2008年12月アーカイブ

午前中、荷物が届いたとの連絡があり、マイーダさんの車でダリンカさんと共に街の郵便局へ。
なんと荷物は三つに分けて送ったらしいのであるが一つはぼろぼろに壊れて原型を留めず、もう一つは完全に行方不明となっていた。僕の心配が結局は的中した。送られた本は皆水に濡れたようで傷がついてよれよれになっている。
最もショックだったのは8枚のDVDが全て失われていたことである。
ここ数日、この荷物のことが心配で頭を悩ませていたが最悪の事態である。
郵便局の説明などは長くなるので省略するがクロアチアに到着した時点でこのような状態だったという説明であった。
何とも言いようがない。
N先生が無理して送って下さった次の便が無事である事を祈るのみとなった。

今日の夕食は森田さんが手料理を作ってくれ、ごちそうになった。
(かれはドイツで一人暮らしであるが食事はしっかり自分でつくっているとのこと。さすがに上手です。)
今回、彼とは作家活動について、これまで受けた美術教育について、サウンドデザインについて他、ゆっくりと沢山の話ができてとても良い刺激を受けました。

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クリスマスというのは25日と26日の二日ということを知った。
森田さんは午前中からひとりでリエカ探索のため家を出ている。
お昼過ぎ、日本で忘年会をやっているK先生、O先生からメッセージがJ先生の携帯から届く。
僕らの健康を祈念して乾杯をして下さったとのこと。
感謝感激です。
つられて昼間から僕もワインが飲みたくなったがそうもいかない。午後からソボルさんがやってきて僕の講義用英文の添削作業をいっしょにやる。まじめに英語の勉強です。

夕方、大家のダリンカさんにダルマチア式クリスマスのパーティーに招かれる。
マイーダさんの妹のイヴァさん一家も帰省してきてにぎやかである。ユーリッチさんもダリンカさんも孫に会えて嬉しくてしょうがないといった感じ。こういうのは世界共通のことですね。
長時間かけてタラで作ったパテ、自家製のパン、生ハム、オリーブ漬けをワインでいただく。
遅れて帰宅した森田さんも合流する。

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昨日のイブもそうだが、クリスマスといっても街はとても静かである。どちらかというと日本のお正月の朝の雰囲気に近い。
このクリスマスの期間、街には東京のように騒々しい、ジングルベル他クリスマスソングなど流れていなかったし、フジヤのケーキを売ってるような風景は皆無である。
昨日の夕方は街ではカフェに若干人がいて、流しのような人と演歌のような民族音楽を皆で歌っているくらいであった。
ドイツのクリスマスマーケットでも同様に静かで、東京というか日本がいかに音が野放しになっているかを実感させられる。
森田さんがサウンドデザインが専門なのでそのことについていろいろ考えさせられた。

今日は午前中いつものように森田さんを近くのお城と教会、街の中心まで案内した。後は彼は自由に歩き回ることになっている。
僕はその後自宅で勉強。

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夜は目が覚める程の強風であるが昼間は良い天気である。トルサット城にて。

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トルサットの聖母教会にはお参りの人が沢山いた。


とっくに届いているはずの荷物が届いてない事に昨日から憂慮している。1月のこちらでの講義の為に送ってもらった資料である。

昨日、今日と東京のN先生にメールし確認してもらう。先生が確認した結果、送付を頼んだ大学のある部署が、なるべく早く確実にと依頼したにもかかわらず、普通航空便で送った事が判明。これでは現在荷物がどこにあるのか確認もできないのだ。中には大事な書籍やDVDに納められた映像作品もあるのに信じられないことでショックを受ける。

年末にザグレブ芸大のアニメーションを教えている先生に会う予定で、そのためにもかなり以前から依頼していたものだったのだ。

その後、今日になって経過を知りあきれたN先生とゴンちゃんがなんと再度荷物を梱包し送付し直す作業をして下さったと連絡が入る。

彼らが僕にとって今年のサンタさんになってしまった。全く申し訳なく、言葉もないとはこのことだ。


夕方ザグレブからやってくる森田さんをリエカ駅に迎えに行く。

以前ここにも記しているが森田さんとはリンツで出会い、ベルリン芸大サウンドデザイン科を訪ねた際お世話になっている。彼は今回ザグレブで行われた「TOUCH ME HERE」というユニークな展覧会に招待され23日まで展示していたのだ。その展覧会を今日撤収し我が家に寄ってくれるのだ。


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森田さんの作品がポスターになっていた。随分人が来て熱気のある展覧会になったそうだ。

早朝の飛行機にてケルン・ボン空港からリエカ空港へ。 
普段は飛んでないのだが、クリスマス帰省用の特別便でほぼ満席であった。
旅先で購入したり、頂いたりした本で荷物が異常に重くはなったものの無事帰還。
私たちが出かける前と打って変わって、クロアチアはここ数日好天に恵まれていたらしい。
朝からすでに夕方の気配を漂わせているようなドイツからアルプスを超えてこちら側に来ると、その光がこうも違うのかと思う程の差異があることに驚く。ゲーテに限らず、北方ヨーロッパの人間が南に憧れる理由が実感としてよくわかった。劇的といっても良いくらいだ。ドイツではつい「もっと光を!」と言いたくなるような暗さだったのだ。
しかも今日はここに住んでるダリンカさんでさえ「素晴らしい眺め!」とわざわざ言うに相応しい変幻自在のアドリア海の海と空の色であった。
帰ったら洗濯機が何故か故障していた。クリスマス休暇で修理も頼めず、3階の大家さんの洗濯機を借りる。

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飛行場のあるクルック島を渡る。海がまるで湖のように静かで空よりも明るく光っているのだ。

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小春日和といっても良いような暖かさである。

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翌日の帰りの飛行機が早朝なのでフランクフルトからケルンへ列車で移動。
夕方街を散策。

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ケルン大聖堂

午前中トラムに乗って、モダンアートミュージアムへ。ここの建築はホラインである。常設展が目的だったのだが、何と全館を使用して村上隆氏の大展覧会をやっていた。実は僕は彼の作品をこれまでほとんど見た事がない。こういう機会でもなければ見る事はないだろうから結果的には良かったと思う。(全く自慢にはならないが僕は普段日本では出不精の上、ここ10年近くの日本の現代美術の動向に全く疎いのである。)

その後、応用工芸美術館、建築博物館を見る。

フランクフルトには他にも自然史博物館、前史先史博物館、シルン美術館、世界文化博物館と面白そうなミュージアムがあったのだが、まあ二日ならばこんなところであきらめるしかない。

......グーテンベルク博物館にもう一度行くべきだったかもしれない。


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以下モダンアートミュージアム。最初見た時MURAKAMIという名の商社ビルだと思いました。


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左手はシルン美術館。マグリットをやっていた。


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以下応用工芸美術館。家具などのモダンデザインとアジアを含めた世界の工芸の紹介。


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以下建築博物館。ここは期待が大きかっただけにちょっと...。建物は3つの階層に分かれ2007年度の高層建築世界一のコンペ、エコロジーと建築をテーマにした100の提案、最新のヨーロッパ各都市の都市計画といったものであるがどれも中途半端というか、雑誌の特集を読まされているような気がした。


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常設展らしいところで世界の都市の歴史の模型を展示しており、これはおもしろいかと思ったが途中で尻切れとんぼになってしまった。今回の旅で私たちの行った場所の模型があったのは個人的には興味深かったが。


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疲れ果てて足を引きずりながらの帰路となった。


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橋の向こうがシュテーデル美術館、ミュージアム通り。


フランクフルトにも見るべき場所は多い。またここもデュッセルドルフ同様日本人を数多くみかける。ホテルでたまたま話した年配の夫婦はドイツのクリスマス・マーケットを見るという目的で来ているとの事。

僕らも行く先々でマーケットは覗いてみたがそういう目的を持った旅もあるのだと変な感心をした。

朝マイン川を渡り川沿いにあるシュテーデル美術館に行く。この通りは美術館通りと言われていて沢山のミュージアムが並んでいて私たちのような旅行者にはとても便利な場所である。

シュテーデルはドイツ国内でもかなり立派な美術館である。中世から近代までバランスよく作品を収蔵している。フェルメール、ヤンファンアイク、デューラー、ホルバイン、クラナッハ、ボッティチェリ、フランジェリコ、ティエポロ、ラファエロ、レンブラント、ボッシュ、ルノワール、モネ、マネ、ベックマン、キルヒナーなど。特筆すべきは特別展で謎の多い画家といわれるファン・デル・ウェイデンをやっていたことだ。周辺の画家、ヤン・ファン・アイクなどを同時に配置した素晴らしい展示であった。

その後ドイツコミュニケーション博物館、ドイツ映画博物館(両方とも書き出すと長くなるので詳細省略)を見て、美術館を出たら7時であった。

昨日に引き続きかなり疲労困憊する。

腰の調子が少しおかしい。


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以下シュテーデル美術館


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ファイニンガー


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クレー


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ベックリン

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キーファー


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リヒター


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トーマス・バイルレ。バイルレさんは14-5年前になるが特別講師として学校に来て頂いたことがある。


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バイルレ


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バイルレ


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以下ドイツコミュニケーション博物館。ここは「子供の城」(青山)と通信博物館が合体したような内容であった。


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以下ドイツ映画博物館


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日本にゴジラがあるように、ドイツにはメトロポリスのあの...。


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朝、早めに宿を出て電車でダルムシュタットへ向かう。約40分ほど。小雨まじりでかなり寒い。

ここダルムシュタットの工科大学でエル・リシツキーは建築を学んでいる。

彼はサンクトペテルブルクの芸術大学を受験したがユダヤ人という理由で入学できず、ここダルムシュタットに留学したのだった。1909年頃である。彼はここで建築家のヨーゼフ・マリア・オルブリヒに学ぶことになる。

ダルムシュタットの街の中心にある工科大学をさらに丘の方に昇ると、19世紀末から20世紀初頭にダルムシュタット大公ルードウィヒが、ドイツ各地から芸術家を招聘し作った芸術家村がある。それらの中心にいたのがオルブリヒである。この丘の中心はルードウィヒの結婚を記念して作られた結婚記念塔であり、その横に芸術家コロニー美術館がある。周辺にはロシア建築家ベノイの造ったロシア教会、オルブリヒの自邸や彼が設計した住宅、ペーター・ベーレンスによるベーレンスハウスなど、ドイツにおけるアール・ヌーボー様式=ユーゲント・シュティール建築の見本市のような場所である。

リシツキーはここで多感な学生時代を過ごしている。彼は学生時代、電車と自転車で遠くパリにまでエッフェル塔を見にいっており、既に卒業のころはオルビリヒの影響を脱してベーレンスによるユーゲント・シュティール後、つまりモダニズムの影響を受けていたようである。結局1914年に勃発した第一次大戦の混乱の中ロシアに戻る事になるのだが...。

結婚記念塔横の美術館では「ロシア1900」という展覧会が行われていた。図録が大部だったのでDVDを購入した。

本当はダルムシュタットとマインツを一日ずつ訪問しようと考えていたのだが、いつもの「月曜日問題」にぶつかる為、一日で二つの街に行く強行軍となった。



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マチルダの丘


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ロシア教会


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結婚記念塔


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塔上からの眺め。


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我々が訪ねた時ちょうど結婚式が行われていた。


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今回の旅は何故かカメレオンに縁があるようだ。


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オルブリヒハウス


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ハウス・ダイタース(オルブリヒ)

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グリュッケルトハウス(オルブリヒ)

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ベーレンスハウス(ベーレンス)


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現在のダルムシュタット工科大学。考えてみればリシツキーがいたのは100年前で、そのあいだに第二次大戦もあり、ここダルムシュタットも相当な戦災にあっているからその当時の面影はもう見えないのかもしれない。しかし、それを求めて彷徨う私だった。


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ダルムシュタットのマチルダの丘の後、電車で40分程のマインツに移動。

マインツはグーテンベルクミュージアムを訪ねることが目的である。まあローロッパに来てここに来ないと何となく落ち着かないので、何と言うか僕にとっての「お伊勢参り」「富士山登頂」のようなものでしょうか。僕は富士山には登った事はありませんが。

美術館は5時に閉まったため2時間では到底充分ではなかったがまあやむを得ない。外に出ると暗くなっていたがクリスマスの市で街は賑わっている。皆が飲んでいる飲み物を頼んだら「ホットワイン」のようなものだった。

かなり歩き回ったのでくたびれた。


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ここは写真撮影ができなかったのでイメージはない。却って良かったかも知れない。写真撮影が可ならば予定を変えて「明日また来る」と言っていたであろう。


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マインツのクリスマス・マーケット。各都市ごとに見ているので私たちはクリスマスマーケット評論家になれそうである。


デュッセルドルフを午前中に出てフランクフルトへ向かう。電車で約2時間半。

フランクフルトを拠点にしてマインツとダルムシュタットを訪れるのが今回の目的である。

ホテルは駅の側で、到着して外に出ると雨模様で薄暗い。

街の中心部まで歩き、クリスマスの市を見る。


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実はデュッセルドルフでの美術館で最も楽しみにしていたのはクンスト20K20と呼ばれる州立美術館であった。ここはクレーやピカソなど20世紀美術が充実していることで有名である。しかし何と、今年の4月から来年の秋まで改築の為閉鎖されていた。

うーん...調査不足であった。

残念であるがしょうがない。ここの名作は今日本の名古屋の美術館に行っているようだ。

それでもうひとつの美術館、K21に行った。ここはその名の通り未来志向(?)の現代美術の展示をしているところである。大体1980年以降の作品に絞っているようだった。建物はK20と裏腹にこちらは古い建物を改築したものであった。この改築はとても優れたもので感心した。

また現代美術の展示はこれまで訪れたところの多くが、何故かぞんざいな印象を受け、うんざりさせられることが多いのだがここは違った。ひとつは普通よくあるように大空間に膨大な数を羅列せず(建物が古いせいか)こじんまりした部屋に少しずつ展示している所が落ち着いていてとても良かった。名前の知らない作家幾人か、イリヤ・カバコフ、クリスチアン・ボルタンスキーが特に印象深かった。(作品は撮影禁止なので写真はない)



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K21エントランス


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途中、クンストアカデミーの横を通る。


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その後エーレンホーフ文化センターにある美術館クンストパラストに行く。ここは古典から現代美術までを展示していたが、時々ドイツで見かける時間軸を壊して異なる時代の作品を併置する(ドレスデンの美術館がそうであったが)僕の嫌いなタイプの展示をしており、あまり感心しなかった。ただオットー・ディックスの版画のみの特別展をやっておりこれは、第一次大戦の悲惨さを告発したものでその迫力に圧倒された。もともとオットー・ディックスは好きな作家ではあったがこれによってさらに見方が変わった。これだけでも来て良かったと思ったが、その後ガラス博物館に行って驚いた。この美術館はむしろガラスがメインだったのだと知らされた。エジプトやローマ時代のものからアールヌーボーを経て現代までこんなにガラスが充実した美術館は初めてであった。ガラスをやっている人は必見の美術館だと思う。あまりにも多すぎて時間内に見切れなかったのが残念である。(ここも撮影禁止なので写真はない)

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エーレンホーフ文化センター周辺。


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クンストパラスト。いくつかの美術館の複合施設らしい(全部は見れなかった)


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エントランス。


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今日はもうデュッセルドルフ最後の夜となってしまった。

鈴木さんとご家族には何から何までお世話になってしまい本当にありがたかった。

しかも今日は最後の夜ということで、またしても鈴木家でごちそうになってしまった。

つい最近リエカでの食事についてブログにうかつなことを書いてしまい、私たちの貧困な食生活を随分心配して下さったようだ。まったく厚かましい事で恥ずかしくまた申し訳ないと思いつつ、楽しい最後の夜を過ごさせていただいた。

私たちにとって(これまでの苦しくも楽しかった旅の思い出や鈴木さんのデュッセルドルフでのお話を酒の肴に)楽しい忘年会になりました。


ブログはこれから会う方に気を使わせてしまうという問題があることに気づきました。これはある面、どうしようもない問題ですが、少なくともこれからは食生活などに関する弱音ははかないようにがんばります。もう旅も残り少ないのだから。

鈴木さんの車でmaiさんと海君も一緒にデュッセルドルフから高速を飛ばして3〜40分にあるエッセンに向かう(初めてアウトバーンを走りました)。ここは戦前からドイツの重工業を担ったルール地方の中心都市である。重工業?に何の関係があるのと思われるかもしれないが、ここにはツォルフェライン炭鉱跡があってそこが今回の目的地である。
ここのことは以前大学の研究紀要の編集をしていた時、査読した論文にここを始めとするドイツにおける近代産業の保存活動について書かれたものがあって、その時以来関心を持っていた。その論文自体はレポート程度でさほどのものではなかったが、実態を自分の目で確かめたく来てみた。
ここは1930年代に当時最先端のモダニズムスタイルで建てられたもので建築的な価値があるとともに、街と言っても良いくらい広大な敷地にある炭鉱全体を産業遺産として保存しようとしているところである。これは新しいエコロジーミュージアムの一つの展開でもある(ユネスコの世界遺産にも登録されている)。日本でもこのような場所がたくさんあるがほとんど顧みられる事なく壊されているのが現状である。こういった姿勢と過去の遺物に対する考え方は残念ながらドイツのほうがはるかに進んでいると思われる。
修復した建物の一部は現代美術の展示やデザインミュージアム、子供たちの遊戯施設などとして使用されている。
今回訪ねたレッドドット・デザイン・ミュージアムはノーマン・フォスターが手がけたものである。

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27年前に作った修士制作の(dead tech)風景が現物として存在しているようで、感慨深くひとり静かに興奮していた。
近代の廃墟には(あるいはあらかじめ廃墟である近代において)局所的な物語と想像力が必要と考えた、あの頃から僕らは確かにポストモダンを生きて来たのだと実感。生きている間は気がつかないのだが過去がパースペクティブになってやっと確認できることもあるのだなあと独り言。

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リシツキーのフォトモンタージュ「雲への階梯」を思い出す。

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レッドドット・デザインミュージアム
ノーマン・フォスターのデザインに関しては手放しでは褒められらない。また展示内容に関してもかなり問題を感じた。今回はレッドドット・デザインコンペティションの受賞作が膨大に並べられていた。有象無象であるので一概には言えないが、全体としては産業振興目的の展示であった。アプローチがちょっと古い(モダニズム?)というか、頑固なドイツ人らしいと言うべきか...。形にならないデザインに対してどう考えているのだろうとか思う所あるけれども省略。

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工場跡地は面白いけど、ノイズが大きすぎて展示には不向きで、そこはあまり解決されていない。

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夜は皆でドイツ名物のビアホールへ。
伝統的なドイツ料理と共に自家醸造のビールを楽しみました。
このお店には1811年にナポレオンも訪れたということで肖像が飾ってあった。
朝から霧で薄曇り。温度は2度から4度くらいか。
今日は夕方、FH-Dのコミュニケーションデザイン学科のテュフェル(Teufel)教授の研究室を訪問する予定である。
それまで午前中から昼間にかけて自分たちでデュッセルドルフの町を散策し、3時に鈴木さんが迎えに来てくれて車でデュッセルドルフの町を案内してもらい鈴木さんのアトリエを見学した後、大学に向かう。

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デュッセルドルフは州都であり、ファッションと商業の町である。ここは町の中心、ケーニヒスアレー。お堀をはさんで82メートルの大きな道。両側に並木道が続いている。

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旧市街にある市庁舎とマルクト広場。クリスマスの市。

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ライン川沿いの道。

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オーバーカッセラー橋

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かつての港の再開発地域、メディエンハーフェン。手前はラジオ局、向こうに見えるのはフランク・O・ゲーリーの建築。このあたりはおしゃれな場所らしいが月曜の午前中とあって人通りも少なくひっそりしていた。

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デュッセルドルフにはこのような立派なお寺もあるのに驚く。

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少し郊外にあるベンラート城。城と聞いていたので最初のイメージとかなり異なっていた。
18世紀に建てられたバロック様式の建物で城というよりは離宮である。庭が広大である。

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鈴木さんのアトリエ。ここは自宅からすぐ(歩いて15秒!)の昔の駅舎だった建物である。
(駅は現在別の駅舎を使用している)
建物は市によって文化遺産として丁寧に保存修復され、市はそれを芸術家に貸しているのだ。
となりの空間はギャラリーであった。年に一回、デュッセルドルフの市民はこういった芸術家たちのアトリエを訪ねるフェアがあるそうである。

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アトリエは昔の駅長室。ここは南側の廊下だったところ。

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FH-Dデュッセルドルフ応用科学大学コミュニケーションデザイン学科。
昨日書いたクンスト・アカデミーにはデザインコースはない。この大学の創設者はあのペーター・ベーレンスである。それだけでもここが由緒あるところだと分かりますね。

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ここはドイツ国内でも評価の高いデザイン教育機関だとは聞いていた。テュフェル教授はいきなりここ10年の学生の作品、教育の成果をまとめた分厚い本から紹介を始めた。いや本当によく頑張っている事が理解できる。そのあと次から次へと面白い本を繰り出して来る。時計は見ていなかったが話が尽きず、多分予定時間を随分オーバーしたようだった。
普通の実務教育よりも教師と学生共同のプロジェクトがやっぱり面白い。映画のグラフィック史やヘルムート・シュミットなどといったテーマの研究はアプローチもまとめも立派である。
詳しい話は長くなるので省略しますが刺激をかなり受けました。

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テュフェル教授。テュフェルというのは天使(エンゲルス)の反対の意味だそうだ。皆さん笑う。ご本人も自己紹介のとき笑っていた。彼は来年の2月と3月に大阪のddd、東京のgggギャラリーで学生と共同プロジェクトの展覧会を行うそうだ。ヘルベチカの50歳の誕生日を記念していると言っていた。またそれはチューリヒとバーゼルを和解させる展覧会であるとも。
僕は残念ながら行けないけれど、東京、関西にいて興味のある人はぜひどうぞ。

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鈴木さんの娘さんであるmaiさんはテュフェル教授の教え子で、彼女がこの面談をアレンジしてくれた。彼女はギムナジウムを出て数年デザインの実務を経験した後、この大学に入学している。テュフェル教授の右隣にいる青年は海君。今回通訳をしてくれた。完璧であった。
この後、テュフェル教授も含めて皆さんで食事に行った。

朝、雨の中6時半に家を出てタクシーでバスセンターへ向かう。

ザグレブ空港からケルン・ボン空港。

ケルンから電車でデュッセルドルフに4時過ぎに無事到着。

デュッセルドルフは知り合いの鈴木さんからぜひ来るようにと誘われていたのだ。

前回のドイツ旅行の際は鈴木さんの日本行きとすれ違いになってしまい、お会いできなかった。

鈴木さんは40年以上前、東京芸大の院を卒業した後すぐに日本を出て、ユーラシア大陸を渡りドイツに向かったのだ。キール滞在を経てここデュッセルドルフにアーティストとして暮らして30年以上になる。

以前日本でお会いした時、色々なお話をしたのだが、その中でデュッセルドルフのアカデミー・クンストで6年勉強されたこと、その理由がかつてここのアカデミーでクレーが教えていたことなどを興味深く伺っていた。またここではボイスやリヒターが学生だったり、教えていたことでも有名である。

そういうわけで僕の中では「デュッセルドルフ=鈴木さん=クレー+現代美術」となっており、是非訪ねたかったのだ。

ホテルに到着後、鈴木さんに電話すると早速車で迎えに来て下さった。

夜は鈴木さんご一家に温かなおもてなしを受けた。鈴木さんの手料理(和食)は全くプロ並みで妻ともども、こちらヨーロッパに来て何と「初めての!」本格的日本料理に感動。

デュッセルドルフは日本人がヨーロッパの中でも最も多い町としても有名だそうだ。日本の食材もかなり手に入るらしくリエカと比べると思わずため息が出てしまう。


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ケルン上空。


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鈴木家にて。鈴木さん、家内、maiさん、ペトラ夫人と。

maiさんはデザイナー、奥さんは写真家である。


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鈴木さんの家にはペットが沢山いた。立派なカメレオンも二匹いてびっくり。

彼の名前はdiegoである。ソボルさんと一緒だ。

明日からのドイツ旅行の準備に追われる。
約11日間の予定である。

この間英作文などに忙しかった為、旅の心構え(?)をする時間が少し足りない。
ドイツは3度目になるので慣れて来たせいもあるかもしれない。
マイーダさんが訪ねてきてくれる。
抹茶を飲みながら話した事。
以前ブキッチさんにもらったクロアチアデザイン史の本を読んでいて、どうにもしっくりしないところがあった。ひとつはそれがザグレブ中心で語られ過ぎているように思えた事である。もうひとつはバックボーンになるはずの19世紀末から20世紀にかけての、つまりオーストリア・ハンガリー帝国以降の国家としての政治的変遷についてほとんど触れていないことである。また同様に今は外国になっているボスニアやスロヴェニアなどについても全く触れようとしていないこと、第一次大戦と第二次大戦間がかなり抜け落ちている印象をもったこと。そして最後に僕の今住んでいるリエカについて、かなり意識的に触れていないと思われた点である。前にも書いたがリエカは1920年ころダヌンツイオがいてヨーロッパ中から未来派とダダイストが集まった不思議な時空間を持っていたはずなのに全く触れられていないことであった。なので話のついでに彼女に聞いてみた。
それに対してマイーダさんはとても懇切丁寧に説明してくれた。
歴史的にリエカは20世紀の100年で少なくとも7回政治体制が変わったこと。栄光のオーストリア・ハンガリー唯一の貿易都市時代、イタリア占領の時代、ダヌンツイオ時代、自由自治都市、イタリアとユーゴスラヴィアによる二国分割支配(ベルリンのような)、そしてユーゴスラヴィア、現在のクロアチアなどだ。
そしてリエカはそもそもイタリアの影響を強く受けているのに対してオーストリアの影響の強いザグレブとはもともと対立的な感情もあるらしい。
とにかく複雑なのだということは分かった。
今はザグレブの美術館のディレクターをしているフランチェスキさんがリエカにいた数年前にダヌンツイオ時代の芸術のアヴァンギャルドの展覧会をしたところ、「未来派なんてファシズム芸術を称揚するなんて」と非難囂々であったらしい。(この展覧会の図録は見せてもらったが大変立派なものだった)確かに日本でも80年代までは未来派=ファシズムといった短絡的な見方があったことを思い出したりした。
ダヌンツイオがマリネッティに影響を与えたからファシストで、ファシスト=ナチズムだからけしからんというのは、マイーダさんも言っていたが歴史をちゃんと知らない人間の短絡化した戯言ではある。
まあ、話はブキッチさんのデザイン史の記述にリエカに触れた部分が少ないのは何故というところから始まったのだが、それに関しては「ダヌンツイオ時代や二国統治されていた時代はクロアチアではなかったから」ということのようだ。
だから納得できますということではないけども。
マイーダさんは少なくとも僕の疑問の理由はよくわかるらしく将来もっと統合的なデザイン史、美術史が書かれるだろうと言っていた。多分時間がかかるだろうということも。
それとは別に僕にとってこのリエカという町はマイーダさんやソボルさんとの話でいろんなことを知れば知る程、興味深いところになってきた。
始めのうちはここに来たのは偶然のようなものと言っていたが最近では必然であったのではないかという確信に変わって来ている。

その後、西側ヨーロッパによる旧東側諸国への偏見や差別などについても話が及んだがそれは長くなるのでやめます。



作業は昨日の続き。
朝から夜までずっと雨が降り続く。
講義文に加えて履歴書も送って欲しいと頼まれる。
これも英訳作業する必要あり。履歴を書くという作業は日本語だったとしても大変だ。
これまでの論文や雑誌に載った文章のタイトルも翻訳してみる。
たまたまコンピュータにデータのあった約25年分の版画作品やデザインワークを見直すはめになった。パワーポイントで以前作ったもの。画像で約200枚くらい。
改めて全部を見返すと意外に(?)おもしろい。...いや本当は思う所多々あるけど、ここでは省略。

ついでにマイーダさんやソボルさんにこのパワーポイント画像も見せる事にした。
考えてみたら彼らにこれまで自己紹介らしいことは全くしていなかったことに気づく。
今頃、私はこういう者ですと言うのもおかしな話ですけど。
言葉を重ねるより全然早かったんじゃあないかと今更ながら思う。
朝から雨模様の曇り空であったが昼間、雨の間を縫うようにリエカの町まで買い物に出かける。ザグレブ行きのバスの時刻も確認する。案の定、ネットには出ていないバスがあった。クロアチアは油断できないのだ。
近所のスーパーにあったお米が最近売り場からなくなっていて、町のデパートやスーパーを探すも見つからない。まだ買い置きはあるものの、どうしてなのか不明である。唯一何とか食べれるお米なのである。
あとは終日翻訳作業の続き。

そもそもこの旅の出発時において講義などするつもりは毛頭なく、むしろなるべく学校の授業のことや、自分の行って来たデザインその他の活動はなるべく忘れて、せっかくの機会なので外から入って来る新しい情報に純粋に身を委ねようと思っていたのだ。
今翻訳しているのは自分がこれまで主に関わった授業を中心に大学の教育内容を紹介するものである。(たまたまコンピュータに画像データなどがあったので引き受けても良いかなという気持ちになってしまったのだ)
なので今回必然的にこれまで封印していた授業の記憶諸々と一気に向き合うことになった。僕が非常勤で大学に勤め出したのは29の時なので22年間の記憶である。今年退任されるO先生と22年前からスタートした1年の基礎授業のこと、15年前から何年もかかってK先生と作ったwriting spaceの授業のこと、9年くらい前からN先生とスタートさせた通称レシピ等など。
ここでの紹介は「うちの学生はこんな素晴らしい作品を作っています」という自慢などするつもりはなく、何故この授業(カリキュラム)が学生にとってそしてデザインにとって重要だと考えたかという一点に尽きる。
デザインに対する理念なり哲学なりと教育の具体的方法論は表裏一体のもので両方が同時に問われるという意味においては昨日の翻訳という作業について考えたことと似ている。
...結果、これまで封印して来た思考が一気に吹き出して来て言葉は追いつかない。ので考えた内容に関してはここでは省略します。
結局もの思いにふけって翻訳作業のほうがしばしば中断する。
しかしこのことに今はあまり捕われすぎないようにしようと思う。
日本に帰ればまた、いやというほど考えなければならないのだから。


14日からのドイツ旅行のスケジュールがほぼ決まる。

自宅でひたすら英文作成。リエカとザグレブでの講義のために既にある30枚か40枚ほどの日本語の原稿を英語に置き換えていく作業。リエカではソボルさんがその英文からクロアチア語に同時通訳してくれる予定である。前にも書いたがソボルさんは翻訳家であり言語に関しては天才的なところがあるので、問題はない。問題は私が自分の考えを未熟であっても正しく彼に伝えられるかにかかっているのだ。ザグレブも含めて講義は来年の予定だが今週末のドイツ旅行の前にまず第一稿を渡さなくてはならない。

この翻訳translationという作業はとても面白く考えさせられる。実際やってることはもちろん大したことではないけれど、ノイラートの言ったtranslaterだとか、ボイスのtranslationという言葉の意味とか、単に右のものを左に持って来るというものではない。

今の僕はいかにシンプルな、基礎的な語彙を用いるかを考えざるを得ない。そうすると同時に元の日本語を添削する作業になる。日本語だと適当に書き流したような文章も1センテンスごとに吟味することになる。そもそも言いたかったことは何なのかを相対化するということ。その結果、日本語では気づかない意味がまた浮かび上がってくる。そこが何とも言えず不思議な感覚である。

造形に関するテキストなのでなおさらのことかも知れないが、身体とか自己とか環境とかをめぐって考えていると、簡単な言葉が哲学的な意味を帯び出したり...。

日本語が自由に話せるということは、ある面では言葉を意識化しないということなので、自由なようでいて実はそうでもないのではないかと思えてきた。

やむを得ずの作業だけれど日本にいては忙しさにかまけて、こんな経験をするチャンスがなかったことを思えば僕にとって「言葉」を考えるとても良い機会である。


ここクロアチアには僕の日本語をクロアチア語に翻訳してくれる便利な人はいないのでやむを得ず英作文に励んでいる。
元のテキストは既にあるのでこれをネットの翻訳ソフトと電子辞書を使いながら翻訳しているのだが、当然簡単ではない。時間がかかる。普段使わない脳みそを使うので気が狂いそうになります。
時間感覚もおかしくなる。
もう夜遅いから寝ようかと思って時計を見るとまだ7時だったりする。
こんなことはここ最近ありえなかった経験だ。
ここリエカはずっと雨の日が続いている。
朝明るくなるのは遅いし、昼間も薄暗く夜が本当に長い。
ヨーロッパは夏と冬のコントラストがこんなにも強いのかと実感する。
妻に言わせればヨーロパの梅雨は12月なのだ。
何故かわからないがエジプト旅行中、タクシーの中で聞いたサンタナの「哀愁のヨーロッパ」のフレーズが頭の中をグルグルする。

妻との(哀しい)会話。
「今日は何を食べたい?」
「すき焼き。」
「あなた、ここにはお豆腐としらたきがないこと知っているでしょ。」
「じゃあかわりにたまねぎとか...」
「それじゃすき焼きじゃないでしょ。それにこちらでは生卵は食べれないのよ。」
「...」
「他に食べたいものは?」
「湯豆腐」
「...」

哀愁のヨーロッパ。


昨日に続き読書と資料の整理。

以下エジプト覚え書きの2。トラブル編
このブログを読んでいただいている方にはお分かりのことと思うが今回のエジプトの旅では種々問題が発生し大変であった。細かい経緯を書いているわけではないのでなんのこっちゃ分からんという部分もあったと思う。
改めてここで愚痴るつもりはないのだが、記録に留めておきたいことのみ記す。
以下、カイロの私の旅行エージェントになったサイードとトラブルの後に話したことである。
エジプトでは独立した人間はお金持ちなのである。例えばダハブにサイードと行ったとき私たちが昼食をとったレストランはサイードの昔からの友人が経営しているところであった。彼の説明によればその友人は複数のレストランと安ホテルを経営しているのだが、売り上げは一日に200万円以上であるという。しかしそこで働く従業員の一ヶ月の給料は1万円以下なのだという。
つまりオーナーは月に6000万円稼いで、その人件費は月2−30万円で済ませると。
日本ではありえないことだがサイードにいわせればこれがエジプトでは普通なのだと。つまり独立したオーナーはとても金持ち。しかしその周辺で働く人々は極端に貧乏なのである。
同じ事が旅行エージェントでも起こる。
カイロから客の為に地方の旅行エージェントに委託しても、そこがピンハネをし、実際のエージェントにはわずかな金しかまわらない。そうすると彼らは勝手に予定やホテルを変更し小金を稼ごうとする。
それでトラブルが絶えないのだと。エジプト人であるサイード自身が「エジプト人は馬鹿なんです」という。
そんなことをしたら結局は信用を失う。だから自分もそんなことをしたエージェントをクビにする。そして別のエージェントに替える。(代わりはいくらでもいるから)最初はまじめにやってくれる。しかし1〜2年もすれば必ずと言っていい程同じ問題を起こす。また替える。その繰り返しなのだと。結局長続きしない。
サイードに言わせれば「だから馬鹿なんだと」
そのような状況には僕らも実際何度か出会ったので実感として理解できたのだが、本当にそれが全ての原因なのかどうかは分からない。

話はかなり変わるが私が印象深く感じたのは現代のエジプト人が古代エジプトの遺産を特にありがたく感じてないように思われたことだ。イスラム教徒からみれば古代エジプトはとんでもない異教徒であり、全く否定すべき対象なのだ。
少なくともそこには尊敬や畏怖の感情はないようであった。単なる観光、お金儲けとしか考えてないようであった。
その事が私には最も信じ難いことであった。

以下妻の写真機からー旅の断片その4
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食料がなくなったし今日は土曜日なので妻とあわてて食料の買い出しにいつものスーパーへ。
雨が止んでくれたのは幸いであった。
あとは一月にザグレブとここリエカの大学でレクチャーをすることになったので以前ブキッチ先生にもらったクロアチアデザイン史の本を必死で読んでいる。
まあ典型的な泥縄なんですけど。

昨日書き忘れたことであるが、我が家を訪ねてくれたマイーダさんはこれから町でデモに参加するということであった。嵐模様であったにもかかわらず昨日はクロアチアの全ての主要都市では一般市民による大デモがあったのだ。
マイーダさんの話によれば今回の世界的な経済恐慌による景気後退とクロアチア政府の政治的経済的政策に対する異議申し立て、もう一つは以前にも書いたがマフィアがらみの一連の政治的なスキャンダルに対する抗議行動でもあるらしい。
このスキャンダル(ジャーナリスト殺害事件)には現在のクロアチアの政治中枢とイタリアのマフィアと財閥、クロアチアの軍、新興財閥などがからんだ複雑なものがあるらしい。
当面ユーロによる政治的外圧しかクロアチアの現在の歪んだ状況を正せないのは情けないことだとマイーダさんは言っていた。(充分理解できたわけではないがそのように聞こえた)
そしてここヨーロッパの片隅でアメリカ新大統領オバマの演説を読んだ。
美しい文言の羅列ではあるがあれは単なるレトリックにしか聞こえない。アメリカ人だけが陶酔しているのではないか。
世界はもっと複雑できしんでいると実感する。
おそらくもし日本にいればこのようなリアリティはなかったのだろうと思うけれど。

以下妻の写真機からー旅の断片その3

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終日雨風。冬の嵐のようである。
終日メール、旅の片付けなど。
昼間マイーダさんが訪ねて来てくれる。
1月のリエカ美術大学訪問について相談。
妻は大分回復した模様。
体調が思わしくないにもかかわらず食事を作ってくれている。
このことによって二人とも少しずつ体調が良くなっていることは間違いない。
僕のお腹の調子も大分良くなって来ました。

以下エジプト覚え書きを少し。
エジプトやヨルダンで見たものを自分の中で消化するには今は早すぎて無理のようだ。
改めて調べたいこと等も山積しているからだ。
それはともかくとして、少なくとも言えることは今回かなり無理をしたけれどシナイ半島、ヨルダンまで足を伸ばせたことは結果的に良かった。
シナイ半島のセントカトリーナの蔵書が見れたことについては既に触れたが、それよりもヨルダンを含めあのあたりの空間、風土に少しでも接することができたことが大きい。
以前にも少し触れたが今回の旅全体で本当は今のイスラエル、イラン、イラクまで足を伸ばしたかったのだ。つまり僕にはバビロニアまで行って楔形文字発祥の地点に立つ必要があったのだ。旅の始めから時間と安全の問題でそれは断念したのであるが、今回中東地域に少しでも触れることができたのは自分の中の世界地図の上では貴重なものとなった。5月に行ったトルコ東部のハットゥシャシュの楔形文字でかなりの関係がつかめたというのもあった。
またラムセス二世とハットゥシャシュ王国の戦争とその後の世界初の国家間平和条約という3200年前に行われたダイナミックな交換も実感することができた。
現代人の想像力を超えて古代の文化交流はダイナミックなものなのだ。

単純に宗教のせいに帰するつもりはないが現在のイスラム圏を旅する大変さはエジプトでいやという程味合わされたけれども。

以下妻の写真機からー旅の断片その2

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妻は風邪で寝たり起きたり。
リエカは終日雨で寒い。
荷物の片付けの前にこの間旅先で送れなかったメール、特に緊急を要するものから優先的に送らねばならない。
あれやこれや、旅の疲れが残っているせいか遅々として進まない。
次の12月後半の旅の準備にも手をつける必要がある。
夜になってやっと随分遅れたブログの更新。

妻の写真機が9月になってレンズエラーで壊れてしまい、僕の1台だけでは不安だということで今回ウイーンで新たに購入した。
以下妻の写真機からー旅の断片その1

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10時のヴェネツイア、サンタ・ルチア駅発トリエステ行きの電車に乗る。

トリエステでバスに乗り換え、何事もなくリエカへ。

11月11日パリ行きに始まった今回の約3週間のショートトリップも何とか無事帰還することができた。

私たちの為にマイーダさんが暖房を入れておいてくれたが、思った以上にリエカの夜は底冷えがする。

妻は風邪気味で寝込む。

恐らく旅の心労と疲労のせいであろう。


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朝ホテルの中庭にて。


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サンタルチア駅前




今日は空港傍のホテルからバスでヴェネツイアのサンタ・ルチア駅近くの宿に移動し一泊する予定であった。

朝テレビのニュースを見ているとヴェネツイアが大浸水している様子が映し出されたいた。

建物のグランドフロア(一階)部分まで完全に水浸しだったのでそもそもホテルがやっているかどうか、大丈夫かと不安になる。

とにかく行って確認するしかない。

私たちがサンタ・ルチア駅近くのローマ広場に着いた10時頃にはかなり水も引いていた。

サンマルコ広場にはなお水が残っていたが駅前は何とか普通に歩ける状態となっていた。

移動したホテルは外見はこじんまりしているが、中に入ると堂々としたヴェネツイアンスタイルで、とても気持ちの良いホテルであった(今はオフシーズンなのでこのようなホテルに泊まることができるのだが)。

荷物をおいてチェックインまで時間があったのでバポレットでムラーノ島まで行ってみる。今年は夏以来二度目である。

曇り空のせいもあって、もう3時には暗くなり始め、4時には夕暮れる。

暗くなってから二つの教会を訪ねる。

スクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ。スキアヴォーニはダルマチアのことでかつてのクロアチア人の為の教会である。ここにはカルパッチョの連作がある。暗くて見にくいのが難点であるが素晴らしかった。

もうひとつはサンティッシマ・ジョバンニ・エ・パオロ教会。ここはヴェネツイアの中でもかなり壮麗な教会で、ベッリーニの多翼祭壇画、ヴェロネーゼの絵画連作、ヴェロッキオの彫刻等傑作がある。


エジプトのムスリムからカトリックの世界へ。

死海とヴェネツイア、二つの場所を行き来したことに感慨を感じながら...。


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道に打ち寄せる海水。


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海水が残るサン・マルコ広場


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午後4時のカイロ発の飛行機でウイーンを経由して夜9時、ヴェネツイアに到着。

タクシーで空港近くのホテルへ。

飛行機、タクシー、ホテルと当たり前のことが当たり前にスムーズにいくことにこんなに感動するとは...!。


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昨日というか日付が替わった今日の夜中にターバを出てカイロには朝の6時過ぎに到着。

車中は異常に寒くほとんど眠れず。途中トラックの複数の追突事故で少し渋滞をした。

宿で眠る。

ヨルダンの旅は短いものの大変素晴らしいものとなった。にもかかわらずやはり旅の最後の最後でだめ押しのようなエジプト的被害にあってしまった。

全く残念であった。

昼間起きたが、外には出ず宿で記録の整理などをする。

明日はエジプト脱出?である。

旅を始めて今日で240日目、私たちのこの長旅全体の3分の2が終わる。

中盤最後の山場であったエジプト行は波乱含みであったが、なんとか無事に終了しそうである。


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ホテルにタクシードライバーで案内のジャミールが訪ねて来る。

朝8時半に宿を出て北上、死海を目指す。

ここヨルダンは南北に長い国境をイスラエルと接している。国民の多くはかつてパレスチナ(現イスラエル)に住んでいた人々である。この国境線上に死海もある。

またペトラから死海に向かう岩山が連なるヨルダン高原の途中にはネボ山がある。これはユダヤ民族を率いてエジプトを脱出し、シナイ山で十戒を授かりシナイ半島を横断し40年かかって約束の地カナン(現エルサレム)を目指し、それを目前にしたモーゼが120才で亡くなったといわれる場所である。

この死海までのドライブは視覚的にも大変変化に富み、ペトラのあった高地からはるか向こうにイスラエルの大地を見下ろす地点など忘れられない光景であった。


ヨルダンとイスラエルが上のような地理的、歴史的関係なので行ってみるまではさぞや危険な場所かと思っていた。しかしヨルダンとイスラエルは1994年に平和条約をかわして以降は基本的に平和な関係が続いているらしい。ヨルダンは王国でいわゆるイスラム原理主義ではない。ジャミールは石油もないし貧乏な何もない国と言っていたが天然ガスや鉱物は豊富にあるらしく、また国民性というか僕らが接した多くのヨルダン人はこう言っては何だがエジプトの観光客ずれした人々よりもはるかに好ましい印象を受けた。

5時間ドライブで死海に到着。ヨルダン川沿いの大平原+砂漠(低地)地帯に降りる。この一帯は農業が盛んだという。

死海で2時間程過ごした後それこそ国境沿いの道にそって南下、再びアカバの港を目指す。

ジャミールから途中温泉があるから寄るか?と誘われたが温泉は日本に帰ってからのお楽しみなので断って、そのかわり途中途中好きな所で止まって写真を撮りたいと頼んだ。

夜無事にフェリーでアカバからターバまで到着するもこの旅最後のトラブルが待ち構えていた。

本当ならば港に私たちをカイロまでダイレクトに連れて行ってくれる出迎えが待っているはずであった。

しかしそれが現れず、遅れて現れたドライバーが私たちをヌエバに連れて行きそこから乗り換えてカイロに行ってもらうという。全く遠回りになるのでそれはおかしいと抗議する。

そこからの経緯詳細はばかばかしいので省略するが私たちは3台のミニバスに乗ったり降りたりさせられたあげく夜の何もない港で結局3時間待たされ夜中の12時になって予定通りのルートでカイロに向かうことになったのだった。

あまりにもひどいので私が最後は日本語で怒鳴りまくったことは言うまでもない。


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ホテルから見下ろすペトラ渓谷。


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ペトラの町


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廃墟になっている昔の石と土でできた家屋。


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死海とその向こうに広がる「約束の地」パレスチナを見下ろす。


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かつて3000年以上前にモーゼ達も同じ光景を見たのだろうか。


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低地に降りる。


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死海dead sea。


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死海で泳いでみた。不思議な体験であった。


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中央高い山の右がネボ山。


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アカバの港町


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朝ダハブの宿にドライバーが迎えに来て1時間程でターバの港へ到着。

ここはアカバ湾を囲むようにエジプト、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビアの国境がほとんど接する形で集中しているところである。陸路をイスラエルを通っていけば簡単なのだが、おそらく宗教的、政治的な理由からイスラエルを経由せずにフェリーでヨルダンのアカバ港へ行くルートである。目で見える対岸のアカバまで約40分の航行である。

船上で出入国審査を受けヨルダンに入国。

ヨルダンは50万年前(!)から人類が住み着き1万年前に人類最古の農業が営まれたといわれる場所である。

アカバからツアーバスでヨルダン高原を北上する。周りの客はほとんどがペトラ遺跡を見ての日帰りらしく軽装である。

2時間かけてペトラ遺跡に到着。

ペトラはギリシア語で岩を意味する。ここは紅海に近く砂漠を行き来するキャラバンの中継地点であり昔から中東における要衝の地であった。このあたりには3200年前から人が住み着き、紀元前1世紀には古代ナバテア人の都市として栄えていた。その後ローマの属州となっている。


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ターバ、フェリー乗り場


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ヨルダン、アカバ港。アカバ湾の向こうは右手がイスラエルで左はエジプトのターバ。


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ヨルダン高原を走る。


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霧。まるでストレンジャーザンパラダイス(ジャームッシュ)のような...。


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以下ペトラ遺跡。


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石畳を敷設したのは当然ローマ人であろう。


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朽ちかけてはいるが印象深い彫刻。


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岩盤をくり抜いてこういう巨大な円形劇場を造ったのも後から来たローマ人だと思う。


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前日書いた理由で、やむを得ずダハブで一日を過ごす。

前日はほとんど寝ておらず、結果的には私たちにとって久々の休養日となった。

ホテルの部屋で朝から昼過ぎまでかかってたまりにたまっていた日記を書き、更新が遅れているブログの為に3日分の写真の整理をする。

これらの作業は結構集中力を要するのだ。

昼間はせっかくなのでビーチで少し泳いで久々の読書。

カイロの宿から持って来た藤沢周平。

しみじみ...。

夕方町まで行ってインターネットカフェでブログを一日分だけ更新。

しかしせっかく書いたテキスト(日記)がいざ更新しようと思ったら全く失われてしまっていたのだった。このソフトは自動保存が勝手に出て来て両方とも保存をかけたにもかかわらずきれいに失われていた。かなりのショック。


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もし私たちが自分で探していたら絶対に選択しないであろう(サイードが決めた)ホテル。

結局彼は最後まで私たちの希望を理解してくれなかった。

ここ2-30年の間に世界中のリゾート地に造られたアメリカ資本の自称高級ホテル。

インドネシアのバリにも似たようなのがあったがでかくて青いプールをつくれば客が喜ぶとかたくなに信じているようである。

世界中どこにもある点ではマクドナルドとそっくりだ。


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昨晩は結局なかなか寝付けず1~2時間の睡眠の後1時起床。

真夜中の2時に宿を出発する。

同行するのは私たちの宿のオーナーであり、旅行エージェンシーをやっているサイードとドライバーである。前半の旅のトラブルを反省したのかしらないが、オーナー自身が私たちが無事ヨルダン行きのフェリーに乗れるまで付き添うと言って来たのだった。

カイロから1時間ほどでスエズに到着。

スエズ湾のある紅海はアジア、アフリカ、ヨーロッパの交差点である。サイード達はここを渡るとアジアに来たと感じるといった。同じアラビア圏なので私たちからすると不思議な感じがするが彼らには彼らの空間地図があるのだろう。日本人にとって朝鮮半島までの距離が実際よりも遠く感じられるのと同じかもしれない。

長いトンネルでスエズ運河をわたりシナイ半島に上陸。

スエズ湾沿いに南下しシナイ山のふもとの聖カトリーナ修道院へ8時頃到着。

ここは言うまでもないが旧約聖書でモーゼが十戒を神から授かった山である。こちらの名前はガバル・ムーサ、モーセ山という意味である。標高は2285メートル。このふもとにモーゼが聖なる山に入る時に見た燃え尽きない「燃える柴」があったところを中心にできた礼拝堂がセント・カトリーナ修道院である。

ここシナイ半島に来た目的はこれまで間接的知識でしかなかったユダヤ教やキリスト教、イスラム教が実際に誕生した場所に身を置いてみることと、ここカトリーナ修道院にある図書館に行くことであった。

先にここがアジア、アフリカ、ヨーロッパ文明の交差点であったと書いたがそれは、文字の流通という意味においても当然言えることなのだ。

アルファベットの成立もここ紅海と地中海を自由に商活動したフェニキア人によって徐々に形成されていったと言われている。

このカトリーナの図書館は当時、聖書の翻訳センターでもあったのだ。重要な写本は大英博物館にあるとはいえ、ここにもまだ膨大な数の写本が残されている。書庫にはもちろん入れないが展示されているものを今回見ることができた。

写真は不可なので残念だがアルファベット・カリグラフィ=タイポグラフィの歴史書には必ず載っている写本書体のオリジナルを見ることができた。

言語はギリシア語、シリア語、コプト語、ペルシア語、グルジア語、アルメニア語、アムハラ語、教会スラブ語(バシュカ文字!)、アラビア語などである。


その後半島の東、アカバ湾側に出てダハブに到着。ここは1960年代イスラエルが占領していた時代にできたリゾートの町である。ダイビングで有名なところでかのクストーが世界で最も美しいダイビングスポットがある場所と言った所でもある。

昔ダイビングの本を何冊かデザインしたことがあって、その時はフィジーに取材に行ったのだが、たしかに紅海の海はダイバー達のあこがれと書いてあったことを思い出した。

今の僕にはほとんど関係ないけれど。

ここに一泊し、翌日ターバという港からヨルダンに行くつもりであったが、フェリーが欠航になりここで二泊するはめになった。

本当に欠航なのかどうかははなはだあやしいのであるけれども。


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スエズ運河で新月を見る。


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シナイ半島を南下する。左手には岩山が延々と続く。ここも、サウジアラビアも山が赤く見えることが紅海の名前の由来らしい。


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半島を東に折れてシナイ山に到着。


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聖カトリーナ修道院


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モーゼが見た燃え尽きない柴


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モーゼの昇った山


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ダハブの海岸沿いのレストランにて。左はドライバーのアルシャミル、サイード。後ろは紅海。


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朝バフレイヤの町を少し散歩した後、10時のバスに乗ってカイロに戻る。

途中バスの調子が悪くなり砂漠の真ん中で30分ほど停車。バスのクーラーもとまり車内はサウナ状態に。

一時はどうなることかと思ったが無事カイロまで戻る。

翌日からこの旅最後の冒険、シナイ半島、ヨルダンのペトラと死海行きが控えているので夜はその準備。

早めに眠る。


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バフレイヤオアシス


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泊まった宿。


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朝顔のような...。


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危なっかしいテレビ台


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朝7時過ぎに宿を出てバスセンターまで車で送ってもらう。

バスセンターから西方(リビア)砂漠にあるオアシス、バフレイヤ行きのバスに乗る。ピラミッドのあるギザを通り巨大なカイロの町の外に広がる砂漠の一本道をひたすら走る。

約5時間半かけてバフレイヤに到着。

ここで昼食をとり4WDのジープ(トヨタのランドクルーザー)に乗り換えさらに南西の白砂漠を目指す。途中ピラミッドの形をした山のある黒砂漠、小さな山全体がクリスタルでできているクリスタルマウンテンを通る。

運転手は夕日までには着いて白砂漠を見せたいからとひたすらオフロードを飛ばす。

日没の30分程前に無事白砂漠に到着。ここはマッシュルーム状の3メートルから10メートルほどの石灰岩の巨石が林立している。地面の石灰岩部分も真っ白である。

そこに沈む夕日は確かに全く美しい。

奇岩ということではトルコのカッパドキアを思い出すが広大な360度の砂漠の中にあるところなど、全く異なる印象だ。あっというまに日は暮れて周囲は瞬く間に暗闇になる。

感動したのは音である。

無音室にいるような不思議な感覚があった。

その後遅れてやってきたグループ、カナダ人、アメリカ人、博多から来た4人娘と合流し砂漠にカーペットとマットを敷いてたき火しながら夕食をとる。博多の4人はばりばりの博多弁で楽しい娘たちだった。二人は4ヶ月の世界旅行中で、そこに友人の二人がエジプトで合流したらしい。

砂漠の満天の星(天の川を視認したのは40年ぶりではないかと思う)を見た後私たちだけ暗闇の砂漠を2時間程走ってバフレイヤの宿に戻る。

ドライバーは「宿はキャンセルOKだから砂漠に泊まれば」と勧めてくれたが、他のメンバーは皆2~30代なので砂漠に毛布で寝ても平気だろうがさすがに私たちは歳なので遠慮した。朝日の中の白砂漠も見てみたかったけれども、これ以上睡眠不足が続くのは後々を考えるとやばいと判断したからでもあった。

砂漠の夜は本当に寒いのだ。


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砂漠の中の休憩所


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黒砂漠


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クリスタルマウンテン


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白砂漠に到着


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昨晩11時半にルクソール空港を飛び立ち、カイロの宿に戻ったのが夜中の2時近くであった。

朝9時から旅行エージェントとの話し合い。

あまりにもこの前半、言ったこととやることが異なるトラブルが多かったのでしっかり時間をとって説明してもらうためだ。

あまりにも対応が悪い場合は後半すべてキャンセルするつもりでもあった。午前中を全てこれにさいた。

全てに納得できたわけではなかったが、結局はまあ乗りかかった船だし、問題が起こった時のエジプト的対応の仕方も分かってきたので後半もほぼ予定通り旅を続けることになる。

カイロのエージェントの言い分は今までこんなケースはほとんどなかったこと。

問題はアスワンのムハンマドにあったこと。

カイロのエージェントからの抗議でムハンマドは昨日クビになったことなどだ。

「えー?クビ!」僕らがしてほしかったことはそんなことじゃないんですけど...、と思ったりもしたが全くエジプト人(旅行代理店)の行動パターンは理解を超えている。クビにするんじゃなくてちゃんと教育しろと思いましたが、多分そんな風にはなっていないのだろう。


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6車線分の道を右3車線、左2車線分車が駐車していて残された1車線を人と車が通る。端の車は多くが廃車であった。


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午後やっと世界的にも有名なエジプト考古学博物館にいく。

当然のことだが収蔵品には素晴らしいものが多々ある。

しかし展示のあまりの劣悪さに驚いた。

ライティング、展示方法、解説、部屋の割り振り(導線)全てにおいて良くない。

これは全く信じられないことであった。

ツタンカーメンのマスクのある一帯だけ別の美術館の様にまともになるのだが、それが違和感に拍車をかけている。


皮肉屋のリチャードならば遺物は大英博物館にあったほうが保存の点からも幸せなんじゃないかという冗談を言いそうである。

写真撮影は禁止なので画像はない。




午前中にボートをチェクアウトしていると、アスワンとはまた別のムハンマドが現れて私たちを次のホテルに連れて行くという。この日我々は夜遅くの飛行機でカイロに戻るのでそれまで荷物を置き休息などをするためのデイユースである。

このムハンマドもかなり胡散臭い男であった。

後で分かったことであるが私たちの一連のトラブル続きのアスワン、アブシンベル、ルクソールの旅行を仕切っていたのはどうやらこの男だったのである。この日の時点では我々はそれを知らない。

ホテルのチェックインの後、ルクソール博物館にまずは行きたいと我々が言っているのに土産物屋に連れて行こうとしたり、博物館は小さいから時間なんかかからないと言って食事を誘ったりするのだ。しかも博物館とは反対方向に随分歩かされた。いい加減頭に来てここからは自分達で行動するからあんたは帰っていいときっぱり言った。

ルクソール博物館は展示数こそ少ないものの傑作ぞろいであり、展示の仕方もエジプトの中でも数少ない真っ当なものだった。4時頃、博物館で遅めの昼食をとってホテルに戻る。


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ここは撮影禁止なので画像はない。

ホテルの近くのマーケットの中にインターネットカフェをみかけたので、久方ぶりにメールを確認し一日分だけブログを更新する。ナイルクルーズしている間ネットは全くできなかったのだ。

エジプトでの旅行エージェントとのやりとりにいささか辟易し、殺伐とした気持ちになっているところへK先生から絶妙なタイミングで我々を気遣うメールをいただいていた。妻とふたりそれを見ながら思わず泣きそうになりました。

先生のメールにはジョセフ・アルバースの言葉からの引用があった。

無断ですが以下、引用させてもらいます。


...

芸術とは

はじめに表現があるのではなく、

まず視覚を提示することなのだ。

芸術における視覚とは

洞察力、生命を見抜くこと。

だから芸術とは

対象ではなくて

経験なのだ。

そのことに気づくために

私たちは感受性を磨かなければならぬ。

それゆえ芸術は

そこにあり

そこで芸術は

私たちをとらえる。

...


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