2008年4月アーカイブ

朝、マイーダさんから電話連絡。今日リエカ大学の図書館に彼女が電話をしてグラゴール文字に関した展示室を見れるかどうかを訪ねてくれたのだ。その結果OKが出て図書館に12時に向かう。

グラゴール文字は世界でも数少ない作った人間が特定できる文字である(例えばハングルと同様に)。860年前後にキュリロスとメトディオスという正教会の神父によって聖書をギリシア語からスラブ語に翻訳する為に作られた文字である。話せば長くなるがこの文字はキュリロスの弟子たちによって改良され現在ロシア等で使われているキリル(キリルはキュリロスがなまったもの)文字になった。その後正教会の勢力拡大によってグラゴール文字よりもキリル文字の方が広く使われ、グラゴール文字はカトリックのクロアチアの聖職者によってのみ近代まで用いられたのである。この文字はまずイスタンブールで生まれ、現在のクロアチアへ伝えられ、ブルガリアやマケドニアに広がったという。そのような意味でこの文字はクロアチア人にとっては特に重要なアイデンティティともなる文字なのである。その最も古い石に刻まれたテキストが私たちの今いる所から見えるアドリア海のクルック島で発見されたのである。

図書館の展示はかなり充実したもので歴史的経緯や変遷がよくわかるものであったが一般公開されてはいない。学芸員のアンナさんがつききりで説明しながら見せてくれた。彼女は「私は英語が得意じゃないので」としきりに謙遜するが逆に私たちには大変分かりやすい解説となりとても良かった。石に刻まれた文字は明日クルック島に行くのでまた改めて記する事になるが興味深かったのはまず、マニュスクリプト(手稿本)で、これは1617世紀過ぎまで続けられたという(一般書ではないので活版印刷の方がコストがかかるのだ)。とても美しく印象深いものであった。また活版印刷も行われたのだが最初のグラゴール文字の印刷物は1480年ころには作られている。この本がとても美しいので僕が「ヴェネチアの影響があるのですか?」というとアンナさんは目を輝かせて「そうなんです!グラゴール文字で印刷された最初の本はリエカではなくてヴェネチアで印刷されたものです」と答えた。アルド・マヌティウス、あるいはニコラ・ジャンセンを思わせもする大変シンプルかつ美しいタイポグラフィックな書物なのだ。ただアンナさんは私の質問に対しどこの工房で刷られたか、誰が活字を設計したかはわからないという。ただフランコ・パーリというビショップ(ルーテリアンと言っていたように聞こえたが...)がヴェネツィアから印刷技術とともにグラゴールタイプをリエカに持って来たらしい。とても興味深い話である。ではリエカにはその古い印刷所なりそれらのことを展示したような博物館はないのかと問うと、残念ながらよく分からないのだという答えであった。「何せ古い話だから」と。ただ一つだけ思い当たるミュゼがあるのでマイーダさんに探してもらえとその名前をメモしてもらった。まるで探偵みたいだが次の探索の糸口になるかもしれない。明日はクルック島の奥地まで行って石盤を見るつもりである。

その後昨日に続いて再度(正確には三度目)、旧市庁舎の美術館に行った。ドアは開いていたので中に入ると「まだやってない。明日だ」と言われた。美術館の前の大きな垂れ幕には28日からスタートと明記しているにもかかわらずである。ちょっと信じられない。縁がないのかも。

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マニュスクリプト

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この支持体はペルガモン。

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印刷楽譜

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活版印刷

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フランコ・パーリ像

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点は発掘、発見されたグラゴール文字の石盤、印刷物の場所。

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かなり危険な階段。悪夢に出てきそうだ。

朝、自然史博物館と美術館に向かう。自然史博物館は最初閉まっていると思えた。だって正面玄関は工事中のような有様だしドアも締まっている。あきらめてベンチに腰掛けて愕然としていた。智子は幼い娘連れの父親から何か聞かれ大胆にも「クローズ!」と言っている。その親子も納得したように去って行った。すると背後からへんな若者が物問いたげにやって来る。不気味だがとりあえず覚えたての「ドバルダン(こんにちは)」と言ってみる。よくわからないので彼に英語で「閉っているみたいですね」というと「いや、開いてますよ」という。なんのことかわからず「だってドア締まってるし、あそこ工事中だし」というと「いやこっちです。」といって裏口を案内する。変だなあ、こいつラリっているのかと不安に思いながらもついていくとそこが博物館の入り口で彼はれっきとした博物館のスタッフのようだった。(彼は窓から私たちの事を見ていたのだろうか?)結局彼に一人10クーナ(230円)の入場料を払い無事入る事ができた。入ったら入場者は私たちだけであったが、ちゃんと電気は点いていたし妙にインタラクティブな装置もちゃんと稼働していた。とても変な博物館だ。規模も小さく拍子抜けはしたがなんとなく、素朴というか、かわいいというか憎めない博物館である。だってエントランスに子供の夏休みの科学学習の宿題が飾られているのだもの。蝶を始めとする昆虫の展示は妙に凝っていた。新島さん好みだと思った。

そこを出て美術館に向かうがここは正真正銘の休みだった。日曜日が休みの美術館なんてちょっとないよなあと思いつつあきらめる(ヨーロッパでもたいていの美術館は月曜日が休みである)。しょうがないのでクロアチア最大のフェリー会社に行きタイムテーブルをもらい、バスセンターでバスの時刻表をメモし、マーケットで果物とパンを購入。小さなパン屋の若者が「あなたは何人」と聞くので日本人だと答えると僕は日本に行きたいと思っていると言った。日本の何に興味持ってるの?と聞くと「文化や歴史や全部だ。僕は本気で行く気なんだ」と言っていた。とりあえず「ナイスな考えだね」と答えておいた。

また今日はリエカあげてのマラソン大会の日のようであった。交通量が極端に平日より少ない。急に暑くなったせいか救急車みたいなのに運ばれたり、テントで倒れたりしている人が多かった。クロアチア人は何となく体格からいってマラソンには向いてないように思う。大きなお世話だけど。街の中心ではマラソン参加者や関係者のために大きな鍋で作ったラザニアを振る舞っていた。ラザニアを作っている人がちゃんとしたコック帽をかぶっているだけでおいしそうに見えました。

その後定番になりつつある美しい栗の木の並木のあるホテル・コンチネンタルのネットカフェで昼食と調べものとトルコ行きのホテルの予約等をする。パスタとピザとビール。バスで帰宅。その後読書等。夜テレビではジャッキー・チェンをやっていた。

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自然史博物館正面。右手が正面玄関と思われる。

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どう見ても裏口。

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この日はソボルさんがオパティアを案内してくれる日である。午前中自宅テラスで絵を描いた。

お昼前にソボル、マイーダのカップルが車で迎えに来てくれる。オパティアはクロアチア有数のリゾートである。リエカから車で30分位。他の観光地、ドブロブニクなどと異なるのは歴史上オーストリアのリゾート地であったということだ。もともとはあるイタリア人が瀟酒なヴィラを妻のために海岸沿いに作ったことに端を発しているが100年以上前にオーストリアの王族、つまりハプスブルグ家の人々が避冬地としてここにヴィラを作り、リエカの貴族もそれに続いて、現在ではヨーロッパ有数のリゾートになったのだ。地中海的というよりもウイーン的らしい。海岸沿いに遊歩道がある。ここへの観光客はこれまではドイツ人、イタリア人、オーストリア人、ハンガリー人が多かったが最近はイギリス人とフランス人が多くなったとはソボルさんの解説。またもっと近年にはリッチなロシア人が滞在ではなくヴィラごと買い取っているという話である。もう少ししたら中国人がやってくるかも。

ソボルさんに観光客値段ではない安くておいしいレストランを教えてもらう。(まだオープンしていなかった)夏にでも改めてきてみようと思う。

気持ちの良いテラスでお茶をする。智子はクロアチアの有名なプリンが食べたいと言っていたがマイーダさんにここはウイーン的なところなのでそれはないのだと教えられる。でフルーツケイキにしたのだがこれは大変おいしく、しかもとてもリーズナブルで驚いた。

マイーダさんは美術書の翻訳や編集の仕事をしていて出版に関してはソボルさんと共同していることなどを知る。マイーダさんの知り合いでザグレブ美術館のキュレーターを紹介してもらうことになった。ソボルさんもマイーダさんも当然、美術やデザインに詳しく話が早いのは幸運である。僕の編集したリシツキーの本も見せたのだが、そこからおもしろい話がいろいろ聞けた。(ソボルさんはロシア語が読めるので話が早い)

そのひとつにあなたはダヌンツィオを知ってるか?というのがあった。「いや名前ぐらいなら知ってるけど良く知らない」と答えるとダヌンツィオはイタリア3大詩人の一人であるという。ダンテ、ペトラルカ、ダヌンツィオ、なのだと。で、かれは1919年から1920年、第一次大戦後の混乱の中ここリエカを統治した詩人であり、その時ヨーロッパ中のダダイストや未来派、アナーキストがここに集まっていたのだという話になった。ここリエカは第一次大戦前まではイタリアが占領しており(ソボルさんの母親はイタリア人であるがそれは占領下のリエカに生まれたからだ)、サラエボ事件以降の政治的真空状況の中、イタリアを背負って勝手にリエカを統治したのが文学者であるダヌンツィオだったらしい(イタリア政府は他国に遠慮してダヌンツィオを無視しようとしたが)。彼は日本ではムッソリーニや、何よりもあのマリネッティに影響を与えたファシズム的文学者として知られているし、日本ではさほど重要視もされていないかもしれないがとても興味深い人物であるようだ。当時のイタリアの国境線が私たちの今いるリエチナ河なのである。

ダヌンツイオはその短い統治期間(約2年間)、国家の最高規範は音楽にあるとして、かなり非政治的、文学的な統治を行ったようである。ソボルさんによればそれはクレージーでアナーキーだったが興味深く、ある意味では芸術的な時代だったのだ。

自宅に戻りネットで調べると、彼はドビュッシーとともに作った「聖セバスチャンの殉教」などで三嶋由紀夫に大きな影響を与えたことは周知の事実であったことがわかった。さらに夏目漱石の「それから」の執筆にも影響を与えたらしい。

初日にリエカの街巡りをした時にみた旧市庁舎のバルコニーでダヌンツィオは花火を打ち上げ、ファシズム的で未来派的な詩を朗読し、演説していたのである。(三嶋の市ヶ谷での演説はその模倣であったという説もあるそうな)

私たちの今いるリエカはそのような街だったのか。これもまたあらためてその著作を読まねばならないと思う。私の受けた印象ではその後のムッソリーニやヒトラーのファシズムとダヌンツィオのそれとは根本的に一線を画しているように思えるのだが。多分彼は19世紀的な人ではなかったかと。

ちなみにダヌンツィオは空軍にいた時に片目を失明している。

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元イスラム寺院であった教会

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午前中は掃除や次の旅程の検討や読書など。

市場が13時に閉まるのでそれにあわせて12時に家を出て市場で買い物。デパート等ものぞいてみる。何となく共産主義時代のあか抜けなさというのがただよっている感じがするのは気のせいだろうか?

その後ホテル・コンチネンタルのネットカフェにてブログの更新を行い、東京の息子とスカイプのチャットを使った交信を初めて行う。こちらは昼の3時だが向こうは夜の10時である。何とか無事に交信できた。息子(次男)は17才にして自宅で一人暮らしのはめになっているが何とか元気にやってくれているようで安心する。(ちなみに長男はすでに京都で一人暮らし2年目なので大丈夫のはずである)チャットというのをまともにやったのはこれが初めてだ。

以前にも記したがネットはプリペイドカード方式でやっているのだが、ブログの写真が多すぎるのかどうか不明だが、一回の更新で2000円近くかかってしまうのだ。いつでもどこでもやれる分便利であるが。しかしプリペイド分が無くなるたびにカードを購入せねばならない。それを気にしつつネットを使うというのもなかなか不便かつ不経済なのである。そこでリエカ滞在中のメールの更新や必要な情報摂取はプリペイド送信機で行い、このブログの更新は2〜3日に一度、街のネットカフェで行う事にした。

今回旅をして(市場などに行って)感じる事、今までの自分とは異なるなと思う点はまず、バス代とかほうれん草やパンや魚の値段とか諸々のお金のことに少し敏感になったことだ。東京にいると日常の買い物はしないし、何がいくらでそれが高いのか安いのかあまり考えもせずに生活して来たのだ。旅の中でそういったことを感じながら日々を送る事も今は大事なことのような気がしている。

そもそも私はこれまで日記を3日以上続けた事が無いにもかかわらず(自慢するつもりはないが)このブログ自体、すでにここまで続いている事自体驚くべき事である。(これも自慢するつもりはないが)でせっかくだからこのまま続く限り同じペースで続けてみたいと思っている。

なので、これを読んでる方でもし叱咤あるいは激励?したい方は直接メールで下さい。よろしくお願いします。

terayama@ka2.so-net.ne.jp

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市場

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晴れる。

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朝、まるでエッシャーの絵のような階段発見!

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家から歩いて56分のところにあるトルサット城。昨日に続き再訪。

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城の窓から見下ろすリエチナ河。高所恐怖症の僕はこれでもかなりきつい。

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城廃墟部分。向こうにはローマ式の水道跡が見える。

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地元の小学生達。丘や山のある街に住んでいる子供の特権は自分の住んでいる場所を見下ろすことができることだ。自分も学生の時、小倉から東京に引っ越して来て東京にそのような場所がないことを寂しく感じたことを思い出した。ここの子供達は「コンニチワ」というと元気よく「コンニチハ」と返事をする。日本語を教えているのだろうか?そんな馬鹿な。引率の先生も「コンニチハ」といいながらあなた達中国人?と聞いて来た。?。

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今日はエッシャー階段の日なのかも

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中庭はカフェ

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城の中心の内部は発掘の歴史を示すギャラリーになっていた

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城のすぐ下には聖ジョルジュ教会

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聖ジョルジュ教会を抜けると向かいにはトルサット聖母教会が見える。いつも部屋からここの鐘の音が聞こえるが、ここはカトリックの巡礼地としてとても有名なことを今更知る。亡くなったヨハネ・パウロも訪れた事を記念する像が中庭にある。そして私たちが初日に降りた長い階段はこの教会に行く為に、巡礼者が跪きながら昇る事で有名なペタル・クジッチの階段というのであった。

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この日はバスで街の西のはずれまで行ってみた。向こうの海岸に見えるのは有名な保養地オパティアである。



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朝は晴れていたが途中から雨模様になった。昨日も天候はぐずついていた。気候は日本に近いと思う。少し温度が低いくらいだろうか。

なんとこの日もカメラのバッテリーをまちがえて写真がとれなかった。この日は家の近くにある。城や教会に行った。だんだん自分のいる場所の事が分かって来た。散策以外は次の旅の計画や資料集め、読書をして過ごしている。

泥縄だがクロアチアの事を改めて調べながら同時に次の大きな旅になるトルコのルートをどうするかで悩んでいるところ。テレビは映るがほとんど見ない。

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私たちの住んでいる場所はリエカの港からすぐに切り立った丘の上にある。見晴らしはすこぶる良い。刻々と変化するアドリア海とその向こうに見える山陰はクロアチアで最大の島クルク島である。そのうち探索するつもりだ。しかしまずは足下を固めねばならない。丘にあるということは眺めが良い分、街に行き来する為に坂を昇り降りせねばならずその点大変である。こんな坂の上にあるとは知らなかったので正直びびる。ここにいる間に足腰は鍛えられそうである。坂道は何本かあり、また長い階段もある。またバスが頻繁に走ってもいる。途中にカフェやレストランが何件かあり、ジェラート屋さんもある。わりとおしゃれな場所である。しかし私たちの滞在している場所トルサットがリエカの中でもスペシャルな場所であることにこの時は全く気づいていなかった。

ちなみにリエカという名はかつてローマ人がここに街を造った時、大きな川が流れていた(リエチナ河)のでラテン語の河という意味で名付けたそうである。この日は街を散策、とくに大きな市場に行って買い物をした。カメラの電源が途中で切れて写真はあまり撮れなかった。

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カフェ

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かなり急な坂道

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坂道の途中風景。向こうの丘との間が谷になっていて河が流れている。

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長く続く階段

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階段の終点。ここから街の中心へはすぐである。この階段が有名なペタル・クルジッチの階段だという。この時しらなかった。(後述)

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リエチナ河から丘を見上げる。あの丘のてっぺんあたりに私たちの住居がある。

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市のアルヒーフ。落書きが多く痛々しい。

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自然史博物館。中には入らず。

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現代美術館。ここでカメラのバッテリーが切れる。

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9時にソボルさんが迎えに来てくれる。彼の車でダリンカさんとともに市の警察署へ。ここで滞在許可証をもらう為だ。幸いな事にソボルさんの親戚(女性)が警察に勤めておりそのコネでわずか1時間程で許可証が出た。もしまともなコネも無く私だけで申請したらどれくらいかかるかわからない。ソボルさんとソボルさんを紹介して下さった田中さんに改めて感謝。

その後街のカフェでソボルさんの妻マイーダさんと待ち合わせ。マイーダさんは風邪をひいて前日まで寝込んでいたという。エスプレッソを飲んだ後、ソボルさんに街を一通り案内してもらう。

一旦家に帰り昼食をとった後、再び街に戻りネットをつなぐ為の相談をする。結局自宅にラインを敷くのはあまり合理的ではないという判断をし、ボーダホンの送信機を購入しプリペイド式でやってみることにする。うまく作動するまでにマックのOSの事や何かで結構時間をとられる。またクロアチアにいる間はソボルさんの旧式の携帯を貸してもらいそれもプリペイドで使用する事とする。

この日は歩いて20分くらいの所にあるスーパーに買い物に行く。坂があるので結構きつい。

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ソボルさん マイーダさん ダリンカさん

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これまでも国が変われば勝手も異なり、その空気に慣れるのに時間がかかった。今度は国も変わったがそれ以上に生活のパターンが異なるのだ。ホテル暮らしから日常生活へ移行し、ここで生活の基盤を作らねばならない。要するにモードが変わるのだが当然ながら頭と感覚はついていけず、少しぼんやりして第一日目がスタートする。無理をせず少しずつ慣れていくつもりだ。

ソボルさんがお昼に訪ねて来てくれてダリンガさんとともに私たちの生活が上手く行くように世話をしてくれる。一緒にショッピングセンターに行って生活用品の購入や、地図で街の概要、インターネットのアクセスをどうするか、携帯電話をどうするか、安全な銀行でのお金のおろし方。etc。洗濯機やお風呂の使い方、鍵についてなど細かい事は山ほどあるものだ。

ソボルさんについてはまたおいおい記していくことになると思うが、彼は英語専門の翻訳家であり、出版社を経営している。つまり自分の翻訳した本を自分の会社で出版している。専門は仏教書である。彼は母国語以外に英語とイタリア語とロシア語に堪能で日本語も単語は良く知っている。例えば英語ではblessというクロアチア語を説明してくれた時に(god bless you等)、「日本語ではカジといいますね」と言われ一瞬何の事かわからなかった。「ああ加持祈祷の加持のことですか。」佛教語には詳しいのだ。インドの梵字はほとんど読めると言っていた。

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テラス。向こうにはアドリア海が見える。

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 キッチン

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ディエゴ・法海・ソボルさん。

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近所

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近所。森の向こうがリエカのセンターで港。

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海の向こうに見えるのはKRK島
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これまで不条理なまでに馬鹿高い外食とホテルのブレックファストに辟易していたのだが3週間ぶりに自分たちで好きなように料理を作る喜びを味わう。日本から送っておいた味噌で作ったみそ汁には思わず「ウメエ!」と声が出た。僕はまずトマトソースを作った。これは日本と全く同じレシピで作ったのだが最高においしくできた。トマト自体がおいしいのか、タマネギのせいかはわからない。野菜は日本のものよりもはっきり言っておいしい。味がしっかりしているのだ。

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いよいよ、今日はアイルランドに別れを告げクロアチアへの移動日である。

朝ホテルでチェックアウト。受付で支払いは日本円かユーロかと聞かれ、とっさによくわからないまま日本円にしたが、(クレジットカードなのだが)これは間違いであった。日本円にするとホテルのレートが上乗せされるらしい。旅をしているとこんなことにも、不条理感があり、神経質にならざるを得ない。(このホテルはこれまで泊まった中ではベストであったが)

バスで空港へ。早めに着いたので空港で軽い食事。そしてチェックインカウンターで搭乗券を発行してもらったのだが、(ルフトハンザは)機内に持ち込むつもりの手荷物の重量をしっかりチェックされ、あなた達の荷物はそれぞれ12キロと11キロ、規定は8キロで34キロオーバーしているから機内に持ち込めないとケンモホロロにいわれる。成田でもヒースローでもそんなことは全くなかったのだが(ここらへんがドイツ的というべきか)。この時点で今回の移動における「何となくいやな予感」が発生する。やむなく荷物を預ける。そしてボディチェックをした後、飛行機がすでに30分遅れている事を知ったのだった。

ダブリンからクロアチアのザグレブへは直通便がなく、今回ルフトハンザでフランクフルトまで行き、クロアチア航空に乗り換えてザグレブまで向かう予定である。その乗り換えの為の空き時間は1時間弱しかなかったのだ。このことは実は前日から何となくいやな予感とともに気になっており、頭の中で合理的な乗り換えの仕方をスチュワーデスに聞くための英語をうっすら考えてはいた。フランクフルトは国際的なハブ空港なので広いはずでどのように乗り換えればよいのか見当がつかなかったのだ。(いやな予感は大抵当たるものだ)

結局、飛行機は1時間遅れてダブリンを出発。早速機内でスチュワードにどうすれば良いのか質問したが1時間後じゃないとわからないという。そのスチュワードはその後何のサジェスチョンもくれなかった。機長がアナウンスで遅れているが頑張ってショートカットしているので各方面への乗り換えは大丈夫だ...のようなことを言っているように聞こえる(が、ここらへんが情けないくらいにちゃんと聞き取れないというか確信が持てない)。飛行機はクロアチア航空便が出発する5分前に到着、あわてて空港内をどたばた走って移動するも結局乗り継ぎに間に合わなかった。多分タッチの差くらいであったはず。ここらへんの諸々のドラマは省略。

最終的にはあきらめてルフトハンザのカウンターに相談に行くと、「あなたは正当な理由があるので次の便に乗れる、ついてはあそこにある別のカウンターに行き券を発行してもらえ」といわれる。で、そこに行くと今度は「あんた達が遅れたのではないか」みたいなことをいわれ、ケンモホロロの対応をされる。こっちも疲れている上、かなり頭に来ていたので思わず強い口調で1時間もルフトハンザが遅れたせいじゃないか主張すると、やっと再発行してくれることになる。やれやれ。

しかしここでまたもやアクシデント発生。僕の航空券が行方不明になったのだ(搭乗券はあったのだが)。そしたら「一旦イミグレーションを出てANAのカウンターで航空券を再発行してもらえ。そうじゃないと券は発行しない」という。実際搭乗券その他で私たちが航空券を持っていた事は明らかであるにもかかわらずだ。しかもこの時点で夕方の4時半過ぎである。このままフランクフルトで一夜を明かすのか?はたして私たちはクロアチアに行き着けるのかと暗雲は広がるばかり。しかしなんと妻のバッグのポケットに航空券がみつかり無事、次のチケットをもらえることになる。

しかし次の便は5時間後の945分である。ザグレブの空港に迎えに来ているはずのソボルさんに連絡をとらねばならず、これも大変な作業であった。その後やむを得ず空港のレストランで夕食をとることに。ピザ1枚とシーザーサラダ一皿、生ビール3杯で約6500円。(これにチップをプラス4ユーロ、約650円)日本で150円の水エビアンが600円!であった。空港値段なのかもしれないがドイツもイギリスと同様物価が相当高そうである。ちなみに空港内にあるマクドナルドを見てみるとビッグマックバリューセット(ビッグマックとポテトとコーヒー)が6.5ユーロの1050円、これが相当割安に感じられるのだから他は推してはかるべしだ。

その便も出発が遅れ、結局ザグレブ空港に到着したのは11時半(当初の予定では夕方5時)。預けた荷物は無事に到着していた。今日一日の災難の中ではこれだけでも幸運と思うべきだろう。迎えに来てくれたソボルさんの友人ダミールさんは空港で6時間以上待っていてくれたことになる。そこから高速に乗ってリエカまで約200キロ、2時間弱。満月の夜、ダミールさんお勧めの音楽(カンツォーネとゴスペルを混ぜたようなクロアチアのトラディショナルフォーク)を聴きながらドライブ。ダミールさんは歌をうたいながらかなり飛ばす。(後で分かったことだがクロアチアの人は皆飛ばす。モナコのアイルトンセナのようだ)結局我々のこれから滞在する家に到着したのは夜中の2時前であった。ソボルさんと私たちが借りる事になるフラットの大家(ソボルさんの義母)ダリンカさんも起きて待っていてくれた。ルフトハンザのせいだが各方面に迷惑をかけ恐縮することしきり。とにかく簡単な挨拶と簡単な部屋の使い方を教えてもらい就寝は3時過ぎであった。

まあそれなりに大変なクロアチア上陸であった。時差は1時間減って7時間となる。

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ザグレブ空港

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とにかく到着。真っ暗なので街や周辺の様子などは全く分からず。東京からの荷物は無事に着いていました。

タラの丘とニューグレンジ

タラの丘は映画、小説とも有名な「風とともに去りぬ」に出てくるスカーレット・オハラの「タラの丘へ」という台詞で有名らしい。僕はこの映画を見た事もないし、小説も読んでない。妻は小説は二度読み映画は何度も見てるという。へーえ、そうだったのか。

ニューグレンジにある大古墳は約5000年前のもの。ここでもアイルランドの烈風吹きまくる。日本でいえば奈良の古墳群が想起されるがそれよりもはるかに古い。また世界遺産でもあるが、ちゃんと古墳中部まで入れるようになっている所が日本と異なる。奈良の古墳の中なんて誰も見たことないのではないか。宮内庁管轄のせいだろうか?

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何やら新興宗教の集団のような人々が中心を取り囲み中々近寄れず。一人一人何か唱えていた、女性集団であった。
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コートのはためき加減で烈風の凄さがわかるでしょうか?
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紀元前200年頃アイルランドに追いつめられてきたケルトの故郷
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ニューグレンジの全体模型。
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ニューグレンジ側を流れるボイン河。ここはクロムウエル率いるイングランドとアイルランドとの古戦場。以降イングランドからアイルランドは悲惨な仕打ちを受け続ける始まりとなった場所でもある。
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ニューグレンジ
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アイルランドはどこまで行っても石と風の国なのである。
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紀元前3000年以上前にこのような構築物が出来ていたとは!とても美しい。
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何と凄い造形か!
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入り口。内部は当然撮影は許されなかった。

この日は朝から肌寒い曇り空である。今日はダブリン市内で見るべきものを見る予定である。

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まずオコンネルストリートに面した中央郵便局。ここは1916年のイースター蜂起の時共和国宣言が読み上げられた場所として有名だ。蜂起は鎮圧され建物も破壊され1926年の修復される。。建築は1814年で堂々たる柱廊玄関であるが(昨日の写真参照)内装はアールデコ様式。
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銀行内にある英雄ク・ホリンの像
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アイルランド銀行(1729)。中には入れず。

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ついにこの場所へ。
なんだかんだ言っても僕がアイルランドに行かねばと思った最も中心的な場所がここトリニティ・カレッジである。ここのライブラリーを見る事であり、ケルズの書を見る事である。最大のお楽しみは後半にとっておいたのだ。
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旧図書館の主要閲覧室(ロングルーム)長さ65メートル、約20万冊。
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図書館の外観
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ケルズの書。もちろん撮影など厳禁なのでこれはイメージです。
噂では大学にあるレプリカと同じものが展示されているとも聞いていたので(まさか!)少し心配だったがしっかり本物が2冊(マニュスクリプトなので2ヴァージョン)見る事ができた。
展示の仕方もかなり凝っており、かつ僕としては初めて見る同時代の他のマニュスクリプト、「the book of armagh」「the garland of howth」「the book of mulling」などが見れたのが嬉しかった。またオガム文字ogham scriptの説明も丁寧になされていた。また使われた顔料もすべてわかったのでメモをとった。これらはどの図録にも載って無い。それが残念である。
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オガム文字について(これは国立考古学博物館の説明のメモ)
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まるで鞄のような書物。まわりは牛革で覆われている。こういう形は初めて見るものだ。
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図書館向かいの校舎(指が写ってしまった)
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カッレッジの学食で昼食をとることに。学生は世界中似たようなものだと思う。東京の大学の学生達をふと思い出す。
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次に向かったのはアイルランド国立美術館。ベンソン&フォーサイスの設計。
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最初、順路順に見ていったのだがあるエリアの水準があまりにも低くがっかりしかけたころ、後半になってフェルメール、カラヴァッジオ、ボッシュ、クラナッハ、グレコ、ウッチェロ、リッピ、フラアンジェリコ、ブリューゲル、べラスケス等等、傑作が連発される。作品を絞って半分にすればよいのにと思うのは大きなお世話か。傑作が傑作である事を分からせる為に前半部分があったりして。
カラヴァッジオ、フェルメールの画面から立ち去りがたく。
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美術館のそばに大統領の執務室があるらしく、近所では政治集会のようなものが開かれ、人が続々と集まっていた。
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途中、国税庁の税金博物館に寄る。日本にもあるのだろうか。
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チェスター・ビーティー・ライブラリーのエントランス。
ここは始めは予定していなかったのだが、直感のようなものに惹き付けられて訪れる。これがアタリ!だった。チェスター・ビーティーはアイルランドに生まれ、イギリスを経てアメリカに渡り財産を築いた男らしい(そのようなビデオが流れていた)。ここは彼が個人で集めたものを寄付してできた美術館である。蔵書がどれもこれも半端無く素晴らしい。ヨーロッパのマニュスクリプトも凄いが美しいコーラン、インドの書物、中国や日本の書物などを大量に収蔵しているらしい。展示スペースはさほど大きくない。またパピルスも大量にあり、現存する最古のパピルスの聖書の断片には驚いた。
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外観
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驚く程美しいコーランの数々。(撮影は不可なのでイメージです)
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ただ大変残念な事は先月までやっていた伊勢物語展が終わっていて見れなかったこと。ショップにいた日本人スタッフの方が教えてくれる。伊勢物語なんて日本でもちゃんと見れないのではないか。
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最後に向かったのは国立装飾美術・歴史博物館。あっと言う間に夕方です。
これは元兵舎をミュージアムにしたもの。
戦争の歴史展をやっていたが特筆すべきものはあまりない。
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帰路、チムニー(元ウイスキー蒸留所の煙突を利用した展望台)を見ながら

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ジェイムソン蒸留所博物館も時間切れで外観を見るだけに。
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この日は6時間かけてダブリンへバスで移動。
ダブリンに到着したのは4時過ぎで宿に荷物を置き翌々日のツアーの予約をしたあと、時間があったので街を散策(なにしろ9時近くまで明るいのだから1日が長い)。
最後はパブでアイルランドフォークのライブを聞いた。いつものギネスを飲みながら。聞きながらアメリカのカントリー、フォークのルーツの一つがアイルランド音楽であることに思い当たる。
カントリー・ミュージックはあくまでもアメリカだという思い込みがあった。
ライブを聴いていて昔父親が好きで、よく日曜映画劇場で一緒にみたジョン・フォードやハワード・ホークスの映画の挿入曲がアイルランド・フォークそっくりであることにふと気づいたからだ。
ジョン・フォードはアイルランドの人である。ゲイリー・クーパーもそうではないのか?
そういえばジョン・フォードも片目の人であった。

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キラーニーの宿。ネットも使えず、街からは遠く結構往生した。17世紀の城という言葉にだまされた。おかげでそばに一件だけあるレストランに3日通うはめに。それもまた旅の記憶か。

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ダブリン到着。中央郵便局。
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アイルランド独立の闘士、オコンネル像。
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U2のボノが経営するというクラレンス・ホテル。(ちょっとミーハーですいません。)
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テンプルバー周辺。
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クライスト・チャーチ大聖堂
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聖パトリック大聖堂。工事中で中には入れず。
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イギリス支配の象徴。ダブリン城。
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テンプルバー地区のパブにて。
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女性も思わず踊りだし...。
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8時過ぎ。
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再びオコンネルストリートへ。今回の宿は街の中心部にある。

彫刻家の鈴木さんから良い場所だと推薦してもらったところ。
この半島の雄大さは全く掛け値なしに凄い。日本で言えば阿蘇山周辺に匹敵すると思う(比喩がおかしくてすいません)私たちが訪れた時が好天であったせいかもしれないが、大変おだやかで美しい半島である。空気感があまりにも広大、地球に立っている感覚がある。ギブソンのいう光の肌理とでもいうものを感じる。
ここもゲール語の拠点であり、沢山の神話や伝説が残されているところ。最初の目的は「ダンベックの砦」これは紀元前800年から10世紀まで住居として使われていたもの。もうひとつは7〜8世紀に造られた石の礼拝堂「ガララス礼拝堂」である。船をひっくり返したといわれるこの素朴な建築物だが私たちはこれが見たくてここまで来たと行っても良い。
そして想像通りの美しいフォルムであった。

ディングルは交通の便が悪くレンタカーを利用するかツアーに参加するしかない。 

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ディングル湾に沿って走る
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ディングルの港
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ダンベックの砦
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ガララス礼拝堂
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このカーブが
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ブレーキの壊れた自転車でひたすらサイクリング。
ここはアラン諸島に比べれば天国と地獄のような差である。穏やかな風が流れている。

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ロス城
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とはいえこの樹木の曲がりくねり方(セガンティーニ風)とか森の樹木の高さを比べればその風土の厳しさが自ずと感じられる。

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青銅器時代の住居跡
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どのような環境ならばこのような変形が起こるのだろうか。
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旅先で宿を決めながら移動するのは大変疲れるし、博打的な要素が多分にある。
当たり外れが今の所大変激しいです。
おかげであせって慣れない英語で電話で予約したりするはめになる。旅の最初を英語圏にすべしというのは正しいと思います。サバイバルな状況になると英語は出てきます。多分フランス語やドイツ語はどう転がっても出てこないだろうから。
宿だけじゃない。コインランドリー(約25年ぶりに使用す)のやり方も場所によって異なるし、食事やビールの注文、ツアーの予約、などなど。

ここから先は出発前にあらかじめ旅程を決めていなかったので迷いながら進む事になる。
キラーニーまでは約5時間の移動。
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ちょっと神経症的な(アイリッシュな)いい感じの運転手。
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リムリック

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あまりにもアラン島の印象が強烈だったせいと、多分疲れているせいでゴールウエイでは博物館などを訪れる気がおこらず。街でやっとのことインターネットができる場所を探してメールを確認したりした。

ここでも夜の8時半ころにやっと日が暮れる。海のそばの宿に滞在している。長く続くサンセットは大変美しい。

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アラン島の朝。昨日がうそのように風のない穏やかな朝。

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まるでモネのような。

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うまく言葉にも写真にも現せそうにない。

ストーンヘンジの時もそうだったが巨岩がどうのというよりも、周りの広大な空間と、吹き渡る強烈な風、その目も開けていられないような寒風こそがむしろ強い印象を残したように、さらにここアラン諸島の中の最大の島イニシュモアはもっと強烈なインパクトがあった。簡単にその印象を言葉にできそうにない。
とにかくここにもストーンヘンジとは又別の風が吹きまくり、雨と雹と太陽の光がめまぐるしく交替する。
そして暴力的なまでに岩だらけの大地、3000年近く前から断崖に造られた、塔や壁。皮膚にダイレクトに伝わってくる環境の苛烈さは本当に強烈で写真ではその感覚はうまく伝わりそうにない。ここは一見の価値ありと思った。楽しいとか美しいとかいうのとはまたかなり異なっていて、翌日フェリーでゴールウエイにたどり着いた時は風がなくてほっとしたくらいだけれども、とにかく心に残る環境であった。観光客は多いがその凄さに対してあまり観光地化もされていないように感じた。
烈風のなか坂道を必死で自転車こぎまくったので50才の身にはこたえた。ひざががくがくである。

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ゴールウエイの早朝。太陽は明るい。
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フェリーへ向かうバス。もう雹まじりの雨に変化。
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イニシュモア上陸。朽ちた教会の出迎え。
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この向こうは垂直の断崖だが高所恐怖症の僕はこれ以上近づくことはできない。もちろん下を覗く等はもってのほかである。
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重森三玲はこの風景の事を知っていたのだろうか?
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雨の後に虹が
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かなり完璧なシンメトリーの虹が



展覧会を見ながらふと西脇順三郎のことを思い出した。10代の終わりから20歳代の始めころ西脇の詩に入れあげた時期があったことを思い出したのだ。確か西脇はイエーツの研究を行っていたか、あるいは影響を受けたのではなかったか。イエーツとパウンドとエリオットがほぼ同時代の詩人だったはず。確かな事はもううろ覚えだけれども、思い出したのはそのせいだ。そしてイエーツから何故西脇なのかといえば、今回の長旅の予定の中、一ヶ月以上もギリシアに時間を割いているのは少なからず、30年前の西脇の詩の影響があるように今、ここにいたって思い当たる節があるからだ。ギリシアの神話的古代と現在の侘びた日本の田舎との時空の不思議な交感のようなものを自分は西脇の詩から感じ、大学に入学したての自分は下宿している近所の田舎の木立の中を自転車で走りながらギリシアと自分にとっての神話的原風景である故郷での幼い記憶を重ねつつ西脇のまねをして彷徨ってみたのだった。

永遠の旅人かへらず

(だったか?すいません。これを書いているのはだいたいギネスを飲んだ後か飲みながらなので、いい加減なところがあっても適当に聞き流して下さい)

例えば45歳のころ子供達だけで親に内緒で食べた野いちごの味や、大人のいない切り崩された石灰の真っ白の広大な地面の上、雨の後にできた水たまりを泳ぎ回る無数のオタマジャクシの群れ、その上に映る刻々と変化する夕暮れの空の色などを。

この時、年齢的には幼いはずなのに過ぎていく時間への恐怖を感じた事はしっかり今でも覚えている。

イエーツはアイルランド独立のただ中でゲール語の復興運動を行っていたという。彼も左目を失明している。彼のテキストを改めて読み直してみたいと思った。

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古本屋で12ユーロ。やっぱり少し高い感じはありますね。

まあ、英会話の本を読むより面白いかと...。

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ダブリン、宿泊地そばの公園
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アイルランド国立考古学博物館

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ここは写真が撮れなかった。

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ここは博物館の向かいにある国立図書館内部

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W.B.イエーツに関する大変熱のこもった展覧会が行われていた。
思うところあり。

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イエーツの全テキストの相互関係を示したダイヤグラム

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イエーツの使っていた机(とても小さい)

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バスステーション

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ゴールウエイ



イギリス覚え書き

そもそもこの旅の最初の訪問先にイギリスを選んだのは大英博物館を訪れる為であった。これから行く事になる中東とヨーロッパ全体の場所と時間、文明の見取り図というか大枠をざっくりと俯瞰したく、その為には大英博物館しかなかろうと思ったわけだ。ここを訪れるのは25年前、10年前に続いて三度目となった。今回三日間、時差ぼけをものともせず頑張って通ったが、やっぱりこれまでと似たようなもので「ただざっと見ただけに過ぎないなあ」という印象が残った。本当はもっと長期間じっくり腰を落ち着けて見るべきなのだろう。ただ以前に比べてこちらの知識も増している分、以前より少しはクリアに見えてきたような気もする。

今回、特に印象深かったのは展示物をあちこち移動して見ながら、自分がまるでブラウジングしているような感覚を強く持ったことだ。インターネットにおけるブラウジングと似た感覚である。例えばエジプトエリアを見てギリシアエリアを見た後再びエジプトエリアに戻ったうえで、シリアエリアと比較するなどといった作業だ。パソコンと異なるのは目の前に解像度100%の現物があることと、クリックの代わりにこちらが生身の身体を移動させているということだ。しかし頭で起こっていることは、何と言えばいいか分からないが対象物をインデックス化しているというか、感覚的にはいったんリファランスの状態に持っていっていることは間違いがなく、その点でネット上とさほど差はない。当たり前のことだが現物が本来有るべき場所にあったはずのリアリティはかなり失われている。だからこそ(無駄なことも多分、多いだろうが)この後の私の旅は現地を可能な限りたどっていくことが逆に重要なポイントとなる。(実際、出発前には何人かの人から君の旅は博物館に行けば事足りるのでわざわざ現地に行くのは無駄が多すぎるのではないかと指摘はされた。もちろん僕はそうは思ってないのだが。)

昨年企画したノイラート展と無理に結びつけるつもりはないし、ノイラートやオトレ、ディドロを改めて持ち出すまでもないかもしれないが百科全書とmuseumの登場は必然的に同じものであり、またそれが今日のネットワークの元になったのだと今回大英博物館で改めて強く感じた次第。

今回望外に嬉しかったことが後二つある。ひとつは大英図書館のリーディングルームのパスがもらえたことである。これは一生使えるのだ。その為に今回は二度通うはめになったのだが、二度目に持っていった所属大学の学長名の「こいつの面倒宜しく頼む」的な書類の効き目があったのか、とてもスムーズにもらうことができた。今回は時間が無くそれを有効には使えなかったが(リーディングルームに入っただけでは無意味で、館内に置いてある膨大なリファレンスを使いこなさなければここは意味をなさないところなのだ)今度改めてじっくり準備をして来る事にしたい。ここにあるほとんどの貴重書が直に手に取って自由に見れるなんて信じられない。はっきりいってこんなに嬉しい事はない。世界の財宝を手にした気分だ。始めは厚かましいと思って図書館の特別展示だけ見て帰ろうと思ったのだが妻がだめ元でもパスのこと聞いてみたらと言ったのだった。本の神様が計らってくれたものと信じている。生きている間にこれから何度ここを訪れることができるか分からないが人生の楽しみが増えました。

今回、ロンドンで卒業生の田中(通称ユミッペ)さんに会えたことも嬉しいことの一つだった。彼女はほぼ10年前のゼミの卒業生。私のゼミの二代目の卒業生である。卒業後出版編集の会社に勤務し、その後修士であるロンドンのRCA(ロイヤルカレッジオブアート)のインタラクションデザインコースを優秀な成績で修了、フリーで活躍の後、この5月から北欧に拠点のある某有名企業のシニアディレクターとして働き始めるという。今回話をして大変しっかりしているのを見て感慨無量なものがあった。年をとったせいか私にとっての10年と若い彼女にとっての10年はこうも違うものかという思いもあった。彼女がインターナショナルな仕事環境でデザイナーとして勝負するのはこれからであるが是非頑張ってほしいと思う。今度母校に来て若い学生達に話をしてねと頼んでおいた。それで思ったのはこの旅の直前に送別で来てくれた6年前の卒業生、西沢君はソニーのインタラクション部門、北崎さんはゼロックスのアドバンスデザイン部門でバリバリ活躍している。ユミッペも含めてライティングスペース魂?をもった卒業生が活躍し、それが世界のデザインを変えていくのだなあと実感した。皆まだまだ若いのでこれから苦労は沢山あるだろうけど、初心忘れずに持続してもらいたいと願う。俺も自分なりにがんばらなきゃと思いました。

最後にロンドンの生活について。

噂には聞いていたが本当に(日本に比べると)物価が高い!ホテル、レストラン、地下鉄などは軽く23倍の感覚である。ウイスキーも2倍の感じ。ワインは1.3倍くらいか。唯一安いと思ったのはビール、特にギネス。値段は日本とさほど変わらないがうまさは圧倒的にこちらのほうがうまい。後は良く知られていることだが美術館の多くが無料である事。これは本当に助かった。

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ダブリン市

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キューガーデン駅そば。朝8時半。
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キューガーデン(王立植物園)


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キューガーデンと接するテムズ川

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キューガーデンから戻った後、もう一度V&Aミュージアムへ。

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いつの間にかお茶を飲むスペースになってしまっていたウイリアム・モリスの部屋にて
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最後はヴィクトリア&アルバート音楽ホール






この日は宿を移動した。
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自然史博物館

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ヴィクトリア&アルバートミュージアム(V&A)へ。
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新島さんとずっと探していた雑誌BLAST発見!1915年でした。展示物なので中身は見れないけど感動。



今ネット環境が悪いのでコメントに答えることができません。悪しからず。

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この日のロンドンは激しい雪で始まった。

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田中友美子さんとストーンヘンジツアーへ。

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ソールズベリー大聖堂

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ローマン・バース

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city of bathにて。ジェーン・オースティンの小説世界を感じた。

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最後はパブ雪太郎(john snow)にて打ち上げ。


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バートンオンザウォーターの町
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自動車博物館

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バーフォードの村

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バーフォード教会

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オックスフォード博物館の前

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エドモンド・ハレーの家(ハレーの骸骨)

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オックスフォードの街というか大学の校内というべきか

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とりあえず写真のみ
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401

天気に恵まれ無事に出発し無事に到着。
詳しいことは後で暇な時にでも追加しようと思う。
飛行機は当然エコノミーだったのだが、エコノミーシートでも上下があり広いシートに座る事ができた。これはとてもありがたいことであった。
たばこは当然我慢したのだったがこの期におよんでやめることのできないことを妻に責められつつ。

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