2009年1月アーカイブ

そろそろ、ここリエカの撤収作業にかからねばならない。
ここを出てからの日程に関して、僕はザグレブでの講義が終わらない事には落ち着いて考えられないのでとりあえず妻がかわりにやってくれている。これも来週から慌ただしくなりそうだ。

今クロアチアではハンドボールの世界選手権が各地で行われており結構盛り上がっている。
以前、サッカーの熱狂については何度か触れたがここはバスケットとハンドボールもプロリーグがあり、かなり人気のスポーツだ。テレビでも時々やっている。
ハンドボールは妻が熱心にテレビを見ている。
クロアチアは結構強くて勝ち進んでいるようである。
国民全部でたった450万人しかいないのに、サッカーもバスケットもハンドも(加えてプロテニスも)世界的に見て一目置かれるほど強いというのは考えてみたら凄い事だ。
特に西欧列強諸国、ドイツやイギリスなどと対戦する時のクロアチア人の熱くなり方は尋常ではない。彼らにとって国際戦は戦争のようなものなのだ。
アジアにおける日本対韓国戦や日本対中国戦のような雰囲気がもっと複雑で激しく存在している。ような印象を受ける。

ともかくクロアチアの強さは彼らの「根性」とか「矜持」を示している。
と僕は勝手に思っていた。
しかし年末に遊びに来たベルリンのモリタさんのモリタ理論によればそうではなく
「テラヤマさん、それはですね、クロアチアに美人が多いからですよ!美人が多いと男は頑張るもんなんですよ。」とのことであった。
さすが欧州滞在の長い人の視点は違うのだ。
でも本当かなあ...?。
確かにクロアチアの特にダルマチア地方は美人が多い事で有名で、国際的に活躍するモデルの産地らしいけど。

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妻の写真機より。ポストイナにて。

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駅。

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リエカ大学応用美術アカデミーというのが正式名のようである。
最初の自己紹介は日本語でしゃべったほうが良いとソボルさんが言うのでそうした。
朝の10時から約2時間、ソボルさんのおかげで何とか無事に終了。
終わった後握手を求めに来る学生もいたし、聞いてくれた先生は「インプレッシブ」とか言っていたけど実際どこまで伝える事ができたかは不明です。
しかしまあともかくも、少しはリエカという町に自分なりの義理のひとつは果たせたかと...。

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ちなみに学生の総数は300名ほどとのこと。

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講義の後研究室にて。右から招待してくれたシンカニヤ教授、学科長のシュチマッチ教授。左はソボルさん。

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講義の後、シンカニヤさん、(写真を撮り損なったのが残念であるがカウボーイのような)IVO VRTARIC教授(通称クムさん)、ソボルさん。マイーダさん、妻とお茶を飲みに行く。
これはクムさんにいただいた地酒。強烈だがおいしい。
kumさんのことは以前マイーダさんにも聞いた事はあったのだが普段、モトヴンの自分の牧場で生活しているアーティストで、たまに学生と一日かけてモトヴンから馬で来たりするそうだ。
とても興味深い人物でかなり感じるものがあった。マレーヴィチが好きな様で私の今日の話にもマレーヴィチがちょっと出て来たので話が通じた。
モトブンの牧場でマレーヴィチのコンセプトをベースにした数日間のワークショップもしていて今年はあのワイマールのバウハウス大学の学生たちが来るそうだ。
確かにマレーヴィチの絵に地平線を馬が走る絵があります。
馬に乗りにこいと誘ってくれたのだが...。
時間があればまたモトヴンまで行ってみたいけど。

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帰ってくるとアドリア海は凄い光景を見せてくれた。

実際声に出して原稿を読んでみて時間を計り、それに通訳の時間を想定し、話が時間内に収まるようにあらかじめ並べてあったスライドを幾分減らしたり並べ替えたりといった作業に追われる。
最後に妻も初めて聞く(見る)話なので横で見てもらって最初のオーディエンスとして「これ分るかなあ」とか言いながら、いろいろアドヴァイスをもらう。
この場合、分る分らないというのは言葉の問題もあるのだけれど、むしろ学生たちの置かれている状況、デザインの環境のクロアチアと日本との違いとか落差のようなことである。
考えさせられる事多し。

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妻の写真機より。ポルトロージェ。

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ピラン、ヴェネツィアのライオン。

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夕方近く、ザグレブのアキコさんから最終的なリライト原稿を送ってもらう。
リエカの講義の為に(以前ここにも書いたが)日本文の原稿を自分で英語に翻訳してそれをソボルさんに見せ、ソボルさんと話しながら改良したものがあった。
基本的にはそれでいくしかないと思っていたのだが、アキコさんにもし読んでみて何かアドバイスがあればお願いしますと原稿を送っていたのだった。
アキコさんはこの正月フランス旅行もありかつ風邪もひかれていたにもかかわらず、熱心に原稿を読み比べてくれてかなり修正してくれたのだった。昨日からその確認作業をしていて最後はチャットと電話でのやりとりも加わった。
「遅くなってごめんなさい。」と何度も謝られて恐縮する。
実際読み比べると最初の原稿は文章という感じで堅苦しい気が何となくしていたのだが、なんかスムーズな話し言葉にちゃんと変わっているのだ。もちろん文意は変えないで。
いや、僕の語学力ではあくまでもそんな気がするとしか言い様がないのですけど。
実際声に出してみるとますますその感じを深める。
最初のテキストはやたら難しい単語が出て来るのだがそれも減っている。
自分で訳しておきながら、自分で意味が分からんとはしゃれにならないですから。
ともかくありがたいことであった。
その後、大急ぎで原稿をソボルさんに送り、夜プリントアウトしてもらうことができた。

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妻の写真機より。イストラ半島風景。ピランに向かう途中。

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来週26日に予定しているリエカ美術大学での講義が近づき緊張感たかまる。

もともと日本でも沢山の学生の前で話すのは苦手だし、これは何年経験しても変わらない。

こればっかりは慣れっちゅうのはないような気がする。

特にあの講義室の雰囲気がだめだ。

ゼミ室などで学生と向かい合っている時は全然OKなんだけど。

多分、ただ気が小さいだけなんだろう。今更でかくなりたいとも思わんが。

しかもこの旅ですっかり学校の事を忘れていて、今更ながら悪夢の感覚が蘇っているところである。


15日に書いた朦朧覚え書きのC.S.パースについてみぎわさんからメールがあった。

僕の旅を見ながら思い浮かべたパースの言葉があったとして以下のテキストを送ってくれた。


「......身体がなければ、多分われわれは情態というものを持たないだろう。......情態は全て認知的であり、感覚であり、感覚は心的記号あるいは言葉である。......そこで人間が動物的情態だとすれば、言葉はまさに同じく書かれた情態である」

「私は、この「ライティングスペーストラベラー」というタイトル、初めは単純に寺山さんがライティングスペースを旅しているのだと受け止めていましたが、パースの言葉を思い出してからは、寺山さんというライティングスペースが旅しているのだと思うようになりました。」

このパースの言葉もとても奥深いものがあります。「情態」という言葉がすごいですね。

またみぎわさんのタイトルへの指摘は僕も実感していたことで、最初は僕も単純にwriting spaceを巡る旅と何気なくつけたのです。しかしどうもそんなに単純な主客二分化などはできないと感じていたのです。つまり自分と世界が入れ子になっているという感覚でしょうか。それを言葉にしてくれたものでした。


かつてK先生と視覚伝達デザインの研究会の名前を「カメレオン」・プロジェクトにした時の記憶も蘇って来た。

...もしも私たちがカメレオンのように自分の身体が受容器であると同時にプロジェクション機能を持っていたとしたら...。

いや多分カメレオンのようにあからさまに目に見えなくてもそれが意味するところは同じ事なのだ。


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以下妻の写真機より。凍った水の中に浮かぶ蛇口。


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ロヴラン。


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ここ数日、もうすぐここリエカを離れなければならない時が迫ってきたことを考えるとふいに寂しさと悲しみの感情が心に起こる。

これは当初予測だにしていなかったことで、我ながら意外な感情であった。 
人の心がいかに不確かなものかと思う。
この1月のシシリーなどの小旅行をとりやめてここリエカに籠ろうと決めたのもひょっとしたら僕の心の奥底の感情がそれを決めさせたのかもしれないと今になって思う。
私たちは茶の稽古をしながら少しずつ別れの挨拶をしているのかもしれない。
そんなことはもちろん言葉には出さないけれど。
お茶の稽古が別れの挨拶なんてちょっと出来過ぎだとも思うけれど。
しかしこれから恐らくこの「雪」という点前をする度に私たちはリエカのこと、ソボルさんやマイーダさんのことを思い出すのであろう。
また彼らとて。

今日は予定した稽古の最終日。11時から。
道歌は
稽古とは一より習ひ十を知り
十よりかへるもとのその一

雪点前をソボルさんマイーダさんは二度繰り返した。
一応なんとか最後までできたので当初の予想よりもはるかに上出来だったのではないかと思う。
後もう一度どこかで時間をつくって最後の復習をすることになるであろう。

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彼らからお礼にとプレゼントされたエスプレッソマシーン。

今日も終日勉強。
お茶の稽古三日目は11時から3時間。
今日は仕舞いの稽古のあといよいよ雪点前の練習に入る。
この茶箱はいわば携帯お茶セットである。
アウトドアでもどこでもお茶を点てることができるところが素晴らしい。
また茶碗や棗(なつめ)を包む仕覆(しふく)が美しい。
ただこの出し入れが結構難しいのだ。
今日の道歌は
右の手を扱ふ時はわが心
左の方にありとしるべし

これなどは身体論として奥深い。とてもギブソン的ですね。

ソボルさんは僕の記憶はヴィデオ的ですと言っていたが、複雑な手順の記憶力が抜群に凄い。

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終日勉強。
今日は13時から2時間半の稽古。
割稽古の続き。茶巾、茶筅などの扱い。
抹茶の頂き方の復習など。
今日の利休道歌は
ならひつつ見てこそ習へ習はずに
よしあしいふは愚なりけり

利休道歌の言ってることはとても奥深い。
翻訳してみるとますますその感を強くする。
ひたすら見る事、そして行為が無意識化するまで繰り返せと言っている。
身体に覚えさせる、型から入るという日本古来の学習方法はとても興味深い。

そう、いつからか「かっこよりも中身が大事なんだよね」的な言い方を日本人はするようになったのだろうか。
これは一見真実っぽいが底が浅いなあなどと考える。

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ソボルさん、マイーダさんともに熱心でなかなか飲み込みが早い。
ソボルさんは日本語をしゃべる時、彼の好きな三船敏郎と北野武のまねをするところがおかしい。

僕は昔の古傷(膝、ソボルさんも同様である)で正座はせいぜい15分くらいが限度である。
しかし本当に久々に正座をし背筋をのばし座るのはとても気持ちの良い事だったことを思い出す。
そういえば物心ついた頃から僕は母の稽古をいつも見ていたのだった。
いつも客の役回りで頂く側でしたが。
終日、家で勉強する以外に今日から自宅でソボルさんマイーダさんとお茶の稽古をすることになった。
11時から3時間。
私たちはこの旅に雪点前ができる茶箱を持参していた。
時々お茶が飲みたくなるし、最後は旅先でこの茶箱をどなたかにあげてもいいと思って持って来たものである。
ソボルさんもマイーダさんもたまに家に寄った時はこれでお茶を飲み、気に入った風であったのでよかったら差し上げようと妻と話していたのだ。しかしお茶の点て方もわからずに茶箱だけもらっても困るよなという話になり、私たちのクロアチア滞在もあと僅かだということになってどうするか考えた。
結局ソボルさんもマイーダさんも是非教えて欲しいということになり慌ただしく稽古をすることにしたのだった。
先生は妻である。彼女は10年くらい修行をし一応茶名もある。僕は半東(はんとう=アシスタント)兼通訳である。
雪点前というのはなかなか複雑ではたしてマスターできるかどうか、妻は不安がったがとりあえずスタートしてみることに。
まずは席入りの練習。次に割稽古といって袱紗さばきなどの部分的練習を行う。
稽古の最初、挨拶の前に全員で利休居士道歌を一首吟じ黙祷するのであるが今日は
その道に入らんと思ふ心こそ
我が身ながらの師匠なりけれ


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向こうが見立ての床の間。本当は掛け軸も自分で描こうかと思ったが、もともと飾られてたクレーが良いのでそのままに。
リエカとザグレブでの講義の準備、その他の勉強の為当分家に籠る。
今日からリエカの天気も雨模様となった。

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以下妻の写真機より。トルサットの丘から北を見る。

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バルコニーから見えるイストラ半島の山。

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凍った水たまり。

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トルサット城にもある例のライオン(ヴェネツィア支配を示す)

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ポストイナはピランから北東へ直線距離で60キロ程のところにある。

スロヴェニアの首都リュブリャナとリエカを結ぶ鉄道駅のあるところである。

写真を見比べれば分るがたった60キロしか離れてなくても、内陸部に入ればいわゆるアルプス(の地中海側)となり全くの冬景色となる。観光ガイド風に言えばこのスロヴェニアやクロアチアは自然の風光の多様さでは本当にヨーロッパの中でも群を抜く所であると思う。

帰路にここを選んだのはこのあたりには有名な鍾乳洞が点在しているので一応見ておこうと思ったためである。ポストイナ駅のそばにはヨーロッパ最大のポストイナ鍾乳洞があり、そこから33キロ離れたところにはシュコツィヤン鍾乳洞もある。こちらは世界遺産となっていて地底に250メートルの大渓谷があって凄そうではあるが、例のごとく交通の便が悪いし、無理してはしご(?)をしてまで鍾乳洞を見たいわけではないので、今回はポストイナ鍾乳洞のみを訪れた。


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この右手には大きなホテルやショッピングアーケード風な場所もあるのだが冬期休業中であった。


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このトロッコに乗って2キロ程進む。


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この鍾乳洞は10万年くらいの間に地下水が石灰岩を削ってできたものという。

全長は27キロとのこと。トロッコをおりた後は2キロほどガイド(英語)の説明を聞きながら歩く。約2時間。


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ポストイナ駅。

鍾乳洞を見終わった後は町を散策しようと思っていたのだが美術館などの公共施設は全てクローズド。しかも土曜日の為かマーケットなど全ての店が閉まっていた。レストランだけは2件開いていてなんとか昼食を食べる事が出来たけれど。

まるでゴーストタウンというか、時が止まってしまった町のようでスティーブン・キングの小説を思い出しました。

夕方、例の一日一本の列車に乗って無事リエカに帰還。


朝5時に起き、6時に家を出て7時のバスでポルトロージュ、ピランに向かう。
ポルトロージュはリエカから直線距離だと約70キロ北東のスロヴェニアにある。イタリアのトリエステからは30キロほど南下したトリエステ湾の端にある。
イストラ半島を横断するのであるが例のごとく交通の便はすこぶる悪く、また国境(EU)越えがある。途中イストラ半島の半ばブジェットで小型バスに乗り換えコーペルへ。コーペルでバスを乗り換えポルトロージュへ到着。約3時間ほど。

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イストラ半島。有名な霧を見る事が出来た。

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ポルトロージュの港。

この町の南の小さな半島にフォルマ・ヴィヴァという屋外の石彫公園(open air museum)がありそれが今回の目的である。すぐ南、クロアチアと接している所にセチョヴリエという広大な天然の塩田がある。公園から塩田とアドリア海が見えるとても美しい場所である。
フォルマ・ヴィヴァは旧ユーゴスラヴィア時代の1961年から毎年、作家を招聘してきたようだ。作家はここに滞在して作品を残している。現在(48年間)までそれは持続しているところが、これまでのスロヴェニア(旧ユーゴスラヴィア)の激しい歴史的変転を考えれば驚くべきことのように思う。しかもこれに端を発してスロヴェニアは他にも鉄と木のそれぞれ素材別の同様の大きな美術館があるのだ。
旧ユーゴに限らず旧東欧諸国のこのような地味だが地道で誠実な芸術やデザインへの取り組みは情報こそ少なかったので西側諸国にはあまり知られてないが、再評価されるべきもののように思う。

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フォルマ・ヴィヴァのあるセチャ公園から塩田とトリエステ湾を見る。

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ここを教えてくれたのは尊敬する彫刻家のSさんで彼もここに作品を残していると聞いたのでそれと出会える事も今回の楽しみの一つであった。実際に行って見て、かなりの作品が丘全体に散在しているので果たして出会えるかと不安になったがちゃんと見つける事ができた。

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彼は30年位前(1978年)と言っていたがプレートには確か1971年と書かれていた。なんと38年前である!

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ディテールを見ていると、彫刻家の仕事というのは(建築家とも共通するけど)否が応でも自然との共作になるのだなあとしみじみ感じました。
まるでこれまで僕が彷徨って来た様々な遺跡のように。
多分石という素材にそもそもそのような宿命があるのだろう。鉄やステンレス、または木であれば自ずと印象は異なる。時間のスパンが全く異なるのだ。多分素材の石自体が何万年かの時間をかけて作られたものなのだから。

その後、すぐ近くのピランという町を訪れる。ここは13世紀から17世紀にかけてヴェネツイアに支配された町。いたるところにあのライオンの像がある。あのライオン像(結構間の抜けた顔の)を見ると今の国とは関係なくそこがヴェネツイア共和国であることを実感する。
これはピランに限らないが現在の国境とは何かを考えさせられることでもある。

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ピランの広場

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細い半島の先端にあるピランの旧市街。城壁からの眺め。

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城壁

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聖ユーリ教会

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半島の先端にある灯台。

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ここで一泊するかどうか迷ったが結局夜のバスでポストイナへ移動。
ポストイナは零下10度の冬の町であった。
終日家にて調べもの、読書などで過ごす。ゆえに特筆すべきことはない。

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ここ数日寝込んでいて朦朧状態ではあったが思考した中に重要だと思われる事があったので以下覚え書きとして記す。
(朦朧雑記なので長いです。あくまで自分のための覚え書きなので興味のない方はどうぞ読み飛ばして下さい)

「これからチャールズ・サンダース・パースをもう一度真剣に勉強し直さなくてはならない」という強烈な考えに見舞われた。
それはパースの記号学が主ではあるが、もちろん論理学や現象学も含めて再度しっかり読み直すということだ。
「全ての思考は記号である」
「全ての経験は時間の中の連続的なプロセスである」
という有名なことばをめぐってあれやこれや考える。
...この場合のプロセスとは一回限りのものであるけれども(経験とは常に一回限りなので)、しかし場合によっては別のプロセスで何度でも繰り返せるし、順番が決まっているわけではない、それは例えば僕らが絵を見る経験において特にとか...。
これは突然降ってわいたかのような感じもしたが、パースは人間の思考においてそもそも「直感的に」何かが頭に降りて来るなどといった類いは絶対に認めない人だったので、僕がこう考えたのにも意識化してないにせよ多分何らかの理由があるのだ(つまりあるプロセスを経た上で浮かんできたことなのだ)と思う。
それをここ2〜3日で考えてみた。
そもそもパースのことを幾分真剣に読んでいたのは20代後半から30歳の前半までで、結局彼の書いたテキストはとても分り辛く、かなり昔に音を上げて放り出してしまっていた。
今がその時以上に読解力があるかというと自信はないが。

まあそれはともかくとして
パースの記号論で最も重要な部分は思考のプロセスに関することである。
そして人の認知行為の中で最も重要なことは推論(のプロセス)であると述べている。
パースによれば推論は演繹と帰納と仮説形成の3つでできている。

極端に細部を端折ればパースが語ったのは、これが知覚と思考を理解するための道具立ての全てである(ように思う)。
たったこれだけ。
しかしこれで充分。
複雑な世界を解読するのに複雑な道具ではやっていられない。
問題はシンプルな道具をいかに用いるかなのだ。
ジェイムス・ギブソンもその点全く同じ態度であった。
しかし、しかしである。(ギブソンもまた同様であるが)実際はこれがとてつもなく難しい。
パースはこの三つの道具立てで世界を分類、論証していくのだが、とんでもなく複雑(に思える)な例の三角形を作り出した。大抵の人は多分これで挫折する。
(友人のみぎわさんはしぶとくその作業を持続している数少ないパース研究者の一人だ)

しかし僕はこれをもっと真剣に深く考えるべきであったと、今回朦朧とした頭で強く感じたのだ。
あの三角形が仮にパース程の天才でない限り簡単に理解できないとしてもだ。
すぐにあきらめないで少しずつ、そのプロセスを歩んでも良いのではないかと思えて来た。
で、その時にひらめいたのは本を理解しようと読むのではなく、
「自分自身の何らかの制作行為を通じて思考すれば良いのだ」
というのが今回の朦朧思考における最も重要なポイントである。
(書いてしまえば当たり前すぎてどうということもないが)
極端に言えば僕にとってパースを正しく理解する必要はそもそもないのである。
それを正しく理解しなければと考えたのがそもそも挫折の原因であるような気がしたのだ。
道具としての思考と思考そのものの理解を僕は混同していたし、それ故に自分の道具としての思考が時としてブレて、実際の制作と乖離していたのだ。
こんなことを今言うのは自分は馬鹿ですと言っているようなものだ。
実際馬鹿なんだからしょうがないじゃねえかと今は開き直っているところだ。

...まあそれもともかくとして
演繹はかなり論理的な説明であり、分析的で図式的である。故にこれは思考においては川下の「言説」の領域。
帰納は個人的な経験、感情から一般論にいたる道筋。一般論にいたらなくてもよいのだが。例えば絵を見て何か類似物を想起したり、別の記憶を重ね合わせたり、新しい関係物を発見したりするいわば中流域。
そして仮説形成(アブダクション)はもっとも川上にあって帰納を導くための触覚的な手探りのようなもの。環境と自分の間に生起する原初的知覚、あるいは新しい何かに出会うための自己投機的な振る舞い。

この仮説形成は仮に造形においては、これまで見た事もない形や方法に接近するためのものでもある。
私たちが「創発的」と言っているものはこの仮説形成によって生み出される。

その他は長くなるので省略。
(なお以上の説明は僕が勝手に理解していることなので正しいことかどうかは全く分らない)

では何故、今になってパースだと確信したか。
以下推論できるのはおおむね3つの理由による。

まず第一は自分にとって必要なことは哲学などの最先端を理解したりすることでは当然なく自分のヴィジュアル・コミュニケーション行為にとって必要な思考の道具、信頼に足る道具は何かを探すという目的の為であり、それをここ30年程考え続けてきた(つもりであった)。
しかし振り返ると自分の能力を過信し、あれやこれやに手を出し、全くものになっていないことに愕然とした。自分の頭の悪さに気がつかないこと自体が相当な問題であり、実はそれを考えると現在かなり絶望的な暗い気分であるがそれはここではとりあえず置いておく。
ともかくも、風邪のせいばかりじゃなくて自分がかなり心理的に追いつめられた状態であると思われる。

第二にこの旅(現在9ヶ月以上経過)を振り返って自分が採っている知覚の方法が全て基本的にパースが言った通りであった事に「はた」と気づいたこと。

まず非日常的といえる程の膨大な絵、図像、文字、風景などを見ている時、感じて理解したり認知したりする時に自動的に働く思考プロセスである。それは上に述べたような帰納的なプロセス。何か類似物を想起したり、別の記憶を重ね合わせたり、新しい関係物を発見したりすること。アナロジーやメタファーなどの稼働。

そしてまた、うまく言葉化できないけど存在する、単なる理解や納得を超えたある新しい出会いのようなものの遭遇感覚。一般論のためではない帰納的な帰結。

また日常の極めて不自由な言語環境の経験にもよる。つまり沢山の外国語に囲まれて行動する時、自分がとっている知覚と理解のプロセスも同様にパースがあてはまる。
ものを理解したり認知したり思考することは普段無意識に行っているが、ここ外国では無意識には物事は進行してくれない。言葉が理解されない時、出来ない時、全知全能を傾けて何かを発見する志向が起きる。環境、状況、身振り、表情、空気、抑揚、エトセトラ、推論を導き出す為の膨大な情報を必死でピックアップしようとすること。
パースが言っている事は正しいという結論。

第三に僕がこれまであれやこれや寄り道して来たものの起点の多くがパースにあったという仮説形成による。(かなり大雑把だけれどメモとして)
ジェイムス・ギブソン(+グレゴリー・ベイトソン、エドワード・ホール)などの生態学的知覚論、現象学、知覚心理学。
ウイリアム・ジェイムスのプラグマティズム。
現象学およびゲシュタルト心理学。
(ノイラートのいた)ウイーン学団。
エルンスト・マッハの科学哲学。
それぞれへの影響関係と共通項など。

ちなみにソシュールやバルトの「記号論」は社会や表現された表象を読み取ったりすることにおいて重要だと思ったし興味深かったが、今となってはそれだけのもので自分の道具としては今回は全くと言っていい程関係がないことも痛感。

最後にここまでメモしてきて浮かんだ4つめの理由。この旅が終わった後、自分はこれまでのやり方とは違ったやり方で物を作っていきたいと多分(無意識的に強く)思っていたのだろう。
仮に望んだとしても自分が別人になるわけはないのでそれは他人から見れば恐らく大したことではないだろうし、ささやかなことだ。もちろん、それが何かはここには書けないけれども。
午前中、リエカ近現代美術館に行く。
「17回国際ドローイングードローイングとアニメーション」展を見る。
この美術館の60周年、国際ドローイング展の40周年も兼ねているようであった。
ドローイングといいながらほとんどアニメーション展であった。
ここは前にも書いたがおもしろい建物だが展示は相変わらず良くない。
でもともかくかなりの数のアニメーションを見れた。
日本人作家では山村浩二「カフカ田舎医者」と和田敦「鼻の日」を見た。
たまたま今、N本先生が送ってくれたDVDでここ10年程の視デの学生のアニメーション(映像)を見直す機会があった。内容的には相当レヴェルが高く、こういう場所に出しても全く見劣りしないと思った。だから出せば良いと単純に言いたいのではなく(それはひとつは本人の作家的意思の問題もあるから)そもそも作家を育てる事が可能なのかという根源的な問題もあるように思う。これは夏にリンツのアルスエレクトロニカでもちょっと感じたことだが、美術大学にある根源的な問題なのだけど...。

帰宅後まじめに勉強。

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美術館のトイレのタイルにレーニン。これはまじめなのか冗談なのか?
ロヴランは私の今いる家のベランダからいつも真正面に見えるイストラ半島の小さな港町である。リエカから18キロ南でオパティヤのさらに南にある。現在はオパティヤと同様のリゾート地でもあるが、オパティヤよりもはるかに由緒のある町である。7世紀からここは港町として栄えていたのだ。
前々から行きたいと思っていたがやっと実現した。
ここはバカール同様記憶に残るクロアチアの場所のひとつとなった。

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このあたりはおそらく19世紀に作られたリゾートのためのヴィラ。

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旧市街の広場の聖ユーリ教会。ほぼ14世紀の建築。

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旧市街広場の主。町の人は通りかかると皆彼女(彼氏?)に「ディーディー」と声をかけていた。

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旧市街で最も古い場所、井戸らしい。

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ロヴランの港。真正面がリエカ。

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オパティア同様、海岸沿いに美しい遊歩道が続いている。

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「こんな場所で育てば色彩感覚がさぞや良くなりそうね」とは妻のセリフである。
僕「こんな場所が日常の散歩道であることがうらやましい」

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今日は昨年末から決まっていたリエカ美術大学での打ち合わせの日。
マイーダさんが車で迎えに来てくれて一緒に家を出る。
この学校は家から歩いてもせいぜい7〜8分のところにあり、これまでもここで何度も写真を載せて来た。いつまでたっても新築工事が進まないところである。
しかし、実際行ってみて僕が勝手に誤解していたことがいくつか判明した。
まずここトルサットの丘の西側はかつてユーゴスラビアの軍隊の駐屯地だったということが今回分った。つまり18年くらい前ということだ。当時のユーゴスラビアは徴兵制があり、若者は皆1年の兵役義務があってここトルサットはその軍隊の教育施設だったという。常時4000名くらいの若者がここにいたのだと。
その後、クロアチアが独立した後、(徴兵制度もなくなり)旧兵舎を流用してここに美術の教員養成大学ができたのだ。そこが今回私が訪れた場所である。
そしてさらにここは現在、応用技術系の総合大学として再編されつつあるということであった。現在リエカ市内に散らばっている文学、建築、法学、薬学、医学、理工学等の単科大学がここに集まるということなのだ。そしてかつての美術教員養成の学校も美術とデザインの大学として再編成されたのだった。正式な名称はよく分らないが12月に訪ねたデュッセルドルフのFH-D(応用科学大学)のようなものだと思う。
こういう総合大学ができるのはクロアチアでも初めてであることも今回知った。考えてみればクロアチアは独立してからまだ日も浅く、政治のみならず教育システムなど様々なことが現在構築中なのであることを改めて知る。
それがぼくがここリエカに滞在以来、散歩中になんとなくぼーっと見て来た建築中の建物の実態だったのだ。(もともと大学からは遠ざかろうと努力してきたので詳しいことを知らなかったのは当然であるけれど)僕がマイーダさんに「建築中の建物はすべて美術大学の建物だと思っていた」と言ったら「テラヤマさん、あなたクロアチアの人口を知ってますか?」と笑われた。確かにクロアチアの人口は450万人程。国土面積も九州の1.5倍なのだ。そんなでかい美術大学なんか必要なわけはないのだった。僕の所属する日本の大学もそもそも日本では最も学生数の多い美術大学でしかもそれは多分世界的にみても最も学生数の多い美術大学なのだ。そっちの方が一般的に考えて異常なのかもしれない。

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リエカ美術大学はこの建物で全て。彫刻も絵画もデザインも全てここに収まる。

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屋根裏を改築したところがコンピュータ・ルーム

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新築中の校舎。また改めて散歩で来ようと思います。

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講義室

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研究室にて。僕を招待して下さった先生は実は風邪でダウンしてお休みで今日は会えなかった。代わりにいろいろ面倒をみてくれたヤコブ・ザパー教授。彼はザグレブの美術大学を出た後オーストラリアのメルボルンで十数年デザイナーをした後、ここに呼ばれて来たという。まだ着任して1〜2ヶ月とのこと。彼は立ち上がると2メートル近くあります。座った写真で良かった。

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以前ここで紹介したミルコ・イリッチもそれから年末に会ったミラン・トレンツさんもそして今日会ったヤコブさんも人口450万の非英語圏の国に生まれている。そして国外に活路を見出している。そしてソボルさんがかつて僕に(彼は語学の達人でどこにだって行こうと思えば行けたのに)絶対リエカを離れるつもりはない、と強い口調で言った事を思い出したりもした。
同じく非英語圏ではあっても人口一億人の国に生まれた僕はそんなこと考えなくてこれまできた。それが幸せだったのかどうだったのかとふと考える。
もちろん選ぶとか選ばないとかの事ではなくて運命としか言いようはないことだけど。
少なくとも日本でも1000部とか2000部とかのマイナーな本ばかりデザインしてきた僕はどちらかというと450万人規模の国のほうが合っていたのかもしれないと思う。


やっと自信をもって回復したと言えるような状態になった。
1が3つも並んでめでたいので、今日が僕にとっての仕事始めというか新年のスタートのような気持ちである。
今日はリエカはとても穏やかな日和で久々に家を出て散歩に行った。
自宅では読書、調べもの等通常のパターンに戻る。

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薬師寺さんからの年賀状、無事に到着。とても手の込んだ(銅版画で5色刷り!)ものです。まるでお見舞いをもらったような気持ちになりました。

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12月の始めに大学の某部署が送った荷物の一つが今頃になって到着。どこをどう放浪していたのかボロボロ(これでも相当修復されていた)。中身の本はだめになっていたがDVDはビニール袋にカバーされていたのでなんとか無事だった。この間随分ご迷惑をおかけしたN本先生に早速報告。

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トルサット城(砦)ここは来る度ごとに良い場所だと思うようになった。とても良い空気が充満している場所である。今回ギャラリーのパネルでこの城の歴史をじっくり読んでみた。

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右上が城

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今回は、体調が(といってもそんなに大げさなものじゃないにもかかわらず、微妙に)悪いというのは意外に大変なことだと実感させられた。
まず何と言っても精神的なものというか、気持ちが思っていた以上にダウンするのがよく分った。
まるでジキルとハイドのように自分の中に別人がいるということを実感させられた。
しかしここ何日か朦朧な状態で考えたことも実は悪い事ばかりではなかったような気もしている。
それまで意識上ではあえて消していたこととか、無視していたことを知る事ができたような。
それは自分のこれからを考える上で多分大切なことであると思っている。
そういった意味で今回寝込んだのは、自分の中にある無意識的な一種のリハビリ作用が働いたせいかもしれない。
0110の写真で中川師匠から「あれは間違っておるぞ」とメールがあった。
もちろん説明が間違っているのではなく写真を僕が勘違いしたものであった。
もうすでに訂正していますが念のため。
冷や汗の不肖の弟子より。

やっと普通の感覚が戻って来た実感を得る。

今回のことで普通の状態=健康がいかに大切か思い知らされた。

これから無理せず少しずつ体調を整えていこうと思う。

(ご心配をおかけした方々すいません)

この間中川さんから前回15日に掲載した以下の物件についてのコメントをいただいた。


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ともかく以下引用させていただきます。


あれはね、ヤドリギ(宿り木)ほかの木に寄生する植物。

常緑で冬でも葉の緑が鮮やかで、赤い実がつくことでクリスマスには喜ばれる植物です。

あの宿り木の下では誰にキスをしてもいいと北欧ではいわれています。

種の皮が硬く、その実を鳥に食べられても消化されず糞の中でそのまま排泄され、ほかの植物の木の股などで発芽 し、親木の養分をいただきながら生活する、"パラサイト"

でもこれがたくさんつきすぎて枯れてしまった親木というもはあまり見たことがないなあ。

何か親木にもメリットがあるのかなあ。


...とのことでした。さすが僕のアウトドアの師匠。なんでもご存知なのだ。

中川さんの肩書きは写真家であったが最近はむしろ作家である。しかし僕の中ではアウトドアというか自然と遊ぶというか、生活することというか、その道の達人なのである。20年程前、中川さんと塩野米松さんの本をデザインしたのがお付き合いの始めであった。

取材と称しては現場にご一緒させてもらいそれ以降随分お世話になった。なにしろカヌーやシーカヤックは日本でも草分けだし、釣り(フライ・フィッシング)やスノー・クロスカントリー、星空観察、野外料理、キャンピング、植物や鉱物にも詳しい、(基本的に必要な道具は自分で作ってしまう)とにかく達人なのである。ちょうど子供たちも小さかったので影響を受けやすい僕はよく家族でキャンプに行くようになった。自分たちだけで行くと僕の場合はどっちかというと難民キャンプみたいになってしまう何とも全くダメな弟子であったが、自分にないものを持っているこの方には随分教えられることが多かった。最近は釣りはイギリスの田舎の川をも主戦場にしておられるようだが、木の上に家を造ったり田んぼを借りて仲間とお米を作ったり、海のそばで子供たちにアウトドア生活を教える学校をNPOで作ったりと活動は全く衰えない。

以前ここにも書いたようにクロアチアでユーリッチさんのアウトドアライフやもの作りスタイルにも感心したが、日本の僕の知り合いで真っ先に思い出したのが中川さんであった。


で、ここまで書いてみて気がついたことだがデザインを通じて仕事をする楽しさは「アウトドア」にもちろん限らない「文学」や「建築」等など、様々な「その道の達人」とその都度ご一緒できるであることは間違いない。

しかし僕はこれまでそれらは「その人の道」でありあくまでも僕の「デザイン」の道とは異なると思い込んでいた。しかしよく考えればそれらとの出会いは自分にとってデザインとはそもそもどんな存在意義があるのかを考える重要な鍵、そして糧になっていたのだと改めて気づかされるのだ。


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以下は中川さんのブログです。

http://blog.goo.ne.jp/bossokashira


何とか前日よりは良くなったような気がするが油断はできない。

こんなにぐずつくと「これは風邪じゃないんじゃないか?何か他の病気かも」と少し不安になってきたところである。
なにせ自慢じゃないが「20年かけて手塩にかけて作り上げた完璧なメタボ体質」なのでいろいろ思い当たることは沢山ある。
でも病は気からというし、そんなことわざわざ今考える事はあるまいと封印する。

学生時代からの友人カタヤマくんから見舞いのメールが来た。
この正月彼のブログを読んでいてそのエッセイに抱腹絶倒していたところなので遠く離れていても離れている感じがしません。
やっぱりこのネットでつながった世界というのは本当に実現してるんだなあと今更の様にしみじみ思う。
カタヤマくんとは20代から30歳後半まで代々木で仕事場をシェアしていたので、考えてみればお互い奥さんよりもずっと長く一緒に生活していたのだ。当時は二人ともしょっちゅう仕事で徹夜してたし、徹夜でよく酒も飲んでいた。事務所の床でシュラフでよく寝ていたが当時は全然平気というかそれが大変だなんて思ってなかったような気がする。若さって言うのはそういうことだったのだと思う。今から考えると恐ろしいことだ。
しかし、その彼も最近は完全に朝型生活になり適度な運動をし、まじめ生活を送っているようでメタボは克服したようである。
仕事は相変わらずバリバリこなし、この5月には個展もやっているのだ。
見習いたいと思います。

「今日は大分いいみたいだ」と言って起き出してみる。
妻「あなた昨日の朝も同じ事言ったわよ。寝てた方がいいんじゃない。」
「そうするわ」

いやーここに書きようがないですね。上記のように何もなくて。
今回風邪がこんなに長引くとは...。

本当は曼荼羅文化センターで献茶会を行う予定(お茶を点てるのはもちろん僕じゃなくて妻)もあったのだがリエカの寒さもあり中止。
明日はザグレブのアキコさんのところでの打ち合わせを一旦は予定したのだが、明日元気になっている自信がなくこれも中止させてもらってメールのやりとりで何とかすることになった。

そもそも漠然とではあったが1月はナポリに行ってポンペイの遺跡、シチリア島に渡ってパレルモ、シラクサ、アグリジェントを訪れるつもりであった。
妻は僕が寝ている間もいろいろ調整してシミュレーションしてくれたが、結局無理はできないということで断念することになった。
アグリジェントは心残りではあるけれど、最後の一ヶ月はクロアチアでしっかり過ごすことの方が今は重要かもしれない。
これまでの旅で得たものを反芻したり、整理したり、新たに考えたりしたいことは山ほどあるのだから。実際横になって朦朧な頭でもいろいろ思いは巡るのである。
それにザグレブとリエカでの講義の準備もある。

そしてここを2月の前半に引き払って以降の計画(ポルトガル、スペイン、フランスなど)を落ち着いてちゃんと立てようということになった。さすが1年の長旅だと今回のようなことも避けられないし、これもそういう運命だと受け止めポジティブに考えようと思う。

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妻の写真機より。高速道路にて。この険しい岩山の連なりもクロアチアらしい風景だ。

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リエカでは風の激しく吹きすさぶ日と穏やかな日が交互にやって来るようだ。
風の激しい日は外に干したタオルがあっという間にカチンカチンに凍ってしまう。
水たまりの氷もかなりの分厚さである。





今日はもう元気だろうと思って朝起き出すのだが、やっぱり調子が悪く、薬を飲んで寝たり起きたり。
昨年末に漠然とたてていた1月の小旅行の計画は完全に頓挫している。
計画をたてるどころではない状態である。
合間に読書をしようとか試みるのだがすぐに眠たくなる。
とにかく寝るしかないと思い17時間ほどねむっただろうか。
冬眠する熊の気持ちで朦朧を楽しむしかない。
i-podのシャッフル機能は単なるランダムのはずなんだが、2600曲の中でどうしてこの曲の後にこれが来るのかと不思議な気持ちになる。これ偏ってるぞというか意図を感じ始める。
いや楽しんでいるんですが。曲目を書き並べたい欲望を感じるほどです。

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妻の写真機より。バカールの港。




風邪薬と滋養強壮と書いてある漢方薬を飲んでずっと寝ていた。
普段は昼間は眠れない質なのだが薬のせいかよく眠れる。
というか起きてるのか眠っているのかよくわからない状態。夢うつつ?が続く。
食事時には起きて食べれるのでそれほどひどくはないのだろうと思う。
ヘッドフォンが嫌いなのでこちらに来てあまり使ってなかったi-podをシャッフルにして
寝ながら聞いている。意識朦朧の中充分トリップした感じになる。新たな発見である。
英会話とイタリア語会話のためにi-podに入れてたデータは結局こっちに来て全く聞かなかったなあと苦笑しつつ。シャッフルの途中突然挿入される英会話のデータ(岩村某の一分間英会話とか)が邪魔でその都度ボタンを次へ押さねばならないのがめんどくさい(病の中の本音状態で向学心は全く失われている事がこれによってわかる)今度消さなくてはと朦朧とした意識の中で思う。
シャッフル機能はとてもおもろいと思う。
音を聞くとそれを聞いた時代が蘇ってそれも面白い。
とにかく今の自分にはこの朦朧が必要なのだと朦朧とした状態で考える。

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妻の写真機から。デュッセルドルフ。

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同上。あの固まりは何だったのだろうか。



今日はクロアチアの滞在許可証を申請するために警察に行かねばならない。
朝、風呂に入ったのだが何故か途中で水になってしまい中途半端になってしまった。
歩いてペタルクジッチを降りて警察署へ。建物の前でマイーダさんと待ち合わせたのだ。
小一時間ほどかかって無事許可証を得た。
その後カフェでお茶をして曼荼羅文化センターに寄り、市場で買い物をして帰宅。
帰宅と同時に体調が悪くなり寝込む。
ここ数日鼻風邪ぎみではあったが大したことはないと高をくくっていたのだ。
朝の水風呂が良くなかったのか、熱はない模様だがとにかく関節が痛む。
薬を飲んで寝ることにした。

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妻の写真機より。リエカ。まるで我が家にある山桃の実のようだ。
今日は日曜日。
妻と今後の日程を少し打ち合わせる。
そのあと散歩に出かける。今年最初の散歩である。
家のあるトルサットの丘の裏側を探索する。
何十メートルかで頂上に行き着くはずだがこれまで本気で昇った事はない。
また丘の上にはいつも行くスーパーマーケット(西にある)に行く別のルートがあるはずだと、ここに来て以来妻と話していたのだが、いつも工事中のリエカ美術大学の広大な敷地のフェンスにぶつかってこれまで断念してきた。
今回はもう少し根性を出して探索しようと考えた。
(どっちにしろローカルな話ですいません)
そして私たちは新たなルートを発見した!
今後使う機会があるかどうかはわからないほどの獣道であったけれど。
これっていつもの旅のパターンと全く一緒でおかしい。
裏道や抜け道を発見した頃にその町とはお別れというパターンである。


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新たな工事現場に遭遇。

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丘からアドリア海を見下ろす。

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この先が頂上であるが行き止まり。

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適当に歩いていると丘の裏側に出た。谷をはさんで向こう側の集落。

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丘の尾根下に道らしきものを発見。突き進む。

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丘の西側に出る。写真は春からいつまでたっても完成しないリエカ美術大学の新校舎。

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多分第二次大戦前から残る不思議で無意味な壁と駐車場のような場所。ロックコンサートには向いていそうだ。
右手丘が私たちが探索した獣道。左奥が私たちの住居のあるところ。


ちょっと風邪気味が続く。
静かに過ごす。
九州の実家とスカイプで話す。
今年はカレンダーのせいか5日から学校も始まったりするらしく、日本のお正月は短いらしい。
息子達もそれぞれに帰京するようだ。
記憶に残った親父とのやりとり。
旅の後半の話をしていて最後に親父が言ったひと言。
「まあともかくも...キュウジンノコウヲイッキニカかんようにな」
僕「...あ親父、すいませんが今のもう一回言ってくれる?意味は後で自分で調べるから」
もちろん親父はその場で意味を説明してくれたが、あとで電子辞書で調べた。親父の言った言葉は
「九仞の功を一箕に「か」く(ことなかれ)」(「か」はこのマックでは表示できない。)であった。
これは「書経」からのことばで
『高い山を築くのに、最後のもっこ一杯の土が足りないために完成しない。長い間の努力も最後の少しの過失からだめになってしまうことのたとえ。』であった。
もちろん、親父が「旅は最後まで気を緩めず無事帰って来なさい」という意味で言ったのは重々承知なのだが、この言葉によってその晩は勝手に妄想が膨らみ、山の上であと一杯の土が足りないと言って頭を抱える自分のイメージが何度も出て来て寝付かれず。
中国の古い言葉はなんとも凄みのあるものですね。


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ちょうど去年の今日。立川にて。




昨日は客が来て慌ただしかったので、今日はゆっくり起きる。
ちょっと風邪気味であるが今日が元旦のような感じがする。
静かな年頭である。
妻と二人で雑煮を食べる。
ここ一ヶ月ちかくドイツ行き以来、とにかく慌ただしく過ごしてきたので今日は久々にのんびり寝正月を決め込もうと思う。
今年はいつものように年末の28から31日にかけて年賀状書きという悪夢もなく(例年妻からその計画性のなさを責められつつ苦しんでいた)それだけでもありがたいことであったと思う。
周りには日本のお正月を指し示す記号は全くなく普通の日々と変わりないとはいえ、やはり年が変わるという事実は大きなものだ。
ページがめくられた音が響くようだ。
だらだらしながらも本能的なものかどうかはわからないが、これまでを思い、これからのことを考えてしまうものだ。
我が家ではいつも正月には家族4人でそれぞれ今年の抱負を述べることがしきたりになっている。
例えば去年の僕は「さらに日々努力して禁煙できるようにがんばりたい」だの「さらに日々気を付けて酒量を適切な値に持って行く様努力したい」とかそういう抱負である。(苦笑しながらそれを聞いている長男の顔が浮かんで来る。年頭の抱負で息子に苦笑されるのは我ながら情けないと思う)
今年は息子達は多分おじいちゃんの所で抱負を述べている事と思う。

さすがに今年はいつもと状況が異なるのでいつもとは違った新年である。
過去を思い返すにしても1年ではなくてここ20年位になるし、これからを考えるにしても10年程のスパンになってしまう。
もちろん抱負はここには書きませんけれど。

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あけましておめでとうございます。
新春のお慶び申し上げます。
私の今回の長旅でご迷惑をおかけした日本の方々、この旅を暖かく見守って下さっている皆様、またこの旅の途上で出会い、お世話になった全ての方々に深く感謝いたします。
また皆様におかれましては今年が昨年よりもさらに素晴らしい一年になりますよう祈念いたします。

元旦になりました。
今日はマイーダさんの妹イヴァさんに約束した寿司パーティーをすることになった。
実はもっと後の予定だったのだが彼らのスケジュールの関係上今日になってしまったのだ。
ご存知のように私たちは12月のドイツ行きから始まってここ最近忙しかったので、正直このパーティーが実現可能かどうかかなり危ぶまれた。昨日ザダールのマーケットに行ったのもその所為であった。

結局は妻のおかげで何とか元旦パーティーが実現した。
秋にドブロニクでイヴァさんに会った時、彼女には「リエカに帰省したら蕎麦パーティーをしようね」と言っていたにもかかわらず、彼らは何度訂正しても「今度のスッシィ(寿司)パーティーのことだけど...」というので(ソバだっちゅうのに)妻ともども訂正するのを諦めたのだった。彼らは「日本人=寿司=ごちそう」という強力な思い込みがあるようだ。彼らに日本では寿司はプロが握るもので家庭では寿司は作らないのだと説明しても全く理解してもらえない。
勝手に寿司(スッシィ)と言ってにこにこ、目を輝かせる始末なのだ。
結局、今回も彼らは本当の寿司を食った事がないんだから、まあいいかという結論に達したのだ。
さすがに12月のドイツ旅行での仕入れが効いて今回は夏の寿司パーティーよりもかなり良く出来たと思う。ザダールで買ったまぐろといかがまあまあだったので一安心。蕎麦は藤田さんが秋に持って来て下さった「深大寺蕎麦」である。
とにもかくにも、年初め身内を褒めて恐縮だが、妻のがんばりに感謝するところから今年はスタートとなった。

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イヴァさんは蕎麦が気に入ったようでそばつゆの作り方を聞いていた。

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大家のイェルコ・ユーリッチさんはクリスマス以降の食べ過ぎで元旦早々ダウンし、残念ながら欠席であった。
ザダールで大晦日の朝を迎える。
宿は旧市街の中にあるので主要な場所は歩いて見てまわれる範囲にある。町の中心はローマ時代に作られた広場(フォーラム)で2100年前のものである。海がとびきり美しいこの場所を古代のローマ人が見逃すはずはないなあと思う。(前にも書いたがここの海は映画監督のヒッチコックや劇作家バーナード・ショーなどが礼賛していたことでも知られる)
そのローマ時代の大理石を使って作った聖ドナド教会を始め、聖マリア教会・修道院、聖ストシャ大聖堂、フランシスコ会修道院などを見る。ミランさんが歩きながら簡単に説明を加えてくれた。ここザダールは昔から位置的に要衝の地であったため、2100年の間、破壊と再興が何度も繰り返された町だということがわかる。
最後に再び海岸のシーオルガンへ。ここでミランさんが作ってくれたサンドウィッチを皆で食べる。
明日はお正月なのだが食料の買い置きに不安を持つ私たちのため、ザダールのマーケットに行き買い出しをする。日本と違い年末の大賑わいといった感じではない。
帰りは行きとは異なり途中まで高速道路を使いリエカまで送っていただく。外気はマイナス5度。
夕方、家に戻ると前回書いた、N本先生が送り直して下さった荷物が無事届いていた。また秋にここリエカに来て頂いた藤田さんからの郵便も届いていた。
N本先生にはミランさんに見せる為に無理をして送って頂いたので、長旅で疲れているであろう、ミランさん、アキコさんであったが、結局は引き止めて映像をしばしの間見てもらい話をすることになった。
その後トレンツさん一家はザグレブに戻った。お疲れさまでした。
2008年の最後をミランさん、アキコさんたちとザダール行きで締めくくる事ができて、本当に良かったと思う。

日本では改めて考えることはなかったことだが、ここクロアチアにいると日本の年末の風習は本当に良いものだなあと思う。
夜は「紅白」も「ゆく年来る年」もない静かな大晦日を過ごす事になった。お酒をちびちび飲みながら藤田さんが送って下さった本を読む。「浅見潚随筆集 新編燈火頬杖」である。まずは巻末に付された藤田さんの書かれた解説を先に読み、それから本文に入る。とにかく日本語に飢えているので活字がまぶしい。コンピュータ上の文字ではどうしようもないものがあるのだ。(この本はウェッジ文庫から出ています。浅見潚の名前はあまり知られていないが、文学に興味のある皆さんにお勧めです!)
夜騒々しいなと思ったらあちこちで花火と爆竹の音が一斉に鳴り出し1時間ほど続いた。それで「今」年越しなのだと気づく。早くに寝ていた妻もその音で起きてきた。正直こんなうるさい正月の迎え方はあんまり乙じゃないなあと思った。やっぱり日本の除夜の鐘のほうがずっと良いと思いながら寒いベランダで花火を眺めこの一年を思う。
翌日マイーダさんは「昨日うるさかったでしょう」と聞かれたので「うん」と言ったら花火や爆竹を鳴らすようになったのはここ10年のことで、◆国から粗悪な花火が入って来てからにわかに流行しているのだと。どこかのまねをしたカウントダウンなんて「最低でしょう」と眉を潜めていた。

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以下聖ドナド教会。

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異国の地で小さな子が上手な日本語をしゃべっているのを聞くと心がなごみます。彼女は日本語、クロアチア語に加えて英語の三か国語を何の苦もなく使い分けます。

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聖マリア教会・修道院

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聖ストシャ大聖堂

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フランシスコ会修道院の回廊

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朝のシーオルガン。ここは階段がハーモニカのようになっていて波の動きがパイプオルガンのように空気を動かして最上段横にある四角い穴から音が出る仕組みである。

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空気が出入りする穴と思われる。

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高速道路が走る山岳地帯は雪である。

午前中にトルサットの城と教会を訪ねた後、トレンツ一家の車に乗せてもらいザダールに向けて出発。アドリア海の海岸沿いの道を南下していく。
途中、これまで通りかかっていつも気になっていた小さな港町、バカールに寄りフェリー会社ヤドランの古いホテルでお茶を飲む。この小さな港町はもちろん観光ガイドブックなどには載らないけれどクロアチアらしい魅力を持った場所と言えると思う(クロアチアの海岸線を走っているとこのようなおとぎ話に出て来そうな小さな集落というか町をよく見かけるのだ)。実際行ってみると何と言うか時間が100年くらい止まったままのような不思議な感触があるのである。あるいは誰かの短編小説に書かれた架空の港町といったような。
こちら(ヨーロッパ)に来た当初、車を運転するかどうかで迷った末、結局やめたのであるがこういう場所は自家用車でなければなかなか来る事ができない。特にこれまでしつこいくらい触れて来たように公共交通機関が劣悪なクロアチアでは尚更であった。そういった意味で今回の小さな旅は私たちのこれまでの欲求不満を少し解放してくれるものであった。
途中、クルック島、ラブ島、パグ島といったアドリア海に浮かぶ島影を右手に美しい景色の中を走る。途中夕日がパグ島の向こうに落ちて、ザダールに到着したころは新月が昇っていた。
宿には向かわずまずは海岸にあるシーオルガンを訪ねる。かなり冷え込むし暗い中であったがこの装置なかなか良い音であった。
あまり詳しくはないが以下に解説がある。
http://www.seaorgans.com/
ザダールの旧市街はスプリットと似ていてローマ時代からのものであり、ここも想像以上に興味深い街並であった。
海岸の傍のレストランで食事をした後ホテルに向かう。

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バカール。山の上に見えるのは高速道路。

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シーオルガンのヴィジュアル部分は暗くならないと見れない。

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昼間の太陽エネルギーが蓄電されていて音に反応する仕組みである。

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シャッタースピード30秒くらい。

朝方、大学が冬休みになって僕の九州の実家に帰省した長男のセッティングで、小倉の両親の自宅とスカイプがつながった。4月の出発以来はじめて両親、帰省している姉ファミリーとも肉声で話ができた。この旅のあいだ、このブログが手紙代わりということでメールもたまーにしか送ってないので久々の交信である。

いくらしゃべっても電話代がかからないなんて、どうもピンとこないですね。

ともあれ久々に声がきけ、元気そうなので良かった。

親はこちらがいくつになっても親で、ハラハラしながら旅を見守ってくれていることを痛感。

記憶に残っている親父のひと言は「夫婦仲良くしろよ」でした。


夕方ザグレブからトレンツさん一家が車で無事来訪。途中、高速道路は凍結していたそうで心配する。

ミランさんはクロアチアでコミック作家、アニメーターとして活躍後ニューヨークに移動、彼の地でもイラストレーター、絵本作家として活躍。現在はザグレブに戻り、活動のかたわらザグレブ芸大、アニメーション・ニューメディアコースで映像ディレクションの教授をしている。映画「ナイトミュージアム」の原作絵本の作家としても有名である。今回大学から無理をして資料を送ってもらったのも、このミランさんを通してザグレブ芸大とクロアチアのアニメーション協会などとアニメーションや映像教育に関する交流を行う為であった。(旧ユーゴスラビア時代からここはアニメーションが盛んなところなのです)

奥さんのアキコさんは前回ここにも書いたが114日ザグレブのHDLUクロアチア芸術協会美術館のフランチェスキさん、コレクターのスダッチさんを訪ねたおり通訳をして下さった方である。

http://www.esporre.net/terayama/2008/11/

始めはアキコさんの旦那さんがトレンツさんであるとは全く知らなかったわけで、全く不思議なご縁を感じます。リエカもそうだがザグレブも僕にとって不思議な出会いに満ちた都市である。

アキコさんには正月のザグレブ芸大での僕のレクチャーでもまた厚かましくも通訳をお願いしている。

前回から話に出ていたザダールのシーオルガンを見に行く計画が今回実現したのだ。


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トレンツ一家

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アキコさんは日本でデザイナーをした後、アメリカのシアトル、ニューヨークで作家として活動。子育てが一段落した後、ここクロアチアで活動を再開されたという。写真は彼女から送ってもらったもので5月の展覧会の様子。これは3年がかりのプロジェクトでスロベニアとの国境沿いの村の伝統工芸者とのコラボレーション作品である。レースによるテント。実見してはいないが途方もない時間をかけたインスタレーション作品である。

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1000本のボビンによって作られたテント。サウンドインスタレーションとして映像もあるようだ。

今日は森田さんのリエカでの滞在最終日となる。彼は朝早く家を出てクルック島、バシュカに向かう。
我々は家に籠りそれぞれの仕事。僕は少し風邪気味。
森田さんは東京出身だけど中高生時代は東北や北海道で育ったという。そのせいか雪が恋しくて、最初はインフォメーションセンターでもらった地図にあったリエカ近くの「アドリア海が見れるスキー場」に行きたいと考えたのだったが、例のごとくバス便が皆無で断念。それでクルックに変更したのだった。
夕方帰って来た彼から話を聞くとなんとバシュカの山の上にある教会(私たちは行かなかった)まで行って来たとの事。あそこはかなり急な岩山でしかもこの寒風の中よく行けたものだとあきれる。
しかも彼はここに滞在中、毎日あのペタルクジッチの階段を平然と往復していたのだ。
私たちも旅先では年齢の割にはぎりぎりのところで、かなりハードに動き回っているつもりだが、30代なかばとはいえ彼の元気さに感心する。
「何事も身体で感じることが大事だと」と彼が言うのを聞いてやっぱり彫刻科出身だなあとも思う。
ともかくも彼はクロアチアの人も環境も気に入ったようで良かった。
来年はもっと良い季節に展覧会の予定があるとのこと。
春か夏に来れば多分もっと気に入るだろうと思う。




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