2008年11月アーカイブ

朝ルクソールに到着。

他の乗客の多くはこの日で下船するらしい。リチャード達ともお別れだ。

私たちは翌日にルクソールをもう一日見るつもりなので、もう一泊する。

午前中にナイル西岸の砂漠に行く。

メムノンの巨像、ハトシェプスト女王葬祭殿、王家の谷、王妃の谷をミニバスで移動しながら見て歩く。さすがに太陽がきつく32~3度くらいにはなっているようだ。夏はとんでもないことだろう。


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メムノンの巨像


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王妃の谷


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ハトシェプスト女王葬祭殿


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王家の谷


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墓の内部構造。内部は撮影を禁じられているので画像はない。


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一旦船にもどり昼食をとって東岸に向かう。

カルナック、アムン大神殿はさすがに時間がかかり、途中で日が暮れてしまった。

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次のルクソール神殿に着いた時には真っ暗でここはライトアップされた状態で見るしかなかったのが少し残念である。


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真夜中の3時に出発した船は6時ころにコム・オンボ(アラビア語でオリンポスの丘)に到着。朝食の前に神殿を見学。ホルス神とソベク神を祭っているので二重構造になっているところが興味深い。

午後にエドフに停泊。馬車に乗ってホルス神殿へ。

ここは全体的に壁面のレリーフが素晴らしい。その膨大な文字と画像を見ていると建築がひとつの書物(writing space)であることがひしひしと伝わって来る。


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以下コム・オンボ神殿


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一旦ボートに戻る。ボートからの眺め。古代墳墓。


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午後エドフにてホルス神殿を見る。


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私たちの乗ったクルーズ船(現地の人はボートと呼んでいた)はアスワンからルクソールまで約200キロを三泊四日かけて、ゆっくり北上する。船は途中遺跡がある町で停泊する。食事は朝昼晩と船でとるので初めての町でどこで食べるかあれこれ心配することもない。移動するホテルだ。船は全く揺れないしエンジンの音も煩くないので大変快適である。

これまでトルコやギリシアの遺跡巡りでハードな移動をしていたことに比べると、すこぶるラクチンである。こんなにラクチンしていいものか?という気持ちになる程だ。

しかし今のエジプトは実際問題としてテロの影響で旅行者が勝手に行動するにはあまりも制限が多いのだ。特にこのあたりはムスリムとコプト教(古くからあるキリスト教)が混在する地域なのでなおさらのようだ。

後になって分かったことだが船が停泊した後の遺跡を見に行くツアーは船のサービスではなくて旅行エージェンシーがその都度手配した現地のガイドが船まで迎えに来るのだ。

だから同じ船に乗っていて同じ場所を見に行く場合でも別々に行動するということが起こる。このあたりがそもそも理解しづらいところである。

船にはフランス人、アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、スイス人、イタリア人などのグループがいてで日本人は私たちだけであった。日本からの団体ツアーはこのタイプのボートとは異なるようである。乗客には遺跡を見ることを主な目的にしているタイプと、一日中船のプールに寝転んで夜騒ぐリゾートタイプとの二つに大きく分かれるようだ。それぞれの行動パターンというかお国柄がはっきり分かれているのが見ていて可笑しい。

私たちはここでイシス神殿で一緒だったイギリス人夫妻と偶然再会し、食事の席も隣合わせたので話をするうちに親しくなった。

夫のリチャードはロンドンで金融証券の会社に勤めており、おとなしい奥さんは今は子育てで休職中だがBBCのドキュメンタリー部門のプロデューサーであった。リチャードは最初は気難しい感じがしたが、エジプトの遺跡の出土品の多くが大英博物館にあるという話をしていた時「英国は貴国(日本)からはお宝をあまり分捕ってないので幸いです」など自虐的なユーモアを好む典型的なイギリス人であった。僕の旅の目的について簡単にしか話してないにもかかわらず、コム・オンボ神殿で僕が撮影に夢中でガイドの説明を聞き漏らしていたら、わざわざ探しに来て壁面に刻まれたエジプトカレンダーについて「これはあなたにとって重要だと思うから」と言ってわざわざガイドにかわって説明してくれるような男だった。


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朝10時に再びコンボイを形成してアスワンに戻る。

バスを降りると来ているはずのムハマンドがいない。今日はナイルを下るボートにチェックインし、エドフに向かうはずだった。カイロのエージェンシーに電話をすると別の男が現れてムハマンドの代わりだと言って私たちをボートに案内した。チェックインをしているとムハマンドが現れ、今日ボートは出発せず、明日の明け方3時に出発するという。全く聞かされていた話と異なるのでついに妻が切れる。この旅の予定は彼女がクロアチアにいた時からメールなどでやりとりしながら立てたものだった。ここまであまりにも頻繁に予定と異なる事が続いたのでさすがの妻も頭に来てカイロのエージェントに全てをキャンセルすると強く抗議する。

ムハマンドともう一人の男たちはあわてる。

その後いろいろやりとりがあったが省略。

とにかく旅は進めるしかない。

彼らはその後お詫びにといって私たちをヌビア人の帆船フルーカに乗せたいから来てくれという。こちらはただ当たり前に約束通りのことをして欲しいだけで半分有難迷惑であったがこれもエジプシャンウエイとあきらめフルーカ乗り場に行く。昨日ナイルでフルーカが気持ち良さそうに奔るのを見ていた。しかし今日は全く風がないためエンジン付きのボートになってしまった。アスワンにある中州で最も大きなエレファンティネ島の周りを走る。貸し切りであった。

その後、出発が延びたためヌビア博物館に行く。幸いここは9時まで開いているのだ。

収蔵品も展示もエジプトの中でも突出して良かった。

ヌビア人はアスワンから南にかけて支配していた民族で黒人である。

ローマに関する歴史などにはヌビア人は重要だがあくまでも脇役として(例えば傭兵)登場するが彼らはエレファンティネ島に先史時代から住み着いており大変興味深い文化を持っていたのだということがわかる。彼らが自らをエジプシャンでもなくアフリカンでもなくヌビア人だと言う強い自負があるということも頷ける。

こういった感触は書物では学べないもので、やはりここに来なければ感じられなかったことだと思う。


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ヌビア博物館


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以下は既に一回更新したのであるがソフトの不具合で消えてしまったので再度、更新する。

日にちがずれてしまったのはその為である。


列車で簡単な朝食をとり10時半にアスワン到着。カイロから直線距離で600キロ強南方のナイル川沿いである。ムハンマドという男が駅で出迎えてくれ、駅から近くのホテルへ。そこで彼と日程の打ち合わせをし昼食。

ここエジプトでは駅、ホテル、博物館、町中などいたるところにに自動小銃をもった兵士がいてホテル、博物館、遺跡など建物の入り口には空港にあるのと同じX線の壁を通過させられる。イスラム過激派によるテロに対する防備策であろう。列車では私たちのコンパートメントの二つ隣にいた人物が要人か何からしく(見た感じはマフィアのボス風)私服の自動小銃を持った男がその周りをうろうろしているので最初は何事かとびっくりさせられた。

ムハマンドとその旅行エージェンシーにはこの後何度もバスや船での出発時間の変更を突然告げられたり、予定とは異なるホテルに連れて行かれたりと、私たちは混乱させられることになるのだが、彼らやドライバーはそれを軍の命令で安全のためだと説明するのだが本当かどうかはあやしい。

その他諸々、私たちはエジプト的時間、エジプト的お金の計算を少しずつ学ばざるを得なくなって行くのである。(まともな人間もたまにはいるがこれまでの経験上3:7でかなりひどい)

トルコも大変だったけどエジプトはトルコ以上だ。

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2時から小型バスでアスワン・ダム、アスワン・ハイ・ダム、イシス神殿を見に行く。イギリス人の夫婦と我々4人のツアーで英語のガイドがついた。

ダムは当初、ナイルをコントロールし豊かさをもたらすものとして作られたものだが、結局の所異常気象をもたらし、洪水がなくなった事で農地は現在塩害が深刻になったという。

その後に訪れたイシス神殿、そして明日行く予定のアブ・シンベルも含めて多くの遺跡がこのダムのために水没しているのだ。イシス神殿やアブ・シンベルは移築されたので現在もかろうじて見る事ができるが移築されなかった遺跡は今もナセル湖の湖底に沈んでいる。

イシス神殿も本来の聖なる島から移動して現在のアギルキア島にある。

詳述は避けるがこの移築が良かったのかどうかははなはだ疑わしいと感じた。本来あった場所と構築物の関係はおそらく絶対的なものだったと思う。現代技術の粋を尽くして移築したことを自慢げに語っているのを見ると強い違和感を覚えざるを得ない。ここには典型的な近代技術への過信がある。移動してしまったら本来あった最も重要な何かが失われることに現代人はあまりにも無神経だ。言っても詮無い事だけれど。

でも正直に言うとその落胆の方が感動を実は上回っていたことも事実なのだ。

そんなことはありえないかもしれないが何百年か後に未来の人間がダムを元の川に戻すまで遺跡はそのまま湖底で眠っていた方が良かったのではないかという夢想に駆られてしまった。

ともあれこのイシス神殿はエジプト王朝末期からローマ時代、初期キリスト教(コプト教)にかけての遺構が混在している場所である。

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アスワンハイダム


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ダムによってできた巨大なナセル湖


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普通イメージする垂直に切り立ったダムではない。


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下流のアスワンダム


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ボートでアギルキア島にわたる。


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ナイルに戻る。


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夜中の2時に起きて3時30分発の小型バスでアブ・シンベルに向かう。アブ・シンベルはアスワンから280キロ南でエジプト最南端の地点。スーダンの国境はすぐ近くである。アスワン・ハイ・ダムによってできたナセル湖のほとりにある。

ここに行くのは前後を軍の兵隊が乗ったバスにはさまれて全ての自動車がコンボイを組んで移動する。勝手な移動は許されないらしい。その多くは大型の観光バスで全部合わせると4~50台くらいか。エジプトは今冬で観光のハイシーズンである。


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途中砂漠に昇る朝日を見る。

約3時間半後、8時前にアブシンベルに到着。多くの観光客はここで2時間程見学した後同じバスでアスワンへ戻るようだ。私たちはここで一泊する予定なのでまずはホテルに移動。

当初聞いていたホテルと全く異なるところに連れて行かれるトラブルが発生。カイロとアスワンのエージェンシーと電話のやりとり、交渉、再移動に2時間近く時間を消費。

ムハマッドやムスタファやアミーゴや訳の分からん人間が電話をかけてきてそれぞれ異なる事をエジプシャンイングリッシュで言う始末でこちらも大変消耗する。言うべき事をかなりはっきりしつこく言わないと彼らは動いてくれない。エジプシャンウエイオブライフ?やれやれ。

当初予定のホテルに荷物を置いてアブシンベルに向かえたのはやっと11時近く。

ゆっくり見学する。

ここでの感想は昨日のイシス神殿での印象と同様なので省略。


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大神殿の内部は写真が禁じられていたので画像はない。

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小神殿


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小神殿内部


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奥が至聖所


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一旦ホテルにもどり昼食をとって仮眠。昨晩ほとんど寝ていないので。

夕方5時半にホテルを出て再びアブシンベルへ。ホテルからアブシンベルの神殿まで歩いて10分くらいなので今度も歩いて行こうとしたら今度はエージェンシーが車で送り迎えするという。全くあってもなくてもよいサービスなのだがホテルの手違いを詫びる気持ちでそうしているのかどうかもよく理解できず。ライトアップされたアブシンベルと音と光のショーを見る。約30分暗闇の中ふたつの神殿が築かれた人工の岩山をスクリーンにしてユネスコによる移築の経緯から始まって、この神殿を作ったラムセス二世とエジプトの歴史が詩的な台詞と音楽とともにスライドで投影される。

ちなみにこの神殿は19世紀末にイタリア人によって発見されたもので1960年代のユネスコの移築キャンペーンで世界的に有名になったもの。

移築に関する違和感は一昨日書いたので省略。

その後ライトアップされた神殿を再び見てホテルにもどる。


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私たちが滞在している場所はナセル駅のそばでカイロの新市街の中心部にある。

朝7時からタクシーをチャーターしてピラミッド巡りをする。まず最初にカイロから西に14キロ、ギザにあるクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三つのピラミッドを見る。クフ王のピラミッドでは内部見学。その後同じエリアにあるスフィンクス。ちなみにクフ王のピラミッドは約4550年前のもの、エジプトの初期王朝の成立は約5000年前。


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ギザの南へ約10キロ移動しサッカーラ地域のピラミッド群へ。ここはカイロのピラミッド群の中でも最も興味深い場所であった。最も古い(4650年前)ジョセル王のピラミッドコンプレックス(ピラミッド+複合施設)は階段状ピラミッドであり、周壁で囲まれた敷地の中にピラミッドとセド祭殿などの遺構の複合した空間が良く残っている所。ウナス王のピラミッドは内部にピラミッドテキストと呼ばれる貴重なヒエログリフが残っている事で有名であるが残念ながら内部には入れない。外側からはかなり崩れかかったように見える。その後イムホテプ博物館へ。これは階段ピラミッドを設計した建築家でありジョセル王の当時の宰相でもあったイムホテプを記念したもの。入場したものの停電らしく真っ暗闇の中、持参した懐中電灯で展示物を見るはめになった。20分程して回復。


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写真はイムホテプ博物館が先になってしまった。


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その後少し南下してメンフィスへ。ここは古王国時代の首都である。現在はそのイメージはない。横たわった全長15メートルのラメセス2世像と美しいスフィンクスがある。


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美しいスフィンクス


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その後遅めの昼食をとってカイロに戻る。

夜、地下鉄でギザ駅まで行き、8時45分発のルクソール経由、アスワン行きの夜行列車に乗り込む。これは鉄道マニアの人がわざわざこれに乗る為にエジプトを訪れるほどだと聞かされ、当初飛行機の予定を変更したもの。老朽化した列車ではあるが二人ずつのコンパートメントになっており確かに悪くない。夕食、朝食は部屋まで運んでくれる。

これまで夜行列車、夜行バスで碌な目に会って来なかったがこの夜行列車は初めて良いと思った。


午前中10時発の飛行機でカイロへ。3時間強のフライトである。さすがに遠い。

時差が1時間減る。日本とは7時間となる。

空港で待っていたドライバーの車で宿へ向かう。空港から1時間程。

トルコ以来再びアジア的な、あの喧噪、あのカオスの世界に突入したと最初に実感させられるのは、暑さ、スモッグ、車の乱暴な運転である。

車の運転は全く無茶苦茶である。車線や交通ルールなどなきに等しい感じ。信号はおろか横断歩道がほとんどない。交差点にはいたるところに警察官がいるが全く何をしているか不明である。

まあ今回のこのドライバーはその中でもよりクレージーなやつだったらしいが。

カイロの人口は1200万人。

宿について日程について色々相談した後、夕食に出る。


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昨日書いた理由でこの日はフリーになったので前回、夏に来た時疲れ果てて入らなかった科学技術博物館に行く。夏同行していた息子が後から「お父さん、あそこは見るべきだよ」と言ったところである。

確かにミュンヘンのあの博物館に比べれば展示数は少ないものの、ここウイーンの科学技術館も大変レヴェルの高いものだった。詳述しだすときりがないが、例えばミュンヘンと比べると数が少ない分厳選しているということが言える。その分見やすい、理解しやすいということ。

展示、ディスプレイが大変優れている。

そして極めつけはやっとここにきてノイラートに触れた展示が見れたことである。

ノイラートの扱いが充分かといえば全くそうではないが、都市の諸問題について触れたコーナーにあったことだけでもかなりましな方だと思う。また残念ながらノイラートに関する説明文はありきたりというか特別目新しいものはなかった。「自国人なんだからもっと突っ込んだ紹介せんかい」と思いました。大きなお世話だろうけど。

しかし謙虚に考えればトータルなヴィジュアルコミュニケーションに対する意識はこちらの方がやっぱり大人だなとも思いました。

歴史の厚みは必要なのだ。


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宿からの眺め


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科学技術博物館


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ディファレンス・エンジン!


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ふたりのオットー、ワグナーとノイラートの接点も調べる必要あり。


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その後ウイーンの町を散策。ステファン寺院、オペラ座、新市庁舎など。新市庁舎ではクリスマスシーズンの前夜ということで飾り付けができていた。

ホテルで翌日からの準備。


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朝10時、地下鉄に乗ってアンヴァリッドへ。

エアーフランスのビルがありそこのカフェで朝食。

ここからオルリー空港へのシャトルバスに乗る。

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パリからウイーンへの飛行時間は2時間。

ウイーン空港からシャトルバスでウイーン南駅まで約30分。

4時過ぎだが雨のせいで外はほとんど真っ暗である。駅傍のホテルに無事到着。

夜10時、リエカから列車でやってきた妻を駅に迎えに行く。

今回、今日明日とエジプト出発までウイーンでわざわざ二泊予定したのはまさかの列車の遅延、飛行機の搭乗トラブルに備えてのことだったが、二人とも無事到着で何より。

午前中、末松君とポンピドーに行き駆け足で見て回る。

作品は知っていたがどんな人か未知のジャック・ヴィレグル(Jacques Villeglê)の展覧会をやっていた。

これが大変素晴らしい。

また「パリの未来派」展もやっていて、これもさすがポンピドーという感じのセレクションでとんでもなく面白かった。

その他常設展は本当に駆け足になる。


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マドレーヌ教会


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ポンピドーそばの公共自転車。このシステムはウイーンにもあった。


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ポンピドーからの眺め


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ジャック・ヴィレグル


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2時からルーブルのピラミッドの地下でパリフォトがスタートする。

パリフォトには世界の写真専門のギャラリーが出品する一種の写真の見本市のようなものだ。

例えば150年前のニエプスやマーガレット・キャメロンなどの古いオリジナルプリントから今日の写真の動向までランダムではあるが様々な状況を見る事ができて面白い。特に今年は日本特集の年で若手が紹介されていた。

日本のビッグネーム(木村伊兵衛以降)の作家は日本特集とは無関係にアメリカやフランスなどのギャラリーから出品されている。

写真に関しては1992-3年の頃、大島さんと「写真装置」復刊を目指していた頃まではかなり関心を持って見ていたがここ10年程、自分の領域の仕事に追われていたこともありあまり関心を払ってなかった。

ここ数年の貧血気味?の写真の流行にあまり関心が持てなかったこともある。

今回そういった経緯も含めて、これだけ集中的に大量のオリジナルプリントを新旧取り混ぜてみる事ができたのは良かったと思う。

自分の中の写真史の再構築、再確認の機会となった。例えば二十歳の頃自分がいかに石元泰博さんの「シカゴ、シカゴ」に影響を受けていたか、そしてそれがいかに今日まで続いているかなど。

他思う所たくさんあるけれども省略。


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会場入り口


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会場では何人かの作家やキュレーターの方とも出会えた。パリで作家活動をしているオノデラ、アキ・ルミ夫妻など。アキ・ルミ氏は昔クロアチアを放浪しザダールに一時住んでいたということで興味深い話も聞けた。3月に再びパリを訪れる予定なのでまたその時にゆっくり話がきければと思う。

また前回アムステルダムで触れたまーさんが会場にいて久しぶりに会えて話ができたことも偶然の幸運であった。まーさんは3つの欧米のギャラリーから作品が出品されていた。

時間が経つにつれ会場は人で溢れかえり、7時からまーさんがインスタレーションのパフォーマンスを行うということだが、昨日お会いした十文字さんの展覧会を今日中に見る必要もあり、残念であったが7時前に会場を出てマレ地区にあるイイヅカさんの画廊T.A.F.へ。

十文字さんは初めての個展ということなので当然レトロスペクティブな展示も行っているだろうと思っていたのだが、何とほとんど新作だったのには驚かされた。

前向きな作家の強い意志を感じ、感銘を受けた。


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T.A.F.


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末松君が「いやあ、こうしてこの年になってユーサクとパリの町を歩き回るとはなあ」と言っていたがそれは俺も同感だよ。


リエカから6時のバスでザグレブへ行きバスセンターで乗り継いで空港に9時過ぎに到着。

ここからハンガリアン航空でブタペスト経由、パリ行きの飛行機に乗るべくチケットををインターネット予約していた。しかし何が問題なのか現時点で不明であるがとにかく「あなたのチケットは昨日キャンセルされている」と言われチケットが発行されない!。

今更電車では到底今日中にはパリに行き着けない。

やむを得ず、ハンガリアン、ルフトハンザ、エアフランス(この3社しかない)の窓口で当日券があるのかどうかを聞く。元々予約したはずのハンガリアン航空はビジネスの往復券しかなく(片道は売ってくれない)、ルフトハンザはミュンヘン乗り換えルートがあり、エアフランスは一つだけ席が空いていた。皆ほぼ同じ値段(正規運賃)で当初予約した運賃の4倍!である。目眩がした。

一瞬、もうパリ行きは諦めてリエカに戻ろうかという考えが頭をよぎったが友達との約束をすっぽかすわけにはいかない。エアフランスの直行便で行く事に。


パリでは無事、友人末松君(普段はお互いファーストネームを呼び捨てにしてるがここでは名字を書くことにする)に空港で会う事ができた。

高速近郊鉄道でパリ市内に入る。地下鉄を乗り換えてマドレーヌへ。

宿はお互い歩いても行き来できる距離である。


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荷物を置いた後、末松君の知り合いで主にウエブデザインの仕事をしている市田さん夫婦のアトリエを訪ねる。市田さんはもう10年近くパリで仕事をしている。近く永住権ももらえるらしく、超有名な某化粧品会社のウエブサイトのデザインなどをしていることからも彼が特殊な技能を持っている事がわかる。この後パリ滞在中はご夫妻には本当にお世話になりました。


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夜、市田夫妻らとともに、パリフォト関係者と夕食。パリで画廊をやられているイイヅカさん夫妻、ちょうど今その画廊で個展をされている写真家の十文字美信さん、最近十文字さんが出された作品集の編集者の鎌田さん...その他の方々総勢10名以上のにぎやかな食事となる。信じられない事だが十文字さんはカメラ会社のギャラリーを除いてこれまで個展をしたことがなく今回が初めてとのことだった。明日訪ねる予定である。

また某女優さんも来ていた。太宰原作の映画に出たばかりだと言っていた。(かなり有名らしいが僕は知らなかった)彼女の出演作の話題から永井豪の漫画論の話になる。


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翌日の僕のザグレブ行きのバスと13日の妻のウイーン行きの列車のチケットを買う為に久々にひとりで町に降りる。
リエカは素晴らしい秋晴れである。

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前々から気になっていた駅の向こうの港側にある巨大な工場に近づいてみる。
線路を渡るしか近づく方法がないことは分かっていたので勝手に近づく。
こちらはプラットフォームが線路の高さなので簡単に横切る事ができるのだ。
列車はめったに入ってこないし。

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ここも廃墟だと思い込んでいたら細々と操業していた。
最初はセメント工場だと思っていたが...。こんどソボルさんに確かめてみようと思う。

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町の中心にあるローマ時代の門。
帰りに久々にカフェコントに寄る。コンチネンタルホテルのインターネットカフェである。
7月までは暑い中、わざわざここまできてブログの更新をしていたところ。
入ってみたら高級レストラン風に模様替していて驚いた。気のいい店員のお兄さん、お姉さんもいなくなっていた。
後から入って来た若いバックパッカー風の若者たちも面食らった様子で質問していた。
インターネットは従来通りできるみたいだけど。
ここに来たばかりの4月のころをふと思い出す。
カプチーノを飲んで帰宅する。

明日、早朝5時に家を出て、ザグレブ、ブタペストを経由してパリに向かう予定だ。
結局、エジプトの旅程はこちらで確定できないままであった。
とにかくナイル川沿岸がちゃんと見れればまずは良しとしよう。
後は成り行きにまかせるしかない。



終日資料読みと次の旅の支度。

エジプト行は一般的なカイロ、ルクソール、アスワン、アブ・シンベル、アレキサンドリアといったナイル川沿岸ならば、仮に向こうに行ってからでも何とかなりそうなのだが(それでも南北に1000キロの移動はあるが)、今回加えてシナイ半島に渡り、さらにヨルダンのペトラまで足を伸ばすとなると大変な旅になりそうで...。どうするべきか悩んでいるところ。
まだ確定できないでいる。
こんなにぎりぎりまで予定が確定できないのは初めてだ。

同時にエジプトの後、12月後半に訪ねるつもりのドイツ西部のルートを確保する作業。
今度のドイツ行はクレーのデュッセルドルフ、リシツキーが大学生活を送ったダルムシュタット、そしてグーテンベルクのマインツが含まれている。
とにかく行き帰りの飛行機を押さえねばならない。

そんなこんなで地味に慌ただしい日々である。


終日、調べものと次の旅の準備に追われる。

雨の合間を見て食料の買い出しに出かける。
いつもの歩いて30分のスーパーへ。
帰りは霧雨になった。
空のキャリーバッグを満杯にして帰る。
いつものことだが約15キロほどか、結構重い。
ただ中身はワインやビールなどアルコール水分比率が高く
これは苦労話にはならないねと妻と苦笑する。

前々日マイーダさんと話したことの覚え書き。
イヴァさんのいるドブロブニクの話。
1992年のクロアチア独立の際に起こった旧ユーゴスラヴア軍との戦争でドブロブニクの町がかなり破壊されたことは有名である。
プリトヴィッツェ国立公園と同様危機的世界遺産リストにはいったのだが、この時の状況は凄まじかったらしく僕らが眺めた町からすぐ上に見えるスルジ山の頂上まで旧ユーゴスラヴィア軍に占領され、そこから集中砲火を浴びたらしい。
僕らが訪ねたイヴァさんの家にも爆弾が飛来したらしいのだが幸運にも不発でコンクリートにひびが入っただけですんだらしい。
僕が少し驚いたのはそのような状況の中でほとんどの住人が疎開というのか避難しなかったということである。小さい子供だけは避難させたらしいけれども。
そこに長い歴史を持つドブロブニクの人々の強い意志があったのだなと感じた。
マイーダさんが言うには困難だったのは当時クロアチアはまだ国としてちゃんと独立したわけではなかったから寄せ集めの防衛軍だったのでより大変であったという。
結局ドブロブニクは占領されなかった。

その後スダッチさんのコレクションの話になり芸術と国のアイデンティティ、ナショナリズムを巡って話をしたがそれは複雑だし、長くなるのでまた機会があったら書きたい。
ともあれ、ヨーロッパは複雑である。
ましてやこのバルカン半島は。

エジプトの前のパリフォトは今年は日本特集らしく楽しみである。
しかしエジプトが本当に決まらない。
すこしあせる。
まる一日、次のエジプト旅行の計画に費やす。
これは後半最大の山場だと思われる。
なかなか難しい。

食料の買い出しに行く必要があるのだが終日雨で家を出られず。
終日、メールで各方面への礼状や様々な連絡など。
次の旅の宿の予約や切符の手配など。
まずは数日後のパリ行きとウイーン行きのルートを押さえる。
お昼にマイーダさんとお茶。

夕方藤田さんたちにいただいたお土産のうるめいわしをみそ汁とご飯で食す。
全くこんなに美味いものがこの世にあるのかと思う程おいしい。

トリュフもいいけど僕はグルメじゃないので、このうるめいわしの方にどちらかと言えば感動する。
今日本を離れているからであろうか。
慌ただしく昨晩無理をしてリエカに戻ったのは、今後の旅のスケジュールがタイトであるからである。
ついこのあいだ旅の半分が過ぎたばかりと思っていたが後半やりたいこと、行きたい事を考えると意外に時間が足りないのだ。

リエカは相変わらず、曇り空で時々雨が降っている。本格的な秋だ。
大家のユリッチさん、ダリンカさんはダルマチアにある別荘のオリーブの収穫に行ってしまい当分帰って来ない。100%のスペシャルなオリーブオイルを持って来てあげるといわれているので楽しみだ。

終日1週間程たまったブログの更新を行う。妻は次の旅行の予約などに追われている。
朝10時過ぎにホテルへ車で迎えに来てくれたあきこさんと昨日レセプションのあったHDLUクロアチア芸術協会美術館のフランチェスキさんを訪ねる。
彼とあきこさんの車で早速コレクターのスダッチさん宅を訪ねる。丘の上のザグレブ旧市街のさらに奥は高級住宅地で大統領官邸もある美しいところである。そこにスダッチさんの家はあった。助手の方と我々を迎えてくれた。

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ジーコ似の大コレクター、スダッチさんと。
これはスダッチ邸を辞す時に撮ったものだけど、我ながら興奮して頭に血が上った時の顔をしてますなあ。

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左からあきこさん、スダッチさんの助手(名前失念)、フランチェスキさん、スダッチさん。
あきこさんは10月15日に知り合った桐谷さんが紹介してくれた方で、ニューヨークでアーティスト活動した後クロアチア人の旦那さんと結婚し、今ザグレブに住んでいる。今回のミーティングのお手伝いを快く引き受けて下さった。前日のレセプションで既に旦那さんとも挨拶済みである。
旦那さんは高名なイラストレーター、コミック、映像作家でミルコ・イリイッチと同様にニューヨークで活躍した後、現在ザグレブ芸大でアニメーションを教えている。
あきこさんには通訳ではなくて、僕がへたでもとりあえずがんばってしゃべるので横にいて分からない時にヘルプして下さいとお願いした。頼り出すときりがないので。
フランチェスキさんは最初HDLUの主任学芸員のような立場だろうと勝手に思い込んでいたのだが、どうも館長のようである。まあ肩書きなどどうでもいい話であるが。ほとんど僕と同世代である。

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そこからの出来事は書き出したら簡単には済まなくなるものであった。
とにかく彼は途方もない量のコレクションを惜しげもなく見せてくれた。というか全くみきれない分量である。
範囲もアヴァンギャルド時代のグラフィック・デザインの領域を超えて現代美術まで含まれているし、例えばクロアチアの有名なアニメ作家の場合、絵コンテ、セル画も根こそぎ持っているのだ。雑誌も微妙にサイズが異なっていたり、検閲が入ったものなどの複数ヴァージョンも。
ある種の狂気というか何と言うか。
現在の日本のコレクターも何人か知っているが全く比較にならない。むしろ(会った事はないが)昔の日本の財閥、五島慶太や益田飩翁などが想起される程そのスケールがでかい。
彼は37歳と若いが自分で会社を経営している。洗濯機を作る会社と建築会社のようだ。そこで儲けた金を全てコレクションに注ぎ込んでいるらしい。
大学教育とは全く無縁であるという。
「いつからコレクションを始めたのか?」という質問に「生まれた時から」と冗談を言っていたが、僕が今回見せられたデザインに関するものはたかだかここ数年と言っていた。これも信じられない。
僕の編集したリシツキーの本を見てそれが大学のコレクションだというと「これ皆ほしいなあ。売らないのか」と冗談を言っていた。「売るわけねえだろう」と思いましたが冗談に聞こえない所が凄い。しかも後で分かったのだが、彼は金にあかして買い集めたのではなく周りの人がその価値に気づかない時期に根こそぎ収集していたという。それを知ったフランチェスキさんが展覧会をリエカで行い(それにマイーダさんが関わっていた)それで市場では急激に価値が高まったらしい。結局かれは損をしていないのだ。もちろん売って儲けようなどとは思ってないようだったが。
日本のアヴァンギャルド、柳瀬や村山にも興味をもっているらしく、今回待ってましたとばかりにいろいろ質問された。

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戦後ユーゴスラヴィアを代表するグラフィックデザイナーのグワッシュによる原画。
この作家は数日前に高齢で亡くなったという。

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アニメーションのキャラクター設定のスケッチや音楽のスコアなど。

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始めのうちは写真をメモ代わりに撮っていたが、あまりにも膨大な量に途中からばからしくなってやめた。

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スダッチさんのコレクションのみで行われた展覧会(リエカ)の図録。
編集はフランチェスキさん、マイーダさんも英語の翻訳で関わっている。

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ユーゴスラヴィアのアヴァンギャルドはミチチ率いるゼニートと旅団(travelers)という二つの集団があった。彼らの写真、往復書簡やメモなども全てスダッチさんは持っているのだ。

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戦後のアヴァンギャルドも当然のように。

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これはもっと最近の現代美術中心の図録。背が10センチ近くある大部のもの。

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これも。

ともかくいつまでいても見切れないので、「また来たければいつでもどうぞ」という話になって皆で遅めの昼食(2時を過ぎていたか)に行く事に。
途中彼の建てたビルディングに置いてある現代クロアチア美術のおびただしい作品なども見る。
話に忙しく写真はほとんどとる暇がなかった。

その場にザグレブ芸大のデザイン史、デザイン理論の先生ブキッチさんが合流した。
昼食後スダッチさん、フランチェスキさんと別れ、ブキッチさんとあきこさん三人でステューデントセンターの展覧会に行く。
途中ザグレブ芸大を通りながら30分程歩く。
さすがにデザイン史の先生、歩きながらあの建物、この建物、町の構造の由来などを簡単に紹介してくれたのだが大変興味深い。スペシャルなガイドであった。
さすがにブキッチさんはスダッチさんのような狂気?の雰囲気はなく、むしろ控えめな感じの方だが、少し話して相当優れた人だというのがすぐに分かった。
僕が知りたいと思っていたクロアチア(旧ユーゴスラヴィア)のデザインや建築、アートに関する第一人者なのだ。
ここらへんのフランチェスキさんのセンスには改めて舌を巻く。ソボルさん、マイーダさんが「とにかくフランチェスキは凄い人だからあなたを見たらそれにふさわしいことを考えてくれるからとにかく会えば」といって人見知りだからといって渋る僕を会わせた理由が良くわかった。

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ザグレブ芸大はこの奥。

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ステューデントセンター

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ここはかつて1930年代万国博覧会の会場だった場所らしい。これはイタリア館だという。
今は無惨な廃墟である。最近同じ会場内の木造の建築が火災で焼失したという。
ブキッチ先生に「しかし、これだけのものが残っているということが凄い。修復すれば立派な文化遺産になるのに」ということを言ったら激しく同意していた。
クロアチアでは、まだまだ予算的に手がまわらないのだろうけど。

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ステューデントセンターも歴史ある場所のようだった。今夜が内覧会である。
1968年のいわゆる世界中で起こった社会変革の波がここザグレブでもあり、その当時から今日までのポスターが展示されていた。夜時間がないという僕の為にブキッチ先生はわざわざ見れるようにしてくれたのであった。

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展覧会図録。これもかなり分厚い。

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ブキッチ先生の本をもらった。英語であることがありがたい。

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同じくブキッチ先生が編集した本。Zagreb modernity and the city

僕は今回の旅ではなかば意識的に大学などのアカデミックな場所とのコンタクトは避けて来たのだが、ザグレブでの5月の奇跡的なゼニート遭遇事件以来、奇跡的な人との出会いや繋がりを考えるとこれは人知ではなく天の差配としか思えない。
なのでとにかく素直に状況を受け入れ行動しようと思う。

ブキッチ先生からレクチャーを頼まれたので1月にザグレブ芸大で話をすることにした。

この後あきこさんと別れ(彼女には一日中付き合ってもらい大変ありがたかった。今度ザダールのシーオルガンを見に行きましょうということになった。楽しみである!)

その後ザグレブの町を散策していた藤田さん、薬師寺さん一行と合流し、最後の晩餐二日目を行いお分かれする。
私たちは9時発のバスでリエカへ。
帰宅すると12時を過ぎていた。

朝、快晴。まるで真夏の光の中、ドブロブニク旧市街のプロチェ門からすぐそばにあるマイーダさんの妹のイヴァさんのアトリエを訪ねる。イヴァさんは陶芸家で旦那さんはガラスをやっておりここは二人の工房兼ショップである。昨日が日曜日だったので私たちは訪問を遠慮したのであるが実は待っていてくれたようであった。マイーダさんから連絡があったのだろう、私たちの為にプレゼントまで用意してくれていた。
イヴァさんはダリンカさん似である。
お正月はリエカで会う約束をした。

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後で知ったことだがイヴァさんたちのアトリエは旦那さんのマルコさんの実家でもあった。
このあたりは第二次大戦後は全く家もなかった場所だったらしい。

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私たちがそもそもクロアチアのリエカに滞在するようになったのは全くの偶然にもかかわらず、このような出会い、繋がりができることの不思議さを思わずにはいられない。

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ホテルの窓から見えるグンドリッチ広場。月曜の朝の市。

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一時間遅れの飛行機でザグレブへ。ここはザグレブのホテル。

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夕方、ザグレブ散策の後、フランチェスキさんから招待されていたHDLUクロアチア芸術協会美術館の展覧会のオープニングに皆と向かう。

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HDLU。白い建物がピンクにライトアップされていた、かなりクレイジーである。

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入り口で藤田さん薬師寺さんらをフランチェスキさんに紹介した後内部へ。

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この展覧会はコンペティションだったらしく授賞式はテレビが取材していた。

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僕は明日の昼間、ザグレブのアヴァンギャルドアートのコレクターやザグレブ芸大の先生と会う予定があり、藤田さん薬師寺さんご夫婦とゆっくりできるのは今日が最後かもしれないということで、このレセプションのあと皆で最後の晩餐(飲み会?)に行きました。
この間藤田、薬師寺ご夫妻とは旅をともにできたし、久々に日本語でいろんな話ができ、まさに叱咤激励され、夫婦共々ありがたいことでした。



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現在は文化歴史博物館として使われている総督邸にて。昔の地図、右上にRAGVSAとある。

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中庭

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オノフリオの小噴水

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1990年代のボスニア戦争におけるドブロブニク防衛軍兵士を記念した部屋。壁には戦死した兵士の写真、ヴィデオで当時の破壊されたドブロブニクの町が映し出されていた。

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防衛軍の旗

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向こうに見えるのがスルジ山。右手が旧総督邸。

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昔の港。人が泳いでいた。

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フランシスコ会修道院

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城壁の上を歩く。全長約2キロ。

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左向こうに見えるのはロヴリイェナツ要塞。

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スルジ山側の城壁

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城壁の最も高い所から見たドブロブニク旧市街。

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フランシスコ会修道院

前夜からの雨が朝には土砂降りとなる中、タクシーでリエカのバスセンターに向かう。
今日はクロアチアのほぼ南端、ドブロブニクに行く予定である。
「アドリア海の真珠」とも称されるドブロブニクはおそらく日本でも最も有名なクロアチアの都市かもしれない。ここクロアチアでもソボルさんたちからこれまで何度も行くべきと勧められ実際二度程計画したのだが、何せリエカから交通の便が悪いのとタイミングがうまく会わず断念したところである。
リエカからドブロブニクは直線距離だと400キロ強、バスだと12時間かかる。
今回はここに訪ねて来られた藤田さんたちに合わせて一緒に行く計画を立てたのだった。
リエカからいったんザグレブへバスで向かい、飛行機でドブロブニクに飛ぶルートである。
所要時間は7時間弱。

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ザグレブ

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ザグレブ、サヴァ川をこえて空港に向かう。

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ドブロブニクの湾岸。

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手前に見えるのはロクルム島。

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城塞都市ドブロブニクを囲む城壁。構造は総督府など城内の建築物も含めて5月に訪ねたギリシアのロドス島旧市街と驚く程似ている。異なっているのはロドスは聖ヨハネ騎士団が島民を支配して作ったのに対して、ここは完全な独立共和国であったことだ。
http://www.esporre.net/terayama/2008/05/523.php
ヴェネツイアの強い影響下にあったロドス島とドブロブニクが似ているのは歴史的に言えば当然のことで、アドリア海の女王といわれるヴェネツイアがゲルマン人の圧迫から逃れたローマ人が潟(ラグーン)に住み着いたのと同様、ここも昔から住んでいたローマ人がスラブ人(現クロアチア人)から逃れて住み着いたのが始まりである。ここの昔の名前はラグーサであったという。



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ピレ門から市街に入る。

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ここ旧市街は車は入れない。プラッツァ通り。ここは7世紀には運河で海だったところ。


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旧市街にある宿に荷物をおいて散策に出かける。ホテルの前にあるグンドリッチ広場。

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階段の上は大聖堂。

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大聖堂内

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少し雨模様のなかモトブンへ向かう。
イストラ半島の中央部にある丘の上の町モトブンは以前にも書いたが交通の便がすこぶる悪くなかなか行けない所である。
今回私の友人が来たということでソボルさん夫妻と友人のダミールさんが車で連れて行ってくれた。
周囲が城壁に囲まれたモトブンの町は13世紀にできたという。町の入り口にある回廊には歴代支配者の碑文が飾られていた。
周囲はなだらかな丘陵地帯でよくイタリアのトスカーナ地方に似ているといわれる。ここはオリーブやワインの産地としても有名だが何よりもトリュフらしい。周囲はトリュフの森である。僕はグルメじゃないので「何それ?」みたいな感じではあるが。
またここは地形的に霧が発生しやすいところらしく、霧が発生すると丘の上にある町がまるで雲の上の町に見えるらしい。(今回は雨模様なのであいにく霧は出ていなかったけど)
それでソボルさんに言わせればクロアチアの人にとってここはおとぎの国のイメージが昔からあるようだ。
そのせいかどうか知らないが宮崎さんの映画、ラピュタもここがモデルだという説もあるところである。

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モトブン周辺

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城壁

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天空の町モトブンにて

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町の中心。
この町はマイナーだが夏にモトブン映画祭が行われる所としても有名である。上映は全て屋外スクリーンで若者が多数集まるという。宿泊は皆町や周囲の丘陵でテントを張るらしい。

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下から見たモトブンの丘。

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その後ソボル夫妻お勧めのレストランに行く。素材は全てオーガニックで、トリュフのかかったパスタはグルメじゃない僕にも細胞がぴりぴり反応するくらいおいしかった。
食にうるさいイタリア人が沢山やって来るというのもうなづける。
かつてここを占領したイタリア人はここの森を手にいれたかったのではないかと思いました。

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帰りにリエカの町のそばにあるサッカー場に寄る。ここはプロチーム・リエカの本拠地である。海のそばの岩盤を戦後ダイナマイトと人力で削って作ったという。

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今回、ソボルさん運転の車に我々男性陣は乗って行ったのだが、以前書いたように彼は日本の暴走族のように無茶苦茶、飛ばす。
早速、藤田さんに呆れられて「クレージー・ボーイ」と言われるようになってしまった。本人は多分知らないけど。







朝は昨日の大雨が嘘の様に晴れるが、昼近くになるとまた雲が出て暗くなった。
雨を心配しながらも近所のトルサット城や聖母教会を見てペタル・クジッチの階段で町まで降りる。
市場を少し覗いたあとバスでオパティアへ。

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トルサット城

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城からの眺め。ここに来るのは近いにもかかわらず4月以降二度目である。
ここから見るリエカの町とアドリア海はやっぱり素晴らしい。

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城の北側

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オパティアの波の音を録音する薬師寺さん。
彼は版画家であるが藤田さんの編集した昭和文学の群像シリーズ、中上健次、村上龍のブックデザインの折りに挿画をお願いしたのが付き合いの始まりであった。かれこれ十数年になる。僕はこの旅行で行けなかったが9月に銀座の養清堂で個展をしたばかりである。

オパティアを訪れるのも春以来二度目である。
秋の波の強いこの季節もなかなか風情があって良い。
春にケーキを食べておいしかったホテル・ブリストルのレストランで遅めの昼食。

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向こうに見えるのがリエカの町。
日が暮れてリエカに戻る。
夜はまた嵐のような大雨となる。


朝からリエカは雷雨。一日中heavy rainである。
年間降雨量の平均をみるとこの季節のクロアチアは東京の倍である。
春から夏にかけて雨が少ない分、この季節に集中して降るようだ。
夜遅く、東京からの友人が到着する。
藤田さんご夫妻と薬師寺さんご夫妻である。
成田→チューリヒ→ザグレブ→リエカの長旅を経て我が家に陣中見舞いに来てくれたのだ。
到着は10時を過ぎていたが皆さん元気で一安心である。雨はほとんど止んでいた。
さっそく話に花が咲いて夜遅くまで飲む。

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藤田さんが三十数年前に三島と作った本(装釘もご自身)の文庫版を持って来て下さった。(巻末の解説も書かれている。藤田さんは日本文学の知る人ぞ知る大編集者である)
しかしこの本はマイーダさんが三島を好きだと聞いて彼女にあげることに。

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