2008年12月アーカイブ
とっくに届いているはずの荷物が届いてない事に昨日から憂慮している。1月のこちらでの講義の為に送ってもらった資料である。
昨日、今日と東京のN先生にメールし確認してもらう。先生が確認した結果、送付を頼んだ大学のある部署が、なるべく早く確実にと依頼したにもかかわらず、普通航空便で送った事が判明。これでは現在荷物がどこにあるのか確認もできないのだ。中には大事な書籍やDVDに納められた映像作品もあるのに信じられないことでショックを受ける。
年末にザグレブ芸大のアニメーションを教えている先生に会う予定で、そのためにもかなり以前から依頼していたものだったのだ。
その後、今日になって経過を知りあきれたN先生とゴンちゃんがなんと再度荷物を梱包し送付し直す作業をして下さったと連絡が入る。
彼らが僕にとって今年のサンタさんになってしまった。全く申し訳なく、言葉もないとはこのことだ。
夕方ザグレブからやってくる森田さんをリエカ駅に迎えに行く。
以前ここにも記しているが森田さんとはリンツで出会い、ベルリン芸大サウンドデザイン科を訪ねた際お世話になっている。彼は今回ザグレブで行われた「TOUCH ME HERE」というユニークな展覧会に招待され23日まで展示していたのだ。その展覧会を今日撤収し我が家に寄ってくれるのだ。
森田さんの作品がポスターになっていた。随分人が来て熱気のある展覧会になったそうだ。
午前中トラムに乗って、モダンアートミュージアムへ。ここの建築はホラインである。常設展が目的だったのだが、何と全館を使用して村上隆氏の大展覧会をやっていた。実は僕は彼の作品をこれまでほとんど見た事がない。こういう機会でもなければ見る事はないだろうから結果的には良かったと思う。(全く自慢にはならないが僕は普段日本では出不精の上、ここ10年近くの日本の現代美術の動向に全く疎いのである。)
その後、応用工芸美術館、建築博物館を見る。
フランクフルトには他にも自然史博物館、前史先史博物館、シルン美術館、世界文化博物館と面白そうなミュージアムがあったのだが、まあ二日ならばこんなところであきらめるしかない。
......グーテンベルク博物館にもう一度行くべきだったかもしれない。
以下モダンアートミュージアム。最初見た時MURAKAMIという名の商社ビルだと思いました。
左手はシルン美術館。マグリットをやっていた。
以下応用工芸美術館。家具などのモダンデザインとアジアを含めた世界の工芸の紹介。
以下建築博物館。ここは期待が大きかっただけにちょっと...。建物は3つの階層に分かれ2007年度の高層建築世界一のコンペ、エコロジーと建築をテーマにした100の提案、最新のヨーロッパ各都市の都市計画といったものであるがどれも中途半端というか、雑誌の特集を読まされているような気がした。
常設展らしいところで世界の都市の歴史の模型を展示しており、これはおもしろいかと思ったが途中で尻切れとんぼになってしまった。今回の旅で私たちの行った場所の模型があったのは個人的には興味深かったが。
疲れ果てて足を引きずりながらの帰路となった。
橋の向こうがシュテーデル美術館、ミュージアム通り。
フランクフルトにも見るべき場所は多い。またここもデュッセルドルフ同様日本人を数多くみかける。ホテルでたまたま話した年配の夫婦はドイツのクリスマス・マーケットを見るという目的で来ているとの事。
僕らも行く先々でマーケットは覗いてみたがそういう目的を持った旅もあるのだと変な感心をした。
朝マイン川を渡り川沿いにあるシュテーデル美術館に行く。この通りは美術館通りと言われていて沢山のミュージアムが並んでいて私たちのような旅行者にはとても便利な場所である。
シュテーデルはドイツ国内でもかなり立派な美術館である。中世から近代までバランスよく作品を収蔵している。フェルメール、ヤンファンアイク、デューラー、ホルバイン、クラナッハ、ボッティチェリ、フランジェリコ、ティエポロ、ラファエロ、レンブラント、ボッシュ、ルノワール、モネ、マネ、ベックマン、キルヒナーなど。特筆すべきは特別展で謎の多い画家といわれるファン・デル・ウェイデンをやっていたことだ。周辺の画家、ヤン・ファン・アイクなどを同時に配置した素晴らしい展示であった。
その後ドイツコミュニケーション博物館、ドイツ映画博物館(両方とも書き出すと長くなるので詳細省略)を見て、美術館を出たら7時であった。
昨日に引き続きかなり疲労困憊する。
腰の調子が少しおかしい。
以下シュテーデル美術館
ファイニンガー
クレー
キーファー
リヒター
トーマス・バイルレ。バイルレさんは14-5年前になるが特別講師として学校に来て頂いたことがある。
バイルレ
バイルレ
以下ドイツコミュニケーション博物館。ここは「子供の城」(青山)と通信博物館が合体したような内容であった。
以下ドイツ映画博物館
日本にゴジラがあるように、ドイツにはメトロポリスのあの...。
朝、早めに宿を出て電車でダルムシュタットへ向かう。約40分ほど。小雨まじりでかなり寒い。
ここダルムシュタットの工科大学でエル・リシツキーは建築を学んでいる。
彼はサンクトペテルブルクの芸術大学を受験したがユダヤ人という理由で入学できず、ここダルムシュタットに留学したのだった。1909年頃である。彼はここで建築家のヨーゼフ・マリア・オルブリヒに学ぶことになる。
ダルムシュタットの街の中心にある工科大学をさらに丘の方に昇ると、19世紀末から20世紀初頭にダルムシュタット大公ルードウィヒが、ドイツ各地から芸術家を招聘し作った芸術家村がある。それらの中心にいたのがオルブリヒである。この丘の中心はルードウィヒの結婚を記念して作られた結婚記念塔であり、その横に芸術家コロニー美術館がある。周辺にはロシア建築家ベノイの造ったロシア教会、オルブリヒの自邸や彼が設計した住宅、ペーター・ベーレンスによるベーレンスハウスなど、ドイツにおけるアール・ヌーボー様式=ユーゲント・シュティール建築の見本市のような場所である。
リシツキーはここで多感な学生時代を過ごしている。彼は学生時代、電車と自転車で遠くパリにまでエッフェル塔を見にいっており、既に卒業のころはオルビリヒの影響を脱してベーレンスによるユーゲント・シュティール後、つまりモダニズムの影響を受けていたようである。結局1914年に勃発した第一次大戦の混乱の中ロシアに戻る事になるのだが...。
結婚記念塔横の美術館では「ロシア1900」という展覧会が行われていた。図録が大部だったのでDVDを購入した。
本当はダルムシュタットとマインツを一日ずつ訪問しようと考えていたのだが、いつもの「月曜日問題」にぶつかる為、一日で二つの街に行く強行軍となった。
マチルダの丘
ロシア教会
結婚記念塔
塔上からの眺め。
我々が訪ねた時ちょうど結婚式が行われていた。
今回の旅は何故かカメレオンに縁があるようだ。
オルブリヒハウス
ハウス・ダイタース(オルブリヒ)
グリュッケルトハウス(オルブリヒ)
ベーレンスハウス(ベーレンス)
現在のダルムシュタット工科大学。考えてみればリシツキーがいたのは100年前で、そのあいだに第二次大戦もあり、ここダルムシュタットも相当な戦災にあっているからその当時の面影はもう見えないのかもしれない。しかし、それを求めて彷徨う私だった。
ダルムシュタットのマチルダの丘の後、電車で40分程のマインツに移動。
マインツはグーテンベルクミュージアムを訪ねることが目的である。まあローロッパに来てここに来ないと何となく落ち着かないので、何と言うか僕にとっての「お伊勢参り」「富士山登頂」のようなものでしょうか。僕は富士山には登った事はありませんが。
美術館は5時に閉まったため2時間では到底充分ではなかったがまあやむを得ない。外に出ると暗くなっていたがクリスマスの市で街は賑わっている。皆が飲んでいる飲み物を頼んだら「ホットワイン」のようなものだった。
かなり歩き回ったのでくたびれた。
ここは写真撮影ができなかったのでイメージはない。却って良かったかも知れない。写真撮影が可ならば予定を変えて「明日また来る」と言っていたであろう。
マインツのクリスマス・マーケット。各都市ごとに見ているので私たちはクリスマスマーケット評論家になれそうである。
デュッセルドルフを午前中に出てフランクフルトへ向かう。電車で約2時間半。
フランクフルトを拠点にしてマインツとダルムシュタットを訪れるのが今回の目的である。
ホテルは駅の側で、到着して外に出ると雨模様で薄暗い。
街の中心部まで歩き、クリスマスの市を見る。
実はデュッセルドルフでの美術館で最も楽しみにしていたのはクンスト20、K20と呼ばれる州立美術館であった。ここはクレーやピカソなど20世紀美術が充実していることで有名である。しかし何と、今年の4月から来年の秋まで改築の為閉鎖されていた。
うーん...調査不足であった。
残念であるがしょうがない。ここの名作は今日本の名古屋の美術館に行っているようだ。
それでもうひとつの美術館、K21に行った。ここはその名の通り未来志向(?)の現代美術の展示をしているところである。大体1980年以降の作品に絞っているようだった。建物はK20と裏腹にこちらは古い建物を改築したものであった。この改築はとても優れたもので感心した。
また現代美術の展示はこれまで訪れたところの多くが、何故かぞんざいな印象を受け、うんざりさせられることが多いのだがここは違った。ひとつは普通よくあるように大空間に膨大な数を羅列せず(建物が古いせいか)こじんまりした部屋に少しずつ展示している所が落ち着いていてとても良かった。名前の知らない作家幾人か、イリヤ・カバコフ、クリスチアン・ボルタンスキーが特に印象深かった。(作品は撮影禁止なので写真はない)
K21エントランス
途中、クンストアカデミーの横を通る。
その後エーレンホーフ文化センターにある美術館クンストパラストに行く。ここは古典から現代美術までを展示していたが、時々ドイツで見かける時間軸を壊して異なる時代の作品を併置する(ドレスデンの美術館がそうであったが)僕の嫌いなタイプの展示をしており、あまり感心しなかった。ただオットー・ディックスの版画のみの特別展をやっておりこれは、第一次大戦の悲惨さを告発したものでその迫力に圧倒された。もともとオットー・ディックスは好きな作家ではあったがこれによってさらに見方が変わった。これだけでも来て良かったと思ったが、その後ガラス博物館に行って驚いた。この美術館はむしろガラスがメインだったのだと知らされた。エジプトやローマ時代のものからアールヌーボーを経て現代までこんなにガラスが充実した美術館は初めてであった。ガラスをやっている人は必見の美術館だと思う。あまりにも多すぎて時間内に見切れなかったのが残念である。(ここも撮影禁止なので写真はない)
エーレンホーフ文化センター周辺。
クンストパラスト。いくつかの美術館の複合施設らしい(全部は見れなかった)
エントランス。
今日はもうデュッセルドルフ最後の夜となってしまった。
鈴木さんとご家族には何から何までお世話になってしまい本当にありがたかった。
しかも今日は最後の夜ということで、またしても鈴木家でごちそうになってしまった。
つい最近リエカでの食事についてブログにうかつなことを書いてしまい、私たちの貧困な食生活を随分心配して下さったようだ。まったく厚かましい事で恥ずかしくまた申し訳ないと思いつつ、楽しい最後の夜を過ごさせていただいた。
私たちにとって(これまでの苦しくも楽しかった旅の思い出や鈴木さんのデュッセルドルフでのお話を酒の肴に)楽しい忘年会になりました。
ブログはこれから会う方に気を使わせてしまうという問題があることに気づきました。これはある面、どうしようもない問題ですが、少なくともこれからは食生活などに関する弱音ははかないようにがんばります。もう旅も残り少ないのだから。
朝、雨の中6時半に家を出てタクシーでバスセンターへ向かう。
ザグレブ空港からケルン・ボン空港。
ケルンから電車でデュッセルドルフに4時過ぎに無事到着。
デュッセルドルフは知り合いの鈴木さんからぜひ来るようにと誘われていたのだ。
前回のドイツ旅行の際は鈴木さんの日本行きとすれ違いになってしまい、お会いできなかった。
鈴木さんは40年以上前、東京芸大の院を卒業した後すぐに日本を出て、ユーラシア大陸を渡りドイツに向かったのだ。キール滞在を経てここデュッセルドルフにアーティストとして暮らして30年以上になる。
以前日本でお会いした時、色々なお話をしたのだが、その中でデュッセルドルフのアカデミー・クンストで6年勉強されたこと、その理由がかつてここのアカデミーでクレーが教えていたことなどを興味深く伺っていた。またここではボイスやリヒターが学生だったり、教えていたことでも有名である。
そういうわけで僕の中では「デュッセルドルフ=鈴木さん=クレー+現代美術」となっており、是非訪ねたかったのだ。
ホテルに到着後、鈴木さんに電話すると早速車で迎えに来て下さった。
夜は鈴木さんご一家に温かなおもてなしを受けた。鈴木さんの手料理(和食)は全くプロ並みで妻ともども、こちらヨーロッパに来て何と「初めての!」本格的日本料理に感動。
デュッセルドルフは日本人がヨーロッパの中でも最も多い町としても有名だそうだ。日本の食材もかなり手に入るらしくリエカと比べると思わずため息が出てしまう。
ケルン上空。
鈴木家にて。鈴木さん、家内、maiさん、ペトラ夫人と。
maiさんはデザイナー、奥さんは写真家である。
鈴木さんの家にはペットが沢山いた。立派なカメレオンも二匹いてびっくり。
彼の名前はdiegoである。ソボルさんと一緒だ。
14日からのドイツ旅行のスケジュールがほぼ決まる。
自宅でひたすら英文作成。リエカとザグレブでの講義のために既にある30枚か40枚ほどの日本語の原稿を英語に置き換えていく作業。リエカではソボルさんがその英文からクロアチア語に同時通訳してくれる予定である。前にも書いたがソボルさんは翻訳家であり言語に関しては天才的なところがあるので、問題はない。問題は私が自分の考えを未熟であっても正しく彼に伝えられるかにかかっているのだ。ザグレブも含めて講義は来年の予定だが今週末のドイツ旅行の前にまず第一稿を渡さなくてはならない。
この翻訳translationという作業はとても面白く考えさせられる。実際やってることはもちろん大したことではないけれど、ノイラートの言ったtranslaterだとか、ボイスのtranslationという言葉の意味とか、単に右のものを左に持って来るというものではない。
今の僕はいかにシンプルな、基礎的な語彙を用いるかを考えざるを得ない。そうすると同時に元の日本語を添削する作業になる。日本語だと適当に書き流したような文章も1センテンスごとに吟味することになる。そもそも言いたかったことは何なのかを相対化するということ。その結果、日本語では気づかない意味がまた浮かび上がってくる。そこが何とも言えず不思議な感覚である。
造形に関するテキストなのでなおさらのことかも知れないが、身体とか自己とか環境とかをめぐって考えていると、簡単な言葉が哲学的な意味を帯び出したり...。
日本語が自由に話せるということは、ある面では言葉を意識化しないということなので、自由なようでいて実はそうでもないのではないかと思えてきた。
やむを得ずの作業だけれど日本にいては忙しさにかまけて、こんな経験をするチャンスがなかったことを思えば僕にとって「言葉」を考えるとても良い機会である。
10時のヴェネツイア、サンタ・ルチア駅発トリエステ行きの電車に乗る。
トリエステでバスに乗り換え、何事もなくリエカへ。
11月11日パリ行きに始まった今回の約3週間のショートトリップも何とか無事帰還することができた。
私たちの為にマイーダさんが暖房を入れておいてくれたが、思った以上にリエカの夜は底冷えがする。
妻は風邪気味で寝込む。
恐らく旅の心労と疲労のせいであろう。
朝ホテルの中庭にて。
サンタルチア駅前
今日は空港傍のホテルからバスでヴェネツイアのサンタ・ルチア駅近くの宿に移動し一泊する予定であった。
朝テレビのニュースを見ているとヴェネツイアが大浸水している様子が映し出されたいた。
建物のグランドフロア(一階)部分まで完全に水浸しだったのでそもそもホテルがやっているかどうか、大丈夫かと不安になる。
とにかく行って確認するしかない。
私たちがサンタ・ルチア駅近くのローマ広場に着いた10時頃にはかなり水も引いていた。
サンマルコ広場にはなお水が残っていたが駅前は何とか普通に歩ける状態となっていた。
移動したホテルは外見はこじんまりしているが、中に入ると堂々としたヴェネツイアンスタイルで、とても気持ちの良いホテルであった(今はオフシーズンなのでこのようなホテルに泊まることができるのだが)。
荷物をおいてチェックインまで時間があったのでバポレットでムラーノ島まで行ってみる。今年は夏以来二度目である。
曇り空のせいもあって、もう3時には暗くなり始め、4時には夕暮れる。
暗くなってから二つの教会を訪ねる。
スクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ。スキアヴォーニはダルマチアのことでかつてのクロアチア人の為の教会である。ここにはカルパッチョの連作がある。暗くて見にくいのが難点であるが素晴らしかった。
もうひとつはサンティッシマ・ジョバンニ・エ・パオロ教会。ここはヴェネツイアの中でもかなり壮麗な教会で、ベッリーニの多翼祭壇画、ヴェロネーゼの絵画連作、ヴェロッキオの彫刻等傑作がある。
エジプトのムスリムからカトリックの世界へ。
死海とヴェネツイア、二つの場所を行き来したことに感慨を感じながら...。
道に打ち寄せる海水。
海水が残るサン・マルコ広場
午後4時のカイロ発の飛行機でウイーンを経由して夜9時、ヴェネツイアに到着。
タクシーで空港近くのホテルへ。
飛行機、タクシー、ホテルと当たり前のことが当たり前にスムーズにいくことにこんなに感動するとは...!。
昨日というか日付が替わった今日の夜中にターバを出てカイロには朝の6時過ぎに到着。
車中は異常に寒くほとんど眠れず。途中トラックの複数の追突事故で少し渋滞をした。
宿で眠る。
ヨルダンの旅は短いものの大変素晴らしいものとなった。にもかかわらずやはり旅の最後の最後でだめ押しのようなエジプト的被害にあってしまった。
全く残念であった。
昼間起きたが、外には出ず宿で記録の整理などをする。
明日はエジプト脱出?である。
旅を始めて今日で240日目、私たちのこの長旅全体の3分の2が終わる。
中盤最後の山場であったエジプト行は波乱含みであったが、なんとか無事に終了しそうである。
ホテルにタクシードライバーで案内のジャミールが訪ねて来る。
朝8時半に宿を出て北上、死海を目指す。
ここヨルダンは南北に長い国境をイスラエルと接している。国民の多くはかつてパレスチナ(現イスラエル)に住んでいた人々である。この国境線上に死海もある。
またペトラから死海に向かう岩山が連なるヨルダン高原の途中にはネボ山がある。これはユダヤ民族を率いてエジプトを脱出し、シナイ山で十戒を授かりシナイ半島を横断し40年かかって約束の地カナン(現エルサレム)を目指し、それを目前にしたモーゼが120才で亡くなったといわれる場所である。
この死海までのドライブは視覚的にも大変変化に富み、ペトラのあった高地からはるか向こうにイスラエルの大地を見下ろす地点など忘れられない光景であった。
ヨルダンとイスラエルが上のような地理的、歴史的関係なので行ってみるまではさぞや危険な場所かと思っていた。しかしヨルダンとイスラエルは1994年に平和条約をかわして以降は基本的に平和な関係が続いているらしい。ヨルダンは王国でいわゆるイスラム原理主義ではない。ジャミールは石油もないし貧乏な何もない国と言っていたが天然ガスや鉱物は豊富にあるらしく、また国民性というか僕らが接した多くのヨルダン人はこう言っては何だがエジプトの観光客ずれした人々よりもはるかに好ましい印象を受けた。
5時間ドライブで死海に到着。ヨルダン川沿いの大平原+砂漠(低地)地帯に降りる。この一帯は農業が盛んだという。
死海で2時間程過ごした後それこそ国境沿いの道にそって南下、再びアカバの港を目指す。
ジャミールから途中温泉があるから寄るか?と誘われたが温泉は日本に帰ってからのお楽しみなので断って、そのかわり途中途中好きな所で止まって写真を撮りたいと頼んだ。
夜無事にフェリーでアカバからターバまで到着するもこの旅最後のトラブルが待ち構えていた。
本当ならば港に私たちをカイロまでダイレクトに連れて行ってくれる出迎えが待っているはずであった。
しかしそれが現れず、遅れて現れたドライバーが私たちをヌエバに連れて行きそこから乗り換えてカイロに行ってもらうという。全く遠回りになるのでそれはおかしいと抗議する。
そこからの経緯詳細はばかばかしいので省略するが私たちは3台のミニバスに乗ったり降りたりさせられたあげく夜の何もない港で結局3時間待たされ夜中の12時になって予定通りのルートでカイロに向かうことになったのだった。
あまりにもひどいので私が最後は日本語で怒鳴りまくったことは言うまでもない。
ホテルから見下ろすペトラ渓谷。
ペトラの町
廃墟になっている昔の石と土でできた家屋。
死海とその向こうに広がる「約束の地」パレスチナを見下ろす。
かつて3000年以上前にモーゼ達も同じ光景を見たのだろうか。
低地に降りる。
死海dead sea。
死海で泳いでみた。不思議な体験であった。
中央高い山の右がネボ山。
アカバの港町
朝ダハブの宿にドライバーが迎えに来て1時間程でターバの港へ到着。
ここはアカバ湾を囲むようにエジプト、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビアの国境がほとんど接する形で集中しているところである。陸路をイスラエルを通っていけば簡単なのだが、おそらく宗教的、政治的な理由からイスラエルを経由せずにフェリーでヨルダンのアカバ港へ行くルートである。目で見える対岸のアカバまで約40分の航行である。
船上で出入国審査を受けヨルダンに入国。
ヨルダンは50万年前(!)から人類が住み着き1万年前に人類最古の農業が営まれたといわれる場所である。
アカバからツアーバスでヨルダン高原を北上する。周りの客はほとんどがペトラ遺跡を見ての日帰りらしく軽装である。
2時間かけてペトラ遺跡に到着。
ペトラはギリシア語で岩を意味する。ここは紅海に近く砂漠を行き来するキャラバンの中継地点であり昔から中東における要衝の地であった。このあたりには3200年前から人が住み着き、紀元前1世紀には古代ナバテア人の都市として栄えていた。その後ローマの属州となっている。
ヨルダン高原を走る。
霧。まるでストレンジャーザンパラダイス(ジャームッシュ)のような...。
以下ペトラ遺跡。
石畳を敷設したのは当然ローマ人であろう。
朽ちかけてはいるが印象深い彫刻。
岩盤をくり抜いてこういう巨大な円形劇場を造ったのも後から来たローマ人だと思う。
前日書いた理由で、やむを得ずダハブで一日を過ごす。
前日はほとんど寝ておらず、結果的には私たちにとって久々の休養日となった。
ホテルの部屋で朝から昼過ぎまでかかってたまりにたまっていた日記を書き、更新が遅れているブログの為に3日分の写真の整理をする。
これらの作業は結構集中力を要するのだ。
昼間はせっかくなのでビーチで少し泳いで久々の読書。
カイロの宿から持って来た藤沢周平。
しみじみ...。
夕方町まで行ってインターネットカフェでブログを一日分だけ更新。
しかしせっかく書いたテキスト(日記)がいざ更新しようと思ったら全く失われてしまっていたのだった。このソフトは自動保存が勝手に出て来て両方とも保存をかけたにもかかわらずきれいに失われていた。かなりのショック。
もし私たちが自分で探していたら絶対に選択しないであろう(サイードが決めた)ホテル。
結局彼は最後まで私たちの希望を理解してくれなかった。
ここ2-30年の間に世界中のリゾート地に造られたアメリカ資本の自称高級ホテル。
インドネシアのバリにも似たようなのがあったがでかくて青いプールをつくれば客が喜ぶとかたくなに信じているようである。
世界中どこにもある点ではマクドナルドとそっくりだ。
昨晩は結局なかなか寝付けず1~2時間の睡眠の後1時起床。
真夜中の2時に宿を出発する。
同行するのは私たちの宿のオーナーであり、旅行エージェンシーをやっているサイードとドライバーである。前半の旅のトラブルを反省したのかしらないが、オーナー自身が私たちが無事ヨルダン行きのフェリーに乗れるまで付き添うと言って来たのだった。
カイロから1時間ほどでスエズに到着。
スエズ湾のある紅海はアジア、アフリカ、ヨーロッパの交差点である。サイード達はここを渡るとアジアに来たと感じるといった。同じアラビア圏なので私たちからすると不思議な感じがするが彼らには彼らの空間地図があるのだろう。日本人にとって朝鮮半島までの距離が実際よりも遠く感じられるのと同じかもしれない。
長いトンネルでスエズ運河をわたりシナイ半島に上陸。
スエズ湾沿いに南下しシナイ山のふもとの聖カトリーナ修道院へ8時頃到着。
ここは言うまでもないが旧約聖書でモーゼが十戒を神から授かった山である。こちらの名前はガバル・ムーサ、モーセ山という意味である。標高は2285メートル。このふもとにモーゼが聖なる山に入る時に見た燃え尽きない「燃える柴」があったところを中心にできた礼拝堂がセント・カトリーナ修道院である。
ここシナイ半島に来た目的はこれまで間接的知識でしかなかったユダヤ教やキリスト教、イスラム教が実際に誕生した場所に身を置いてみることと、ここカトリーナ修道院にある図書館に行くことであった。
先にここがアジア、アフリカ、ヨーロッパ文明の交差点であったと書いたがそれは、文字の流通という意味においても当然言えることなのだ。
アルファベットの成立もここ紅海と地中海を自由に商活動したフェニキア人によって徐々に形成されていったと言われている。
このカトリーナの図書館は当時、聖書の翻訳センターでもあったのだ。重要な写本は大英博物館にあるとはいえ、ここにもまだ膨大な数の写本が残されている。書庫にはもちろん入れないが展示されているものを今回見ることができた。
写真は不可なので残念だがアルファベット・カリグラフィ=タイポグラフィの歴史書には必ず載っている写本書体のオリジナルを見ることができた。
言語はギリシア語、シリア語、コプト語、ペルシア語、グルジア語、アルメニア語、アムハラ語、教会スラブ語(バシュカ文字!)、アラビア語などである。
その後半島の東、アカバ湾側に出てダハブに到着。ここは1960年代イスラエルが占領していた時代にできたリゾートの町である。ダイビングで有名なところでかのクストーが世界で最も美しいダイビングスポットがある場所と言った所でもある。
昔ダイビングの本を何冊かデザインしたことがあって、その時はフィジーに取材に行ったのだが、たしかに紅海の海はダイバー達のあこがれと書いてあったことを思い出した。
今の僕にはほとんど関係ないけれど。
ここに一泊し、翌日ターバという港からヨルダンに行くつもりであったが、フェリーが欠航になりここで二泊するはめになった。
本当に欠航なのかどうかははなはだあやしいのであるけれども。
スエズ運河で新月を見る。
シナイ半島を南下する。左手には岩山が延々と続く。ここも、サウジアラビアも山が赤く見えることが紅海の名前の由来らしい。
半島を東に折れてシナイ山に到着。
聖カトリーナ修道院
モーゼが見た燃え尽きない柴
モーゼの昇った山
ダハブの海岸沿いのレストランにて。左はドライバーのアルシャミル、サイード。後ろは紅海。
朝バフレイヤの町を少し散歩した後、10時のバスに乗ってカイロに戻る。
途中バスの調子が悪くなり砂漠の真ん中で30分ほど停車。バスのクーラーもとまり車内はサウナ状態に。
一時はどうなることかと思ったが無事カイロまで戻る。
翌日からこの旅最後の冒険、シナイ半島、ヨルダンのペトラと死海行きが控えているので夜はその準備。
早めに眠る。
バフレイヤオアシス
泊まった宿。
朝顔のような...。
危なっかしいテレビ台
朝7時過ぎに宿を出てバスセンターまで車で送ってもらう。
バスセンターから西方(リビア)砂漠にあるオアシス、バフレイヤ行きのバスに乗る。ピラミッドのあるギザを通り巨大なカイロの町の外に広がる砂漠の一本道をひたすら走る。
約5時間半かけてバフレイヤに到着。
ここで昼食をとり4WDのジープ(トヨタのランドクルーザー)に乗り換えさらに南西の白砂漠を目指す。途中ピラミッドの形をした山のある黒砂漠、小さな山全体がクリスタルでできているクリスタルマウンテンを通る。
運転手は夕日までには着いて白砂漠を見せたいからとひたすらオフロードを飛ばす。
日没の30分程前に無事白砂漠に到着。ここはマッシュルーム状の3メートルから10メートルほどの石灰岩の巨石が林立している。地面の石灰岩部分も真っ白である。
そこに沈む夕日は確かに全く美しい。
奇岩ということではトルコのカッパドキアを思い出すが広大な360度の砂漠の中にあるところなど、全く異なる印象だ。あっというまに日は暮れて周囲は瞬く間に暗闇になる。
感動したのは音である。
無音室にいるような不思議な感覚があった。
その後遅れてやってきたグループ、カナダ人、アメリカ人、博多から来た4人娘と合流し砂漠にカーペットとマットを敷いてたき火しながら夕食をとる。博多の4人はばりばりの博多弁で楽しい娘たちだった。二人は4ヶ月の世界旅行中で、そこに友人の二人がエジプトで合流したらしい。
砂漠の満天の星(天の川を視認したのは40年ぶりではないかと思う)を見た後私たちだけ暗闇の砂漠を2時間程走ってバフレイヤの宿に戻る。
ドライバーは「宿はキャンセルOKだから砂漠に泊まれば」と勧めてくれたが、他のメンバーは皆2~30代なので砂漠に毛布で寝ても平気だろうがさすがに私たちは歳なので遠慮した。朝日の中の白砂漠も見てみたかったけれども、これ以上睡眠不足が続くのは後々を考えるとやばいと判断したからでもあった。
砂漠の夜は本当に寒いのだ。
砂漠の中の休憩所
黒砂漠
クリスタルマウンテン
白砂漠に到着
昨晩11時半にルクソール空港を飛び立ち、カイロの宿に戻ったのが夜中の2時近くであった。
朝9時から旅行エージェントとの話し合い。
あまりにもこの前半、言ったこととやることが異なるトラブルが多かったのでしっかり時間をとって説明してもらうためだ。
あまりにも対応が悪い場合は後半すべてキャンセルするつもりでもあった。午前中を全てこれにさいた。
全てに納得できたわけではなかったが、結局はまあ乗りかかった船だし、問題が起こった時のエジプト的対応の仕方も分かってきたので後半もほぼ予定通り旅を続けることになる。
カイロのエージェントの言い分は今までこんなケースはほとんどなかったこと。
問題はアスワンのムハンマドにあったこと。
カイロのエージェントからの抗議でムハンマドは昨日クビになったことなどだ。
「えー?クビ!」僕らがしてほしかったことはそんなことじゃないんですけど...、と思ったりもしたが全くエジプト人(旅行代理店)の行動パターンは理解を超えている。クビにするんじゃなくてちゃんと教育しろと思いましたが、多分そんな風にはなっていないのだろう。
6車線分の道を右3車線、左2車線分車が駐車していて残された1車線を人と車が通る。端の車は多くが廃車であった。
午後やっと世界的にも有名なエジプト考古学博物館にいく。
当然のことだが収蔵品には素晴らしいものが多々ある。
しかし展示のあまりの劣悪さに驚いた。
ライティング、展示方法、解説、部屋の割り振り(導線)全てにおいて良くない。
これは全く信じられないことであった。
ツタンカーメンのマスクのある一帯だけ別の美術館の様にまともになるのだが、それが違和感に拍車をかけている。
皮肉屋のリチャードならば遺物は大英博物館にあったほうが保存の点からも幸せなんじゃないかという冗談を言いそうである。
写真撮影は禁止なので画像はない。
午前中にボートをチェクアウトしていると、アスワンとはまた別のムハンマドが現れて私たちを次のホテルに連れて行くという。この日我々は夜遅くの飛行機でカイロに戻るのでそれまで荷物を置き休息などをするためのデイユースである。
このムハンマドもかなり胡散臭い男であった。
後で分かったことであるが私たちの一連のトラブル続きのアスワン、アブシンベル、ルクソールの旅行を仕切っていたのはどうやらこの男だったのである。この日の時点では我々はそれを知らない。
ホテルのチェックインの後、ルクソール博物館にまずは行きたいと我々が言っているのに土産物屋に連れて行こうとしたり、博物館は小さいから時間なんかかからないと言って食事を誘ったりするのだ。しかも博物館とは反対方向に随分歩かされた。いい加減頭に来てここからは自分達で行動するからあんたは帰っていいときっぱり言った。
ルクソール博物館は展示数こそ少ないものの傑作ぞろいであり、展示の仕方もエジプトの中でも数少ない真っ当なものだった。4時頃、博物館で遅めの昼食をとってホテルに戻る。
ホテルの近くのマーケットの中にインターネットカフェをみかけたので、久方ぶりにメールを確認し一日分だけブログを更新する。ナイルクルーズしている間ネットは全くできなかったのだ。
エジプトでの旅行エージェントとのやりとりにいささか辟易し、殺伐とした気持ちになっているところへK先生から絶妙なタイミングで我々を気遣うメールをいただいていた。妻とふたりそれを見ながら思わず泣きそうになりました。
先生のメールにはジョセフ・アルバースの言葉からの引用があった。
無断ですが以下、引用させてもらいます。
...
芸術とは
はじめに表現があるのではなく、
まず視覚を提示することなのだ。
芸術における視覚とは
洞察力、生命を見抜くこと。
だから芸術とは
対象ではなくて
経験なのだ。
そのことに気づくために
私たちは感受性を磨かなければならぬ。
それゆえ芸術は
そこにあり
そこで芸術は
私たちをとらえる。
...
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