピラン旧市街(スロヴェニア)/ポルトロージェ市街/ポストイナ市街/ポストイナ鍾乳洞 以上24カ所



ruins遺跡等】

クフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッド(エジプト)/スフィンクス(エジプト)/ジェセル王のピラミッド・コンプレックス(エジプト)/ウナス王のピラミッド(エジプト)/アブシンベル神殿(エジプト)/イシス神殿/コム・オンボ神殿(エジプト)/ホルス神殿(エジプト)/ルクソール神殿(エジプト)/王家の谷/王妃の谷/メムノンの巨像/ハトシュプスト女王葬祭殿/カルナック・アムン大神殿/ペトラ遺跡(ヨルダン)  以上15カ所


academic ivent/university 大学/学会/イヴェント】

ザグレブ大学建築学部デザイン学科(ザグレブ)/マリンコ・スダッチ邸(ザグレブ)/FH.Dデュッセルドルフ応用科学大学コミュニケーションデザイン学科(デュッセルドルフ)/鈴木武アトリエ(デュッセルドルフ)/ダルムシュタット工科大学(ダルムシュタット)/リエカ大学応用美術アカデミー(講義)/ザグレブ大学建築学部デザイン学科(講義) 以上7カ所

昨晩から妻の調子が悪くなった。
多分風邪だと思うが今朝は起きられない状態になった。
熱とのどの痛み。
実は密かに恐れていたことなのだ。
僕は1月前半に同じく風邪でダウンしたが彼女が大丈夫だったおかげで何とかなった。
はじめは「この人が元気でよかった」と思ったのだったが、もし疲れからくるものだとしたら、二人一緒の行動なので何で僕がダウンしてこの人は大丈夫なんだろうか、とも思ったのだ。そしてこの人が倒れると本当にまずいなあ、このまま大丈夫でいってほしいなあと。
はっきり言って私たちはこの旅最大の危機に直面しているのかも知れない。

今日は日曜日でソボルさんたちが車でイストラ半島に連れて行ってくれることになっていたし、もうひとつは大家のユーリッチさんのオリーブ畑に私たちの名前のオリーブを植樹する為、その名付け(?)のセレモニーも行う予定だったのだ。(ユーリッチさんはこれをとても楽しみにしていた)
とにかく申し訳ないが、全てをキャンセルしてもらう。
2月8日からは帰国まで50日間の長旅が続くので、旅の途中で倒れるよりも今ここで体調を整えると考えればまだましかと思う。

終日資料の整理や片付けなど。

夕方ソボルさんたちが来てヴィデオで「雪点前」の撮影を行う。
これで彼らも映像を見ながら復習することができる。
ついでにリエカ市に住んでいる外国人によるリエカへのメッセージを撮影しているので協力してくれと言われ、ヴィデオに向かって二人でメッセージを送る。
後で見直すと、少し痩せていた。少しだけど。
とにかくこれで茶箱を無事渡す事ができたので妻はホッとしたようだった。

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ソボルさんは4日から仏教徒のコンファレンスに参加するためにアメリカに行く予定だ。
この会議には欧米から各宗派の人々が集まるという。

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これまでザグレブ芸大(美術大学)と僕が言っていた場所は、正確にはザグレブ大学・建築学部・デザイン学科ということらしい。
昨晩の酒盛りのせいで幾分(実はかなり)二日酔いではあるものの8時には目が覚める。
ミラン・アキコ邸にて朝食後、ザグレブ大学に向かう。
大学は実は今、冬休みなのだがブキッチ先生の配慮なのだろう、大学の院生を中心に多くの学生が集まっていた。
12時から1時間半ほどのレクチャーを行う。
事前にアキコさんから「テラヤマさん英語でしゃべったほうがいいんじゃないですか」と言われ、ちょっと迷ったが最初の予定通り日本語で話し、アキコさんに通訳してもらうことにした。
リエカと同様話がどこまで伝わったかどうか心もとないけど、なんとなく伝わったような感触はあった。
その後、あの(狂気の)コレクター、マリンコ・スダッチさんも加わって昼食。
僕の話したことを巡ってやそれ以外にもデザインの様々なテーマをめぐって話は尽きず。
スダッチさんは前回に会った時柳瀬正夢や村山知義に興味があると言っていたので、昨秋ムサビで行われたO教授企画の柳瀬正夢展覧会の図録を渡した。
相当、感動していた。後2年のうちには日本のアヴァンギャルド資料を集めたいと思うと言っていた。冗談じゃなさそうなところが相変わらず凄い。
この間にもハンガリーのアヴァンギャルド系の資料をかなり集めたと言っていた。
「見に来ないか」と誘われたが今回は遠慮した。
彼とは今後も関係が続きそうな気がする。
妻に言わせれば
「彼にとってあなたは理解者なのよ」らしい。

その後関係者と別れ、ミラン・アキコ邸に戻ってもまだ話は尽きず。
アキコさんミランさんともに今日も泊まれと誘って下さったがリエカでの諸々もあり
後ろ髪ひかれる思いで8時のザグレブ発リエカ行きのバスに乗る。
ミラン・アキコさんは今年の春or夏に日本に来る計画があるのでその時の再会を期待しつつ別れる。
アキコさんは普通にしゃべるだけではなく常に気を使ってミランさんに通訳しつつだったのでとても疲れたのではないかと思う。とにかく僕は酔っぱらうとマシンガンのようにしゃべってしまうから。
申し訳なかったと思う。
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ミラン・アキコ邸のバルコニーからの眺め。

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ザグレブ大学入り口にあった今回のレクチャーの為のポスター。

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右にいるのはレクチャー後いろいろ質問して来た学生。後で聞いた話によると普通講義をした後クロアチアの学生はめったに質問をしないらしい。

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右からミラン・トレンツ、今回僕を呼んでくれたブキッチ教授、左は学部長(名前失念)

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ミラン・アキコ夫妻と。

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以下ブキッチ教授からもらった大学の資料。

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明日のザグレブ大学での講義の為午前中11時のバスでザグレブへ移動。
ザグレブのバスセンターにミランさんが車で迎えに来てくれる。
今回のザグレブ滞在はホテルではなく、これまでお世話になり今回も通訳をして下さることになっているアキコさんが誘って下さったのでその言葉に甘えて、アキコ・トレンツ邸にお邪魔することになったのだ。
トレンツさんがわざわざ我々の為に(かどうかは正確にはわからないけど)ザグレブの山に行っておいしい水を採取してくれていると聞いたので、夕方お茶会をすることにした。
その後の夜、アキコさんの手料理をいただき、明日の講義の準備はそっちのけで話がはずんでしまった。
多分アキコさんのおもてなしがスペシャルだったのだろう、私たち二人はリラックスしてしまい(二人とも遠慮を知らない厚かましい性格なので)ガンガン、ワインを飲んでしまったように思う。
途中、ミラン家のお酒がなくなり(多分)ミランさんがワインを買いに出るという事までさせてしまったのだった。
とにかく普段それほどたくさんお酒を飲まない妻が、久しぶりに日本語でしゃべれる同世代の女性であるアキコさんと会えてお話しできたせいかどうかわからないが、とにかく話が尽きず夜中までの酒盛りになってしまったのだ。
デザインのこと、アートのこと、生きること、日々のささいなこと、日本と外国に住むこと、とにかく話は尽きない。
翌朝、並んだワインの瓶を見て少し反省しました。
まあとにかく楽しかったのです。

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ミラン・アキコ邸でのお茶会。

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スペシャル魚料理、アキコさんによる。

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ミラン・アキコ邸からの眺め。

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これはミラン・トレンツのザグレブでの回顧展(2005年)のカタログ。

今回ミラン・トレンツさんの作品をゆっくり見せてもらうことができた。
彼は早熟の天才で十代後半にコミックマガジンがヒットしてクロアチアでデヴューしている。
大学(ザグレブの映画大学)卒業前に作ったアニメーションで認められ、またクロアチア時代のコミックがニューヨークのヘヴィイメタルマガジンに認められ、卒業後ニューヨークへ。
先輩にクロアチアを代表するデザイナー、ミルコ・イリッチがニューヨークに居た。
彼と一緒に多くの仕事をしている。
ニューヨークタイムズやワシントンポスト、フォーチューン、ウオールストリートジャーナルのイラストレーターとして活躍し、同時期に作った絵本「ナイトミュージアム」がハリウッドで映画にもなっている。
4年前にアキコさんとともにクロアチアにもどりザグレブ芸術大学で映像を教え、アニメーションなどの作家活動をしている。
先輩のミルコ・イリッチがロックスターみたいにカッコ付けているのに比べて、トレンツ君はユーモリストで飾らない人柄、そして凄い才能を持った人であると思う。
友達になりました。

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同上図録より。

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漫画作品(コミックストリップ)

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展覧会の様子。


これまでの旅で集まった資料を日本に送るための整理作業や、ここに置いて行く(捨てる)本、持って帰る本の選別などの作業を終日行う。
しかし様々な資料や本を作業途中で思わず読んでしまい、その都度作業は中断され、はなはだ効率悪し。

例えば
白水社の文庫クセジュから出ているジョルジュ・カステラン著の「クロアチア」という本は旅の前に一度読み、5月頃にもう一度ここで読んだ本であった。
その時は大した事ないと思っていたし、実際小さな本だ。しかし今、読み返すと不思議に面白い。
西ローマ帝国の崩壊から、1200年前のクロアチア王国の成立、カトリックと国教会の対立、ハンガリー、オーストリア、イタリア(ヴェネツィア)、オスマントルコ、ロシアなどからの限りない干渉。
セルビア人とクロアチア人の相克、オスマン帝国の占領との闘争、ファシズムに巻き込まれた(ファシズムさえも利用せざる得なかったような)悲惨な独立運動、二つの世界大戦、その後のソヴィエトとのイデオロギー的な対立など、今頃になってありありとリアリティを感じながら読む事が出来るというのはいったいどういうことなんだろうか。
...と思うくらい興味深く読みだすと止まらない。

その理由は多分、それを「読む」ためのコードをこの間、僕が手に入れたという事なのだろう。
しかし、例えばアイルランドにおける(悲惨な)歴史の場合は、最初からあんまり抵抗なく読めたし一応普通に理解できたのに、クロアチアに関してはそうでなかったということは何か別の理由があったように思う。
今それが何故なのか精確に分るわけではない。
しかし多分恐らく、それだけこのセントラル・ヨーロッパ「バルカンの地」は特別に(と言っていいくらい)複雑な場所だったのだと思う。
宗教的にもカトリック、イスラム、正教、プロテスタントの相克があり、(もっと昔はローマ帝国やケルト、イリリアなどの古代社会の宗教も潜む)しかもそれは近代になっての社会主義時代においても単純ではなかった。
ソヴィエト(スターリン)との対立と同時に西側世界との対立など。
そして人種の問題。
国家ユーゴスラビア(南スラブ人の国の意味)内にかかえた、経済的、文化的、宗教的緊張。

そして結局それらを奇跡的に束ねていたチトーが死んだ後の1991年からの戦争。

僕がここリエカに来てすぐの頃、5月の初めだったかソボルさんが
「テラヤマさん、クロアチアは日本のメイジイシンのような激しい変革をこの2000年の間に20回は繰り返しているのです」
といった言葉が「かなり控えめ」な言い方だったということが今ならば分る。
今のクロアチア人にとって今クロアチアという独立国家が存在できることがどんなに貴重なことであるかということが、今ならば分る(というのはおこがましく)、感じる事ができるような気がするのです。

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