2008年7月アーカイブ

ワイマールに来た大きな理由を改めて考えてみると昔フォトモンタージュやデザインの歴史を調べていた時、ドイツのこの街がとても重要である印象を持ったからだ。第一次大戦から第二次大戦の間いわゆる黄金の30年代、ドイツにおいてベルリンと並んで最も重要な都市の一つだったのだ。かの有名なワイマール憲法もここで発布されたものだ。またここはゲーテが長く住み仕事をした場所としても知られている。実際来てみると驚く程こじんまりした街なのである。人口は5万人である。ドレスデンやライプツィヒの十分の一である。しかしバスに少し乗っているだけで街にはゲーテ広場、シラー通り、ショーペンハウアー通り、グロピウス通り、フンボルト通りetcと僕らが良く知っている名前がつけられた通りがいくつも存在し、ここがドイツ人の文化的故郷でもあることが否応なく感じられる。またドイツルネサンス最大の画家クラナッハはここを拠点に活動したし(画家であると同時に薬局も経営し市議会議員でもあった)またいうまでもなくバウハウスが最初に誕生した場所でもある。



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国民劇場広場。ゲーテの「ファウスト」が初演されリスト、シューマン、ワーグナーらが活躍した劇場であり、ここで1919年にワイマール憲法は採択されている。劇場の中までは入らなかったが印象はとても質素というかこじんまりしたものである。


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劇場前のゲーテとシラーの像。シラーは歌劇「ウイリアム・テル」の作者だそうだが私は全く読んだ事がない。ゲーテが彼をこの街に招き死ぬまでの5年間この街ですごしたらしい。

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国民劇場の向かいにあるワイマール・バウハウス博物館。

バウハウスは1919年にワイマールで発足した。その後1924-5年に市と対立し(社会民主党が与党から野党に転落したのをきっかけに)デッサウに移転している。いわばここでは初期のバウハウスを見る事ができる。その後ここは別の保守的な工芸学校となり、東西ドイツ統合後はバウハウス大学となっている。この間の様々な政治的、造形的理念の対立などの変遷はここでは詳述できないが、とにかく複雑な印象を持った。少なくとも今更バウハウス大学とネーミングする感覚が理解できない。僕の勉強不足かもしれずこの間の事情は分からないが、経歴詐称じゃないがうさんくさい感じがする。


しかしなによりもここで想像を超えて良かったのはヨハネス・イッテンであった。表現主義的で機能主義バウハウスに反するとしてグラフィックのファイニンガーとともに追放(?)された人としてまた色彩学の権威として知られる人だが、今回見る事のできた彼のドゥローイングが凄かった。(撮影は不許可だし図録にも掲載されてないので画像はありません)これは後で日本でじっくり検討するつもりである。ドゥローイングとタイポグラフィの合体したデッサンは本当にただものではないと感じた。多分バウハウスで続かなかったのは、造形上の主義の違いというより人間関係なんだろうなあとも思いました。イッテンはとにかく「あく」が強いというか、天才型で協調性には欠けていたのだろう。絵からはそのような印象を受ける。しかし滅茶苦茶鋭い。


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イッテンによる色彩のオブジェ


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イッテンのドゥローイング


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バイヤーのユニバーサル


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工芸はビーダーマイヤー、分離派の伝統をしっかり受け継いでいる事がわかる。


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クレー

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クラナッハが活動した市教会。


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クラナッハによる祭壇画。クラナッハの最高傑作だと思う。


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ヴァン・デ・ヴェルデの館を訪ねるも残念ながら修復中であった。


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ヴァン・デ・ヴェルデの館の向かいにバウハウス当時の校舎(現在はバウハウス大学)がある。ヴァン・デ・ヴェルデの設計である。


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正面


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裏側

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一階エントランス

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左右にヴァン・デ・ヴェルデとグロピウスの肖像。

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学生の作品。多分建築科の基礎授業だと思うが、律儀に初期バウハウス(あるいはロシアアヴァンギャルドのシュプレマティズム)に似てる所がかわいいというべきか、古くさいというべきか。どうも微妙。


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アトリエ

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ヴァン・デ・ヴェルデ記念室のようなところ


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教室階段


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正面吹き抜けの階段。


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バウハウス校の道をはさんでリストの家。

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街に貼られていたヴァン・デ・ヴェルデのポスター


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シラーの家。

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宿からワイマールの街を望む。

今日はライプツィヒからワイマールへ移動する日である。日曜日の朝、街はとても静かである。一旦駅でワイマール行き切符の手配をしたあとライプツィヒの街を散策する。

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ライプツィヒ駅舎。ヨーロッパで最大級だそうな。

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昨日外観だけ見たニコライ教会に入ってみる。東西ドイツの壁が崩れたのはここでの集会がきっかけであったと言われているのでとても気になっていたのだ。日曜朝の礼拝の最中であったが入れてもらえる事ができた。もともとは11世紀に建てられた教会らしいがご覧のように内部の装飾は大変変わっている。かなり大きく音響も良く荘厳な雰囲気がある。

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ここは造形博物館。とても巨大である。作品はクラナッハなどの古典とベックリンなど近現代のものもある。まずは建築がひどいと感じた。まず様々な細部のスケール、など人にやさしくない。建築家は新しいと思い自己満足しているのかもしれないが現代建築のひどい見本のような建物だ。こんなにいやな印象をもつのもめずらしい。なので当然のようにこんな所には悲しいかな美のミューズは降りてこないのだ。
キュレーターが建築家に輪をかけたように最悪で、例えば15世紀の作品が並んでいる中に突然現代の作品を挿入したりする。「同じ静物画という主題で現代と比べたらどうでしょう」という意図かどうかは知らないが常設展でこんなバカなことをやるなんて信じられない。美術館の巨大な空間がひたすら空しい。また監視員がひどい。ちゃんと写真許可のお金をはらい、カードをぶらさげているにもかかわらず、いちいち近くに寄って来てにらむのだ。何か文句あるの?と笑いかけると(この旅で微笑みながらけんかを売る事を覚えた)どっかに行ってしまうのだがまた別のがやって来る。ドイツの女性のある典型について言いたい事があるが問題を起こしそうなのでここには記しませんが。とにかくここはお勧めしない。やなものを見ると身体によくない。一個一個の作品に罪はないのだけれど。

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こんな空間、どこか(ムサビ?)で見た事があるような。今の流行なんでしょうか。

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ベックリンの有名なこの絵はここにあったのですね。

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めずらしく、わりと好きなセガンティーニが二点あった。

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次ぎに行ったのは前日行ったバッハの本拠地であったトーマス教会向かいのバッハ博物館。本館は現在改築中で入れず、横にある臨時の会場で譜面などが見れた。ここの受付の女性はとても感じが良い人だった。バッハの直筆が写真に撮りたかったので写真を撮っても良いですか?と聞くと笑いながら見猿の真似をして私は外にいるからといって、トーマス教会の前でバッハを演奏している旅芸人のところに行ってしまったのだ。帰りがけにもちろんダンケシェーンと言いました。言葉はうまく話せなくても温かな気持ちは通じる。横で見ていた妻が「本当はだめだったのね。でもやることが憎いわね」と言っていた。たまーにこういう感じの女性もいるのだ。ドイツ女性は大きく二つのタイプに分かれるようだ。(すいません。勝手な感想です)

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街の至る所にバッハ関連のポスターが。

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メードラーパッサージュというショッピングアーケード。16世紀からの酒場で学生時代のゲーテや森鴎外も通ったらしい。地下まで降りて入るかどうか迷ったが電車の時刻が迫って来たので断念。

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ここの地下。左がファウストとメフィストテレスの像。

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その後電車で1時間半、ワイマールに到着。マルクト広場、クラナッハの家の前にて。

このブログを見ている人からは今回の私の旅は、ウイーンではオットー・ワグナー、ヨーゼフ・ホフマン、プラハではチェコ・キュビズムにアール・ヌーボー、そしてビーダーマイヤー、ライプチヒでは印刷博物館とまるで計画したように近代デザイン史をたどる旅をしているように見えるかもしれない。それに今日行くバウハウスを加えればあまりにも出来過ぎとも言えるだろう。しかし実際の私の気持ちというか意図は意外かもしれないがそうではない。ビーダーマイヤーもキュビズムも印刷博物館もたまたま来てみたらそこにあって、ただ私が反応しているというに過ぎない。


そういえば話はちょっとそれるが以前ウイーンで書き忘れていた事がある。それはウイーンにオットー・ノイラートの博物館がないことの理不尽さについてである。この事実だけみてもウイーンの人間がノイラートの凄さと重要性を未だに理解していないことを示している。自国が生んだ20世紀デザインにおける最も重要な人間を忘却するなんて。ノイラート以前だけでも充分観光資源としては成り立つからだろうか。そもそも、最も敏感であるべき美術館のディレクターがそのことを理解していないから、だからデザインミュージアムもだめなのだなと改めて思った次第。


話を戻すと今回旅をしながら今更バウハウス詣でもないのではないかという気持ちがどうも心の中に居心地悪くあったのだ。

かつて25年前(私は26才だったが)はこのデッサウに来たくても簡単には来れなかった。だから当時はバウハウスといえば西ベルリンにあったバウハウスアッシブに行くしかなく、それはそれで感動したことを覚えている。25年前にはライプツィヒにしてもドレスデンにしても(旧東側)自由に旅が出来るなんて思いもよらなかったのだ。その時はベルリンの壁もアメリカとソビエトの対立もずっと続くだろうと思えたのだ。この間の25年は大きい。同様に私の中でバウハウスに対する考え方も大きく変わったのだと思う。少なくとも単純な礼賛ではなくなっている。

ともあれ今回、迷った末一人でデッサウのバウハウスに行って来た。電車で約1時間。校舎も、教員の宿舎も1997年ころの大修復によって完全に元の状態に復元されていた。(これはさすがにドイツ人、相当大変であったことが想像されるが立派な修復である。モダニズムの修復だから簡単だと思うのは素人なのだ)

この間考えたことを書くと長くなるし、この旅の途上では何か語る心境にはならない。

現在の簡単な印象だけいえばとにかく行って良かったなと思いました。

修復されたことでディテールが見れたこと、ディテールのなかに言葉ではなくて深く感じるものがあったことなど。

また、ここはグロピウスたちが作ったひとつのユートピアであったが、短期間のうちにハンネスマイヤーに学長は代わり、ナチスの圧力で閉鎖されている。

1924年の夏ここにリシツキーが来、マイヤーの招聘でノイラートもここで講義をしたのだと思いながら一日を過ごした。とても暑い日だったが真空のような一日だった。


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デッサウ駅前


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あのバルコニー


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大修復の模様を展示していた。


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マルセル・ブロイヤーの椅子が素晴らしい。


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正面が小舞台で奥が食堂


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アトリエの一部


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外灯


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展覧会場(写真は撮れず)


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半地下のカフェ


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グロピウス通りを通ってマイスターハウスへ。


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以下マイスターハウス


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トーマス教会にあるバッハの墓

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ニコラス教会


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バウハウスから戻り夕刻、ライプチヒの街を散策。

最後に本屋でここゆかりのレクラム文庫を一冊記念に購入。チャンドラーの「大いなる眠り」と迷った末ポール・オースターの「ムーン・パレス」に。英語版でドイツ語の注釈付きである。7.2ユーロ。


午前中ドレスデンを出てライプツィヒまで移動。特急で1時間10分。ドレスデンの人口は約50万人、ライプツィヒも同様でドイツでは大都市である。(しかしドレスデンとライプツィヒからは全く異なる印象を受ける。多分理由はあるのだろうが私には分からない)

今回ライプツィヒに来た理由はかなり曖昧である。まずここが歴史的に印刷が盛んな都市であり、岩波文庫がお手本にしたレクラムという有名な出版社がある事、バウハウスのデッサウに近いことなどいくつかあった。しかし初めてなのでとにかく来てみなければわからない。

ドレスデンのように来てはみたものの何となくしっくりしない街もある。さてライプツィヒはどうなるだろうか。

宿は駅の側でまず荷物を置いてインフォメーションセンターに行く。ここでは造形博物館という大きい美術館があるがそこには行かずに、ガイドブックにはなかったけれどもインフォメーションの人に印刷博物館はないのかとまず聞いてみた。

そしたらちゃんとありました。トラムに乗って20分くらいのところ。詳しい説明なしで写真を見て下さい。だいたいどんな所かわかると思います。ここは保存されている印刷機等すべてのマシーンが稼働するように整備されていた。そして技術者が何人かいてなんでも親切に答えてくれる。目の前で実演してくれる。僕らがいる間も美術大学の学生らしい人が何人も来て技術者に相談していた。まあ、僕にとってはディズニーランド(?)のようなところでした。


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ドレスデン駅


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電車はガラガラで一両独占状態。


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以下、印刷博物館


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このリト版はどのように製版したのだろうか。


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木活字


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大判リトグラフ印刷機


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インク撹拌器


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昔の活字鋳造機


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楽しそうに実演をするおばさん


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モノタイプ自動活字鋳造機の説明。

僕があまりにもおもしろがるし、「ライノタイプがどうのこうの」と独り言を言っていたらあんたはプロフェッショナルかと聞くのでいや違うと答えるとこのおばさんがわざわざ別のおじさんを連れて来てライノタイプの実演をしてくれた。


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ライノタイプ自動活字鋳造機の実演


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博物館中庭にて


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ドレスデンはかつてのザクセン王国の首都で壮麗な街だったところだが、第二次大戦の空襲で一夜で破壊された町として知られている。廃墟のままであった聖母教会を残されたがれきの破片を地道に組み合わせて最近(2005年)修復したのは日本のテレビでも放映されていたのでご存知の方も多いと思う。

戦災にあった街に共通であるが基本的に街は全体にのっぺりしていて、戦後の共産主義下のビルがほとんどで、街の中心のツヴィンガー宮殿などが修復されているのだが全体としては何となくちぐはぐな感じを受ける。あくまでも一旅行者の感想ですが。

観光の街のはずだが、他のドイツ、ヨーロッパの街のような雰囲気、旅行者が気軽に入れそうなキオスクやマーケット、カフェが驚く程ない。水を買おうとして歩いても歩いてもお店が見つからず少しあわてたりとか、なんとなく不気味な感じがある。25年前訪れたことのある東ベルリンの雰囲気に似ている。宿は中心からトラムで15分くらいのところで、エルベ川ぞいであるがやはり周りにはタバコ屋すら見当たらない。

ここの滞在の主たる目的はフェルメールが二点あるツゥインガー宮殿内にあるアルテ・マイスター絵画館に行く事であった。その他クラナッハ、ホルバイン、デューラー、レンブラント、ボッシュ、ボッティッチェルリ、ラファエロ、リューベンスなど傑作がかなりある。また風景画の巨匠カナレットの作品がここには多くその特別展をやっていてカメラオブスキュラと風景画の関係を中心に展示をしていたのが少し興味深かった。

同じ宮殿内の陶磁器コレクション、武器博物館などを見ても、ザクセン王国のかつての繁栄を偲ばせる。その他ドレスデン城では王様の財宝、工芸の展示をみたが(写真は撮れずイメージはないが)その贅沢ぶりはものすごいものがある。いわゆる博物館の元である王様のウンダーカマー(脅威の部屋)を実感するにはもってこいである。趣味的には全くあわないので心は全く動かなかったが。



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黒く見える石は戦災で焼けたことを示している。


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ツゥインガー宮殿

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クラナッハ


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ホルバイン

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デューラー


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レンブラント


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これはカラヴァッジョではありません。

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ボッシュ

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ボッティッチェルリ

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苦手なラファエロの有名な?部分

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苦手なリューベンスはどこにいってもある。

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カナレット


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陶磁器コレクション、武器博物館

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今日はプラハを去りドレスデンに向かう予定である。正直プラハは予想していたよりも、はるかに気に入ってしまったので本当はもう2〜3日滞在を延ばしたいのだが。結局、図書館にも行けなかった(ここはアポイントメントなしには見せてもらえないだろうが)。またチェコではブルーノにも行けなかった。ここはミースのトゥーゲンハート邸があるし、グラフィックのビエンナーレでも有名な街だ...。
しかしここチェコには縁があればまた日を改めて来る事もあるだろう。そんな予感がする。
ということで午前中、初日に行った時閉まっていたチェコキュビズム博物館(別名黒い聖母の家)に行く。チェコキュビズムについては思う所あるが...。とにかくこの美術館は小さいけれどとても良い。しかもここで初めて知ったある建築ザイナーの図録を購入したが、その時レジのお兄さんがプラハの現代デザインの見所をあれやこれや教えてくれた。もうドレスデン行きの電車のチケットを買ってしまったというのに。全く後ろ髪をひかれるとはこの事か?

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オットー・ノイラート、ゲルト・アルンツを調べていても思ったが雑誌、デア・シュトルムとディ・アクツィオーンはドイツというよりは中央ヨーロッパにとって重要な雑誌であることが分かる。

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キュビズム・タイプフェイス?らしい。

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1〜2階はカフェ。1階はブックショップなど、キュビズムの家具や食器も売っていた。

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この写真もまるでキュビズムのような...、でしょ。

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ドレスデン駅

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ドレスデンは第二次大戦において最も空襲の激しかった街のひとつで東京と同じように一旦は廃墟になっている街である。

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宿の窓から見える夕暮れ。

こうなってくると毎日は苦行僧のようである。どんなに疲れていてもホテル住まいなので朝はしっかり起こされる。ホテルの朝食をしっかり食べ頭と身体をとにかく叩き起こす。そしてまた街に出て行くのである。
今日も本当にハードな一日であった。(途中眼鏡紛失事件もあったが無事解決。)

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今日は国立博物館がメインでまずここでじっくり過ごす。ここでは人工物ではなく自然の記述を楽しむ。(人類の足跡展という特別展もやっていた)

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人類の足跡展。企画はおもしろい、がディレクションが...。

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骨のサイコロ?

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自然の記述
僕がこのようなものに強い興味を持つようになったのはもう10年以上前に遡るが、勝井先生の視覚伝達デザイン論を6年間通しで聴講したことによると思う。この授業では何度も目から鱗が落とされたが何よりも、デザインを行う前の世界に対する態度とその構造を理解するための先生の好奇心の強烈さに影響を受けたと思う。どうデザインするかの前に対象は何かを自然科学的に知る事の大切さといってもよい(「土の記憶」などはその中の一つだ)。その後僕がその授業を引き継いだ(先生に比べれば情けないくらいへなちょこだが)のだが、今回の旅はそのまんま授業で思考したことの現物確認の旅ともなっている。
その先生からさっき「旺盛な知的好奇心と行動力に感心しています」というコメントをいただいた。恐れ多い事だ。

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その後、カレル庭園を通り、国立美術館に向かったのだが途中でプラハ城riding-schoolというところでビーダーマイヤーbiedermeier art and culture in the bohemian lands 1814-1848という興味深い展覧会に出くわす。躊躇せずに入る。大変素晴らしい展覧会であった。写真不可なのでイメージはないが。19世紀前半のこの中央ヨーロッパの豊かさがよく分かる。ウイーンのゼツェッション(オットー・ワグナーやヴァン・デ・ヴェルデ)など、そしてもちろんドイツ工作連盟もビーダーマイヤーの歴史的バックボーンの上に成立していることがよくわかる展覧会であった。装飾的だが過多ではなく、構造的で今日的とすら言える。日本で言えば元禄時代か。日本のデザイン史は通史がまともにないが、同様であろうと思う。つまり日本のグラフィックデザインが今日豊かさを持っているのは江戸の歴史の厚みがあるからだ。

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カレル公園

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ビーダーマイヤー展

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本当はこれだけで疲労困憊だったがどうしてもデューラーの大作を見ずには済むまいと思い無理を押して国立美術館へ。ここも写真不可なのでイメージはない。
その後昨日書いたクレメンティヌムのカテドラルで7時からコンサートを聴く。7人編成のチェンバロオーケストラであった。モーツァルト、アルビノーニ、バッハ、ヴィヴァルディ、スメタナ、チャイコフスキー、ドボルザークの曲が演奏された。7時から約2時間程か。プラハに来たんだからドボルザークが聴きたいと妻に言っていたのだが、はからずも実現し感動。疲れていたので眠るかと思っていたが全然平気だった。アルビノーニのアダージョでは思わず泣きそうになった。ウイーンのヨハンシュトラウスといい音楽もヴィジュアル作品同様それが生み出された場所で聴くというのは良いものだとしみじみ思いました。

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一日の終わりに虹が。




今日は月曜日で美術館等はお休みなので主に街を歩く。プラハは初めてである。ここは美しい街であると同時に街が建築や工芸を学ぶ者にとってそのまま博物館、教科書のようなところだ。モダニズムとはまた別のデザインの伝統がしっかりあることがひしひしと感じられる。1日や2日では到底この街を見たとは言えないということがすぐに分かった。要するに予想を超えて街は素晴らしく、楽しかったし、興味深いのだが詳述は省く。長い一日。


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今回とてもお世話になったトラム。一日券を買っておけば好きに乗り降りできる。

たまたま偶然この写真に映った女性は12頭身くらいだろうか。日本ではほとんど見る事のできないバランスである。これも私たちから見れば異形ですね。何事も過ぎたるは及ばざるがごとしか?


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ユダヤ教のお寺(シナゴーク)


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正面は国立博物館


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キュビズムの外灯


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ペトシーン公園(街を見下ろせる丘にある)天文台横のモニュメント。


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ペトシーン公園展望塔より市街を見下ろす。


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ペトシーン公園展望塔。パリのエッフェル塔に模したらしい。


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チェコといえばパペットでありまたアニメーションでもある。人形のお店がたくさんある。街には人形劇の劇場もあった。


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プラハ城から旧市街を見る


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大司教宮殿。左隣奥に地味な国立美術館がある。


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シュヴァルツェンベルク宮殿(ルネッサンス様式らしいが、壁の凹凸の錯視的な装飾がおかしい)


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聖ヴィート大聖堂(プラハ城内)


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フランツ・カフカ博物館


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カフカのサイン


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カフカのドゥローイング


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カフカへのオマージュとしてのインスタレーションや映像など、展示はかなり好き勝手にやっていた。その意気や良し。しかし出来はイマイチ。ディレクションが青臭い。カフカ=暗いとか、=不条理とか不協和音とかゆがむ映像とか、それをやったら当たり前すぎてつまらないじゃないか。

...どうしてもこのようなものを見るとつい、俺だったらこうするよな的なデザイナー根性が出てしまいます。イカンとは思いますが。


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プラハ城側のカレル橋橋塔


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カレル橋の彫像


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旧市街側の橋塔


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クレメンティヌム。元対フス派(新教徒)の為のイエズス会の教会。現在はチェコ国立図書館の一部で550万冊!?の蔵書があるらしい。中には入れず。しかし翌日ここの礼拝堂でのコンサートに行く事にした。


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一応観光名所の天文時計


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旧市庁舎


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ヤン・フス像


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チェコキュビズム博物館。旧市街にある。別名黒い聖母の家。ここは本日は閉館なのでまた来る事に。


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黒い聖母


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1-2階はカフェ。カフェの椅子もキュビズムである。


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市民会館。ここはミュシャ(最近ではムハと言うそうな)を筆頭にチェコ・アールヌーボーの本拠地だ。


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市の南部ヴィシェフラド地区にあるキュビズムのアパートメント。現役です。


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同じくキュビズムの家。ヴルタヴァ川沿いにある。夕方8時頃、人は住んでいない感じだったので堂々と庭に入って近くで見ていたら「窓に人影が...」と妻が言うのでびっくりして出てきました。


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同じくヴルタヴァ川沿いのキュビズムの家。ユースで使用しているようだった。


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前日のコンサートについて。ヨハン・シュトラウスとかワルツとか食わず嫌いで勝手に甘ったるいイメージを持っていたのだが(ニューイヤーコンサートなんてブルジョワ趣味的だし)、今回初めて生で聴いてみて「いやあなかなかのものですなあ」と思いました。クラシックにおいてもジャズ演奏と同様、スゥイング感と間、音の遠近感が重要なのだと実感できる演奏であった。


ウイーン南駅から13時半に電車に乗ってチェコのプラハに向かう。約4時間(+20分の遅れ)。夕刻プラハ到着。ここはユーロに入ったので通貨もユーロになってると思い込んでいたらそうではなかったので少しあわてる。宿が少し分かりにくい場所にあった為、たどりつくまで時間がかかる。夕食は宿のそばの中華料理屋に行く。ここはわりとまともな中華だったので安心する。(かつてリュブリャナで店に火をつけたくなる程のひどいのを食べさせられた記憶があるので中華といっても安心はできないのだ)

夕方、かなり強く雨が降る。街を濡らす雨に何故か感動。ギリシアの乾燥がまだ頭と身体にこびりついているようだ。


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ウイーン南駅


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プラハの夕暮れ。9時頃。奥正面の白いビルが私たちの泊まった宿。交差点にある。


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宿から見た交差点。日本ではほとんどの都市で廃止にしてしまったが、路面電車のある街は素敵である。過去にタイムスリップしたような気になる。

ウイーンに来る直前に2~3年前ここを精力的に歩いていた大田君にメールで情報をもらっていた。(あきおくん、ありがとう)しかし今回はちゃんと歩き回れるのは今日一日だったので、結局25年前に歩いたところをもう一度訪ねるに止まってしまった。次(秋)のエジプトはここからの出発なのでその時もう一度時間をとりたいと思う。25年前は同行していた斉藤君がトラベラーズチェックを摺られたり、宿がひどかったりとあまり良い思い出がなかったが今回来てみてウイーンがこんなに素晴らしい街だったかと改めて感動している。道の幅や公園など都市の基本的な部分がとても豊かである。何のかんの言ってもさすがハプスブルグ家の都なのである。都市は土台が大切と思いました。こればっかりは簡単には作れない。

今日歩いた場所は市庁舎、美術史博物館、オットー・ワグナーの郵便貯金局と水門。応用美術博物館、クアサロンであった。最後のクアサロンは19世紀にできた立派なサロンでヨハン・シュトラウスがここの為に曲を書き下ろしたりした場所である。ここでモーツァルト、ヨハン・シュトラウスをアンサンブル・オーケストラで聴いた。モーツァルトはドン・ジョバンニ、アイネクライネナハトムジーク、シュトラウスは青きドナウなど。演奏も音も大変良かった。


応用美術館は写真が撮れないのでイメージがここにはない。ウイーン工房、ヨーゼフ・ホフマン、オットー・ワグナー、ヴァン・デ・ヴェルデなどの家具など、さすがに見るべき物はたくさんあったし、リベスキンドのベルリンユダヤミュージアムの模型など、意外な物も見れてよかったのだが、デザイン・ミュージアムとしては古いというか中途半端な感じがした。日本のもそうであるがデザインミュージアムで素晴らしいと思える物に僕はまだ出会った事がないような気がする。要するに安易にバウハウスやモリスに頼らず、尚かつそれらの歴史を踏まえた上で20世紀をちゃんと総括し、かつ未来に向かったあるべきミュージアムのコンセプトをたて、実現するということを誰もまだできてないということなのだろう。もちろんそれが簡単でないことは承知の上だが。だからとにかく物だけ集めていますという感じにどうしてもなる。見せる側に何故今これを見せたいのかという本気の切実な自省がない感じがするのだ。

20世紀前半のデザインや芸術において既に世界は物じゃなく、関係だというコンセプトが自明であったにもかかわらず、現在のデザインが古色蒼然、後ろ向きに見えるのは何故だろう。

本当の意味での新しいデザインミュージアムは俺が作るしかないのか?とふと思いました。


自然史博物館(ここは昔行ったが)、ミュージアムクオーター、ゼツェッション、シュタインホーフ教会、ウイーン工作連盟ジードルンク、カール・マルクス・ホーフ、その他のオットー・ワグナー、今回あまり気が進まなかったクリムトやシーレも次のお楽しみとなった。


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国会議事堂


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街頭のポスター


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フォルクス公園。誰もが入れる普通の公園なのだが手入れの気合いが違う。


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昨晩シネマフェスティバルを行っていたノイラート、ダイヤグラムチームゆかりの市庁舎に改めて行くも土曜日で入れず。正面玄関の回廊。


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美術史博物館


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自然史博物館。美術史博物館の向かいにある。今回は時間切れで入れず。間にマリア・テレジア像がある。


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マリア・テレジア像


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以下美術史美術館。ここは写真が可だったのでメモ代わりに。ここの美術館は世界的に見ても突出して優れた作品が多い所である。レンブラント、フェルメール、デューラー、ホルバイン、クラナッハ、ファン・エイク、ブリューゲル、カラヴァッジョ、ベラスケス等など。また幼い頃ノイラートが影響を受けたエジプト部門もわりと充実している。


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以下オットー・ワグナーの郵便貯金局。ここも以前来た時は郵便局として機能していたが現在は歴史建造物になっていた。感慨深いものがあった。大学院の修了制作を別々の作品だがコラボレーションとして建築家の菅谷君と共同でやったことを思い出す。


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以下オットー・ワグナーの水門


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クアサロン入り口


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コンサートの幕間に



今日は昼の便でアテネからウイーンへ移動する。
何故ウイーンなのかは説明がいるかもしれない。私たちの持っている航空券はヨーロッパー日本間の往復オープンチケットではなく地球一周用のチケットなのである。これは途中12度飛行機を乗り降りできるのでその分往復チケットよりもリーズナブルなのである。つまり最後はニューヨークを通って東京まで戻るということになる。しかしこのチケットの欠点は同じ空港を二度使えないのだ。一筆書きの原則。だからクロアチアに戻る場合ザグレブ空港はもう使えないのだ。それで今回はリエカとの交通が比較的楽なウイーンにしたのだった。
でウイーンからクロアチアにバスなり電車なりローカルの航空機なりで戻っても良かったのだがせっかくなので今回はウイーン、プラハ、ドイツの東部を見てクロアチアに戻る予定である。卒業生と8月の頭にミュンヘンで落ち合うことにしているが果たして無事に行き着くだろうか。あと二週間弱だが旅は続く。

ウイーンは大変涼しく、街には革ジャンを来た人が歩いている。これまでのギリシアからは想像もつかないことだ。ギリシアから持ってきた麦わら帽子が浮いている。
まるで沖縄から軽井沢に移動した感じだ。(沖縄には行った事がないので想像ですが)
正直言って身体が喜んでいる。ほっとするというか一息つける感じ。ギリシアの暑さと日の光の強烈さは尋常じゃなかったから。あそこは神々とゆばあば(千と千尋)のような女達の住む場所だ。人間はまるで陽炎のようだ。
どの場所でもそうだが訪れた場所と季節の関係は記憶の中で強く結びつくだろうと思う。僕にとって春先のアイルランド。夏のギリシア。

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アテネ。飛行場へ向かうバスから。

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ウイーン。25年ぶりである。

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宿に荷物を置いて街を散策。トラムに乗ってカールプラッツの昔の地下鉄駅舎へ。オットー・ワグナーの設計である。前に来たときは駅として機能していたと思うが今回博物館のようになっていた。中には入れなかったが。

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芸術家の家。工事中だった。

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オペラ座。

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シュテファン大聖堂。

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オットー・ノイラートゆかりの市庁舎ではシネマフェスティバルが行われていた。はじめはこの正面の建物が市庁舎とは気づかなかった。

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何と2000人近い人々が集まっていた。

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シネマというから映画かと思ったら音楽のライブ映像で、この夏私たちも行ったローマのカラカラ浴場を舞台にしたオペラ映像の上映であった。オリジナルのオペラではないのに何故こんなに人が集まるのか少し不思議だったが、さすがにウイーン、音響は抜群であった。
他の日は音楽のアニメなどもやるようだ。

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ただ、あまりにも寒く途中で帰宅することに。


この日は一日この博物館で過ごす。前回見落としたもの、ゆっくり見れなかったものなど。

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まるでマティスのような...。

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ツアー中はネット環境が悪くブログの更新はもとよりメールすら見れない状況が続いた。ここアテネでも今一つ不便でゆっくり考えながら更新することができない。限られた時間の中でデータをとりあえず、載せている状態が続く。

ギリシア(アテネ)を自由に歩き回れるのはあと二日だけとなった。


この日はアクロポリスを中心に歩き回る。パルテノン神殿、イロド・アティコス音楽堂、ディオニソス劇場、アドリアヌス門、ゼウス神殿、アドリアヌスの図書館、ローマン・アゴラ、風の神の塔、古代アゴラ、ヘファイトス神殿、アタロスの柱廊博物館などなど。

旅の途中なので直感的なことしか書けないが、ここはこれまで見てきた遺跡とは異なる印象を受けた。それはまず単純に遺跡が町中、しかも巨大都市の中にあるということによると思われる。最初アテネに到着してホテルの屋上テラスから見たアクロポリスの丘は、それ以外の喧噪に包まれた町と比較して頼りなげというか、単なる文化遺産だから残してます、観光名所だしという感じを受けた。しかし今日歩き回ってみて感じたのは、表層はそう見えるのだが、実は第一印象と全く異なっている事に気づいたのだ。

この町には神殿が建てられたころからあった磁場がそのまま強烈に残っていると感じられる。

都市の中にある遺跡ならローマだってあるじゃあないかという話にもなるのだろうが、ローマははっきりいってここほどの磁場はない。ローマはローマ人の都でもあったがむしろ、キリスト教徒の都であり、ルネッサンスであり、なによりバロックの都なのだ。ローマ人もギリシアを見倣って神殿を作ったがここに来てみるとローマ人とギリシア人の神殿に対する構えと言うか何と言って良いかわからないが(本気度?)、とにかく異なると感じるのだ。異質というよりもギリシア人の方が空間の聖性に対する感受性が圧倒しているのではないかと思えた。ギリシアを支配下に置いたにもかかわらず、(実際、武力、経済、政治と多くにおいて優っていたローマが)こと文化に関する事はずっとギリシアに対して謙虚であり続けた理由が少しだけ分かったような気がした。

これは少なからず新鮮な感動であった。結局、異教(キリスト教や回教)、近代産業社会、消費社会と町を覆っているものは替わっていくのだが、それでも簡単に消えないものを作った人々に改めて強い関心を持った。

それを可能にしたものは何だったのだろう。

そういえば歩きながらかつて学生時代に読んだ多木浩二さんと前田愛さんの空間のコスモロジーに関するテキストが頭に浮かんだのであった。またこの場所はギブソニアンならば「ヴィスタ」について考えさせられるのではなかろうか。


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メテオラは奇岩群の頂上にある修道院で有名である。ここの修道院は14世紀頃から作られたギリシア正教であり、様式はビザンチンである。現在は5つの修道院に人が住んでいるらしい。私たちはこの中のルサヌーとアギオス・ニコラオスの二つを訪ねた。

その後ひたすらアテネを目指し、夕方6時頃アテネに帰還する。だいたい800kmのバス旅であった。

慣れないツアーなので気疲れしたせいか体調を少し壊した。ツアーの後半から主治医(?妻の事)の命令もあり禁酒生活に入る。

4月からこっちセーブすることなく、ずっと元気に酒は飲んでいたので、いい加減節制しろというゼウスのお告げだと思った。


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午前中デルフィの遺跡を見る。ここはアポロンが信託をしたところとして、またアテネからも日帰りで来れる所でもあり、観光客も多く有名である。古代にはギリシアだけではなく世界の中心とされていた場所である。そういえばアイルランドにも世界の中心はあったが。

ここは雄大なパルナッソスの連山の中、山の斜面を利用して作られた巨大な聖域である。すそ野にはオリーブ畑が広がり、あまり高くはない糸杉(ジプレッツェーン)が印象的である。遠くにはコリンティアス湾も見え、とにかくロケーションが素晴らしい。神話が信じられる雰囲気が充満している。あのオイディプス王の悲劇も、ここでの神託によるものだ。私たちの今回の旅はトルコのディディム(アポロンの神託した聖域)といい、ディロス島(アポロンの生まれた島)といいアポロンに縁が深いと改めて気づかされた。

午後はメテオラに向かう為に北上するのだが、途中で添乗員が変わったり、バスの乗り換えがあったりのかなりの混乱であった。全くやれやれという感じである。団体行動に我慢を重ね、メテオラの近くのカランバカという町に宿泊。

この日に合流した人の中に日本から来たカップルがいた。夕食時、久々に日本の様子などを聞く。ガソリンの値段のことやそれにともなって様々な物が値上がりしている話。医療制度が変わって混乱していることなど。(この二人は医療関係者だったのでその情報は特に詳しかった)地震の予知の話や今年は東京が43度になるという予言の話も。

本当ですか?


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混乱の予兆。予定していたバスが来れなくなって急遽、このような乗り物に乗ってデルフィの町見学。


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2日目はオリンピアの遺跡と付設の考古学博物館を午前中かけて見た。スポーツを古代の人がどのように考えていたかとても考えさせられる場所であった。空気がとても清浄であった。古代オリンピックの哲学というか魂というか。

その後午後はほとんど移動時間である。パトラを通過してリオというところからコリンティアコス湾に架けられたアンティリオン大橋を渡りギリシアの中部へ。次の目的地デルフィで宿泊。

夕方にデルフィの博物館へ行った。1時間と少ししか時間が与えられず大変不満ではあったがここの博物館はとても素晴らしかった。

青銅の御者の像、勝利の女神ニケやヘルメス!の像(ギリシア彫刻の傑作群)など。


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以下オリンピアの遺跡。


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以下考古学博物館。


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アンティリオン大橋


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アンティリオン大橋記念博物館


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以下デルフィの博物館


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これは単なるお土産。

今回のギリシア旅行の日程は今年の3月に日本で決めておいたものだ。島々は宿だけ決めて自分たちで勝手に動き回ったが、ペロポネソス半島とギリシア中部は交通が不便と聞いていたので旅行会社の三泊四日のツアーに参加する事にした。

1日目はアテネを出発。コリント運河を渡りペロポネソス半島に入り、エピダウロス遺跡の古代劇場を見る。ここでは古代の医療、ヒーリングの聖地で医神アスクレピオスがまつられている。劇場、音楽、スポーツ、医療、浴場が合体しているのだ。ナフプリオンの町を通過し、アルゴス平野をわたりミケーネ遺跡へ。ここはバルカンから南下したギリシア人がクレタ文明を引き継いで独自化しミケーネ文化を築いたところといわれている。

その後バスで西に移動し、メガロポリスを通ってオリンピックの発祥の地オリンピアで宿泊。

あらかじめ覚悟していたことだが、遺跡や博物館では見学の時間を制限され、せかされ精神衛生上はとてもよくない。(そのくせ土産物屋での滞在時間が長いのだ)英語だがガイドがつくし、宿の心配、交通の心配をしなくて良いのはらくちんではあるけれど。


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この日は丸一日この博物館に時間を割く。約7時間程いたがさすがに後半は集中力がきれる。いつもはこのブログではなんとかその場で編集して写真を選ぼうとはしている。しかし情報量が多くて短時間では無理である。

この日の分はランダム(=適当?)にさせてもらう。


明日からペロポネソス半島とギリシア中部に移動するのでここにはその後再度来てもう少しゆっくり見ようと思っている。


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この日はアテネへの移動日である。午前中、宿でブログの更新などをして空港へ。(空港まではイクラリオンから20分程度。大変便利である)しかしトラブル発生。日本で予約したバウチャーを持って航空会社のチケットカウンターに行くとこの便は6月の終わりにキャンセルされている。電話連絡をとったが応答がなかった。またリコンファムもされなかったので残念ながらあんた達の飛行機はないと言われる。「エーッ??」と言うと(それ以外言葉が出てこない。そこで私たちは英語が得意じゃないのでもう一度ゆっくり説明してくれと言ったが結果は同じであった)しかし4時間後の飛行機があるからそれには乗れますという。全く信じられないが確かに私たちの予約した便そのものはなくなっていた。予約をしたのは3月だったと思うが、このようなことがあるとは。誰に文句つけて良いかわからないし、あきらめる。広くて人も少ない空港の待ち合い室で手紙を書いたり、記録をしたり読書で時間をつぶすことに。


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この日はイクラリオンから最も遠くにある遺跡、フェストスへ向かう。あの神秘のディスクが発見されたところである。イクラリオンから63km南、島の反対側にある。クレタの島は高低差が激しく万年雪を抱えた山もある。植生もそのせいで多様であるという。フェストスまでこの高低のある山道を1時間半くらい走る。フェストスの遺跡が作られたのは4100年前、その後一旦地震で崩壊し、400年後に再建された物が現在の遺跡である。

遺跡からの帰り道(バスで30分くらい)にゴルティスの遺跡があるので寄った。ここはガイドブックなどにもそっけなく1行しか書かれてない所であったが実際は大変興味深いところであった。ここは古代からローマ時代(ローマ支配時代の首都)中世のビザンチン教会までが混在している場所であった。丘にはおぼろげながらかつての劇場の形が残っている。実際は広いのだが発掘中らしく、見学できる場所が限られていたのは残念である。ここは大きなオリーブの樹が印象的だったが、入り口のおじさんの説明だと1200年前のオリーブと言っていた。本当かどうか、信じられないけど。

またここで特筆すべきなのはゴルティン・ロウ(law code of gortyn)が思わず見れた事だ。これは紀元前5世紀頃ここにあるローマンオデウム(劇場)に残されたもので縦3メートル横8,5メートルの石盤にびっしりと文字が刻まれている。文字は古いギリシア語らしい。英語の解説書があったので詳しくは帰ってからになるがアルファベットの変遷を確認する上でとても貴重な資料であった。

バスの温度計は40度を示していた。日の照りつける遺跡はもっと暑いような気がする。これほど高温のお湯になったペットボトルの水を飲むのは初めての経験である。


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以下フェストスの遺跡


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フェストスのディスクの発見場所。


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珍しく記念撮影をした。


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ここからはゴルティスの遺跡。


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イクラリオンの町の復元模型。ベネチアが支配していた時代。

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模型と同じ遺構が見える。ホテルはこの裏手にある。

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ユダヤ後

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カレンダー。18世紀だったと思う。

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ゴルティス遺跡。

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カザンツァキス

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会場の最後の所にとても意外なものが展示されているのを発見。説明しません。分かる人には分かるでしょう。

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最後はとても小さなエル・グレコ公園にて。


昨日にクノッソス遺跡について問題ありと書いた。今日は同じ時代のマリア遺跡を訪ねる。イクラリオンの町から約40kmで海の近くにある。
果たしてここの遺跡の状態はいかなるものかと少し心配していた。ここはギリシア人考古学者が発掘にあたっている。クノッソス遺跡への批判を踏まえた所為だろうか、ここは極めて真っ当なやり方で保存と修復、展示を行っており安心した。また昨日のクノッソスで自分の感じた事がまちがいではないと改めて確認することができた。ここはエントランスのギャラリーに遺跡全体の模型と、復元模型がちゃんと展示されている。
その後、マリアのビーチで海を見てからイクラリオンの町に戻る。
その後クレタ歴史博物館を訪ねた。ここは小さいながらも充実した展覧会を行っており感心した。細かいことには触れられないが現代ギリシアの小説家、思想家であったカザンツァキスの展覧会は特に力がこもっており印象深い。映画「その男ゾルバ」の原作者として日本でも知られている。彼は生涯多くの旅をしたらしくそれを軸に構成した展示だった。こちらも旅の身の上なので感慨深く見た。彼は戦前の日本にも滞在しており「石の庭」という小説を書いているらしい。

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マリア遺跡前

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復元模型

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あくまでも復元ではあるがこれが3700年前というのは信じがたい。ドコモモ

http://www.docomomojapan.com/

にあっても誰も驚かないだろう。


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発掘中の人々


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イラクリオンのベネチア支配時代の遺構。宿のそば。

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クノッソスの遺跡の後、同じ日にイクラリオンの考古学博物館に行ったのだが、クノッソスのエヴァンスに「けち」をつけた以上、同じページに書く気にならず項を改め0707-2とする。実際この前後は同行している妻も僕も体調を壊し(妻はお腹の調子、僕は目が痛くなった)たのだ。まさかエヴァンスの呪いじゃないだろうが。

項を改めたのはもうひとつ理由がある。この博物館がとても素晴らしかったからだ。その中でも特筆すべきなのはフェストス(phaestos)の円盤を見れたことである。今から10年前、ゼミのまとめとしてwriting space design 98/99という本を石塚君やカトケンや中蔵君と苦労しながら作ったのだがその巻頭のページにCDのディスクとこのフェストスの円盤を並べてレイアウトしたのだった。僕はこの二つをつなぐ物がwriting space designを意味していると当時思っていた。(今もそれは変わらない)その時はまさか10年後に自分がそのオリジナルを拝めるとは想像だにしてなかったが。

フェストスの円盤は想像以上のものだった。まだ解読されていない。


10年前の自らの振る舞いが今を決定しているのだ、と改めてグレゴリー・ベイトソンのことを思い出した。


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パンサーです。


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蜂のブローチ


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この文様はミロス王の家紋、もろ刃の斧。ラビュリントスを表しているという。


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水晶でできた器


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クレタを象徴する牡牛


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蛇を持つ女


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ライオネス


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これが単なるフレスコなのかどうか分からない。


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印章


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フェストスのディスク


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昨日の夜クレタ島のイラクリオン(英語表記だとheraklionヘラクリオン)に上陸し港の近くに宿をとった。ここはギリシアの島々の中で最南端、かつ最も大きい島である。300km向こうはアフリカ大陸である。ここはギリシア文明発祥の地といわれる。人が住み始めたのが今から約9000年~8000年前で5000年前から高度な文明が存在し、3800年から3500年前にひとつの最盛期を迎えたといわれている。前日訪れたサントリーニ島もその中に含まれ、これら全体をギリシア文明と呼んでいる。

ここにはクノッソス、フェストス、マリアという三つの重要な遺跡がある。

今日はまず私たちのいるイクラリオンの近く(バスで約20分)のクノッソス遺跡を訪ねる。これはギリシア神話の中でも特に良く知られている場所である。クレタのミノス王が自分の息子であるミノタウロスという怪物を閉じ込める為にダイダロスに作らせた迷宮=ラビュリントスとして。クレタがアテネをも完全な支配下に置いていた時代である。

また、これが単なる神話ではなく実在のものであったことを英国の考古学者アーサー・エヴァンスが1900年に発掘し、歴史上の事実として証明したことでも有名である。

そしてこのことからかつてプラトンの述べたアトランティス文明がここやサントリーニ島であったのではないかという話にも繋がるのだ。

そういった(興味深いが)細かい話を詳述する時間がないし、ここでの目的でもない。とりあえず私たちは写真のようにこのクノッソスの遺跡を訪れた。ここはかなり広大で興味深いものがあり、その重要性はよく理解できた。

しかし(これまでもいろいろ言われていたらしい)残念ながらアーサー・エヴァンスによる発掘と修復にはかなり重大な問題があると思った。私は考古学の専門家でも修復の専門家でもないのでとやかく言う筋合いはないのだろうが、これまで様々な遺跡を見てきた直感で言わせてもらえばエヴァンスは間違っていると思う。彼は修復と称して遺跡をコンクリートで再現(再構築)しているのだ。だから結果として建物の姿など、見る人にとっては分かりやすいのかもしれない。床も平らになって歩きやすい。しかし現地でこれは絶対やってはいけないことだろうと思う。別の場所に再現するならば別だが。だから見ていてどこまでがオリジナルでどこからが手を加えた物かがわかりずらい。しかも本当の修復ならば本来、当時と同じ素材、同じ工法をとるべきなのに例えば本来木であっただろう部分はコンクリートに着彩なのである。まるでへたなアミューズメントパーク化しているのである。しかも修復ではなくて適当な所であいまいに廃墟化しているのだ。まずそのことに驚かされた。どんな基準でそのようなことを行ったか理解できない。

ガイドブックには「約3700年前の宮殿が復元され、想像以上に生々しく保存されているのに驚かされる。...それらは訪れる者のロマンをかきたて、神話の世界へと誘う。」などと書いてあるがこれはとんでもない犯罪行為だと思え実は気分が悪くなった。

遺跡を見るという事は見る側にそれなりの想像力を必要とするものではないのだろうか。 

この遺跡の発掘により、先に述べたようにギリシア文明の存在が決定づけられたことは間違いない。しかし昨日のアクロティリ遺跡などの発掘(これらはエヴァンス以降)から見るとエヴァンスの行為(イギリスの考古学研究所が現在も管理しているらしい)は考古学として超えてはならない一線を超えたのではないかと思えてしょうがない。とても残念に思った。


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これはヨーロッパにおける最古の「道」だと言われている。


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昨日も書いたが、アクロティリ遺跡を見れない事に失望しつつ今日は移動の日である。夕方次の島クレタ島に渡るまで博物館に行くことにした。最初はフィラ考古学博物館である。ここは入り口に紀元前17世紀の大壷があると聞いていた。ちゃんとありました。博物館の多くは撮影自由なので(フラッシュさえ焚かなければ)調子良く撮っていたら壁に「撮影禁止」の張り紙。なので中途半端なものになりました。

そして問題の次の博物館、新先史期博物館へ。これまでのギリシアでの博物館は全体的に規模も小さく(島にあるせいか)見せ方も適当な感じでどうもイマイチな感じがしていたのだが、ここでは良い意味で大きく裏切られた。予備知識もなかったせいだが、ここは新しい博物館で私たちの行けなかったアクロティリからの出土品がメインの博物館だったのである!

全てが今から3700年から4000年前のものなのである!。

写真をご覧になっていただければわかるが保存状態は極めて良い。50年前のものと言われたって信じるだろう。焼き物類を見ながら「ウオーツ。光悦!」とか「宗達!」とか「光琳!」とか「岡本太郎!」とか口走りながら見ました。

凄いです。

そして壁画。驚くべき新しさ(変な形容ですが)というか何と言うか。

圧倒されました。細かい話はあるけど書けない。

そういえばこの日のサントリーニの気温は39度でした。


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フィラ考古学博物館


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例の大壺


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ここは主にティラ遺跡出土なので紀元前9世紀以降のものが主であった。


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レリーフのディテールを見ると西アジア(ヒッタイトなど)の影響が強いように見える。

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新先史期博物館入り口。

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しつこいようですが以下全て3700年以上前のものなのです。トルコ、アンカラのアナトリア文明博物館で受けた衝撃(0513)と似たものがあります。規模はアンカラの方がはるかに大きいのですが。

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テーブルの脚!。

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串置き?

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青銅ののこぎり

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このエロティックな絵はThe Wall Painting of the Ladiesというそっけないタイトルがつけられたものですが、後に掲示するブルーモンキーも含めて初めて見るという人が多いのではないでしょうか。ローマのフレスコにも驚きましたがあれよりも千数百年以上前ですよ。僕はにわかには信じられません。

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壁画。ブルーモンキー

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アクロティリ遺跡の模型の部分。この博物館は収蔵品もさることながら展示の模型、グラフィック等とても良くできていた。

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港でクレタ行きのフェリーを待つ。前回同様しっかり1時間遅れで到着。クレタ到着は9時となった。

この島の名前サントリーニは何故か分からないが近代になって名付けられたもので昔はティラ島と言っていたという(thera寺)。この島への第一の目的は昨日記したように紀元前1500年、つまり3500年以上前の大噴火で埋もれ、再発見されたアクロティリ遺跡を見る事であった。(この間の事情はポンペイと同様だが何しろ火山灰によって保存されたものの年代が桁違いである)ここはつまり4000~3500年前のギリシア文明が封印されているところなのだ。しかしこの遺跡は2~3年程前からクローズドになっている、今回行っても見れないかもしれないよとは聞いていた。あらためて今回現地で確認したのだがやっぱり開いていなかった。アクシデントがあったからという説明だが詳しい事は分からなかった。残念ながらここは断念することに。今後行く予定のアテネの考古学博物館にめぼしいものは展示されているそうなのでそちらを期待することにした。

もう一つの目的地は古代ティラといわれる紀元前9世紀から1000年以上かけて栄えたというティラの遺跡である。ここは島で最も高い嵓山の上にあり、麓までフィラの町からバスで行き、麓でミニバスに乗り換えて8合目あたりまで行く。そこから徒歩で登る。こんな高い山の上の遺跡はめずらしい。ロドスのリンドス遺跡も高かったがタイプはかなり異なる印象だ。

帰りにワイン博物館を訪ねる。すいません。かなり個人的な下心がありました。ここは火山灰質なので土壌がワインに適しているのだという。試飲した収穫後のぶどうを一旦2週間ほど干して作ったワインを購入。

バスで夕方フィラの町にもどり、一旦宿で休憩。夕方の5時から8時まで開いている町中のメガロン・ギジ博物館へ。ここは建物が古く17世紀のもの。展示物は16世紀以降の島の歴史を示す地図、文書、写真などである。50年前の地震の様子を示す写真などが興味深い。


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左下が8合目あたり。ここまでミニバスが来る。


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遺跡の入り口付近にあるギリシア正教の小さな寺院。建てられたのは中世。


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以下ワイン博物館


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以下メガロン・ギジ博物館。サントリーニ島の火山の様子を示す銅版画。


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かつて、この島を支配したオスマン・トルコのスルタンの手紙。


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1956年(私の生まれる1年前)の噴火。


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オールドポート。現在もロバがいて人を運んでいる。


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博物館入り口。


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博物館横の教会。


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昨日と同じ夕日の名所。この真下がオールドポート。


昨日、目的のデロスを見たので今日はゆっくり起きて朝食をとり、ミコノスの考古学博物館へ。BC9世紀から6世紀にかけてつぼ絵が抽象形態(渦巻き)、動物(信仰)、人間(神話)へとはっきり変わって行くのを見る事ができた。

その後エーゲ海洋博物館へ。ここは町中の小さな私設博物館である。収集や見せ方も偏っているが私としてはいくつかの地図とコンパスなど航海器具をまめて見れたのが収穫であった。これもwritingの重要な道具なのだ。

その後、次の目的地サントリーニ島に行く為にフェリー乗り場へ。2時45分の出発予定が1時間遅れる。結局6時45分に無事サントリーニ島に到着。

ここは白い街並が断崖の上にある。それが雪が積もった様と形容されることで有名だ。島の構造がミコノスや他の島々ともかなり異なっている。何故ならばこの島は火山島でBC1500年前の火山で今の形になったという。ここで栄えたかつてのキクラデス文明もその火山によって埋没したといわれる。フェリーポートからはバスで20分程断崖を上ることになる。私たちの宿のあるフィラという町は1956年の火山による地震で崩壊し、その後にできたものだそうだ。

同じ観光地でもミコノスと異なりこの島との相性は良い気がする。

宿に荷物を置き町の散策。有名な夕日を見る。


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以下考古学博物館にて。


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BC7


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博物館中庭


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BC8


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BC9


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ここからエーゲ海海洋博物館


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博物館中庭


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サントリーニ島のバス


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宿のテラス。ここは東向き。


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向こうに見えるのが2000年前にできた火山島。


そもそも観光の島ミコノス島に滞在しているのはこのデロス島に来るためである。この島は紀元前1世紀に西アジアの国に滅ぼされて(島民1万人が殺されたという)以来、人は住んでおらず19世紀にヨーロッパ人の(ギリシア人自身の)ギリシア再発見とともに発見された古代遺跡である。ここはアポロンとアルテミスの兄妹が生まれた島として(もちろん神話上だが)エーゲ海の島々の中でも最も中心的な場所の一つである。約2000年来人は住んでおらず、現在は島自体が遺跡として保存されている。なので当然宿泊施設などはなく、ここに行く為にはミコノスから4キロだが船で1時間弱かけて行くしかないのだ。行きのフェリーが午前中3本、帰りが午後に3本あるのみ。私たちは朝一番のフェリーに乗り最終便で帰ってきた。島は日をよける場所がほとんどない。

唯一の建物がディロス博物館である。

さすがに来た甲斐があった。その規模はトルコのハットゥシャシュにほぼ匹敵するだろう。小高い山の上のゼウスのサンクチュアリからの眺めは絶景である。


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ディロス島


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ディロス島博物館にて。


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顔料


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驚くべき文字!


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ゼウスのサンクチュアリ


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復元図


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ミコノスに戻る。


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朝、6時半に宿を出て地下鉄でフェリー乗り場に行く。約30分。フェリーは思ったよりも大きく、埠頭は夏休みの観光旅行客でごった返していた。フェリーも満員。船は7時35分にピレウス港を出発、途中シロス島、ティノス島に寄りながら13時にミコノス島に到着。

島を散策。翌日のディロス行きの準備。インターネットでメールの確認とブログの更新をしようと考えていたがホテルでも町のインターネットカフェでもラップトップの持ち込みでは交信できないことがわかり断念。

夕日から完全に暗くなるまで宿の屋上で過ごす。夕日はさすがに美しい。思った程、星は見えなかった。

ミコノス島はいわゆるギリシア観光の中心の島の一つらしい。それはいわゆるビーチ(ヌーディストビーチとホモセクシュアル?)、ナイトライフ(ディスコ?)に代表されるもので要するに遊ぶ為の島であるらしい。私たちには何の関係もないので、いかにも欧米からのリゾート顔した旅人の中、ああ来た時期が悪かったと思った。例のいやな予感。観光にはおそらくベストの時期なのだろうけど。

悪い予感は大抵あたる。ホテルの住人が夜中に騒ぎながら町に(多分)繰り出し、朝がたに戻り、その度に起されるのには閉口した。

なんて上品なものではなく、実は夜中にあまりにも頭に来てドアをあけて怒鳴ったのだった。ここ二三日あまり眠れてなかったのでよっぽど頭にきたのだ。(翌日は大事なディロス行きが控えているし)何と怒鳴ったか忘れたがもちろん日本語である。あなたは怒るとああいう言葉になるのねと妻は言っていたが。多分九州弁で怒鳴ったのだろう。

ミコノスの印象、最悪である。



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ピレウス港


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途中の島


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ミコノス島の宿のテラスから港を見る。


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教会


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風車。ここは風が強い。


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島にはギリシア正教の小さい教会が無数と言いたいくらいある。


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朝4時半にリエカの家を出て、5時20分発リュブリャナ行きの電車に乗る。8時にリュブリャナ駅到着。バスで飛行場に行き、12時45分初アテネ行きの飛行機に乗る。

時差が1時間減って東京との時差は6時間。

宿に荷物を置き、アテネの町を散策。

翌日の朝早くからから島巡りに出るので、アクロポリスなどアテネの町をゆっくり見るのは旅の後半になる。


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リュブリャナの空港にて。


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宿のテラスから見えるアクロポリス。奇妙に現実感がない。アングルもいまいちと思うのは気のせいかもしれない。


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町中から見上げるアクロポリス。やっぱり現実感少なし。


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国会議事堂前


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ライトアップしてること自体がうさんくさいような。


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旅の準備の大詰め。

年のせいだろうか。ローマの旅の疲れがなかなかとれず、やっと前日になって次の旅への緊張感がたかまる。

諸々、交信の必要にもかかわらず、またしても自宅でネットができなくなり、急遽カフェコントへ。

どたばたの一日。

ソボルさんに借りた本の複写。

翌日朝早いのでなるべくはやく寝たかったのだが寝付けず、結局2時間ほどの睡眠しかとれず。


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旅の準備。

7月後半の宿の手配など。

夜、サッカー「ドイツ対スペイン」観戦。

ちゃんとスペインが実力通り勝ててよかった。

本当は3対0くらいの差なのに1-0なんてドイツはしぶとい。

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終日旅の準備など。

やっと7月後半の旅程が決まる。

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