0115 朦朧覚え書きーC.S.パースを巡って

終日家にて調べもの、読書などで過ごす。ゆえに特筆すべきことはない。

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ここ数日寝込んでいて朦朧状態ではあったが思考した中に重要だと思われる事があったので以下覚え書きとして記す。
(朦朧雑記なので長いです。あくまで自分のための覚え書きなので興味のない方はどうぞ読み飛ばして下さい)

「これからチャールズ・サンダース・パースをもう一度真剣に勉強し直さなくてはならない」という強烈な考えに見舞われた。
それはパースの記号学が主ではあるが、もちろん論理学や現象学も含めて再度しっかり読み直すということだ。
「全ての思考は記号である」
「全ての経験は時間の中の連続的なプロセスである」
という有名なことばをめぐってあれやこれや考える。
...この場合のプロセスとは一回限りのものであるけれども(経験とは常に一回限りなので)、しかし場合によっては別のプロセスで何度でも繰り返せるし、順番が決まっているわけではない、それは例えば僕らが絵を見る経験において特にとか...。
これは突然降ってわいたかのような感じもしたが、パースは人間の思考においてそもそも「直感的に」何かが頭に降りて来るなどといった類いは絶対に認めない人だったので、僕がこう考えたのにも意識化してないにせよ多分何らかの理由があるのだ(つまりあるプロセスを経た上で浮かんできたことなのだ)と思う。
それをここ2〜3日で考えてみた。
そもそもパースのことを幾分真剣に読んでいたのは20代後半から30歳の前半までで、結局彼の書いたテキストはとても分り辛く、かなり昔に音を上げて放り出してしまっていた。
今がその時以上に読解力があるかというと自信はないが。

まあそれはともかくとして
パースの記号論で最も重要な部分は思考のプロセスに関することである。
そして人の認知行為の中で最も重要なことは推論(のプロセス)であると述べている。
パースによれば推論は演繹と帰納と仮説形成の3つでできている。

極端に細部を端折ればパースが語ったのは、これが知覚と思考を理解するための道具立ての全てである(ように思う)。
たったこれだけ。
しかしこれで充分。
複雑な世界を解読するのに複雑な道具ではやっていられない。
問題はシンプルな道具をいかに用いるかなのだ。
ジェイムス・ギブソンもその点全く同じ態度であった。
しかし、しかしである。(ギブソンもまた同様であるが)実際はこれがとてつもなく難しい。
パースはこの三つの道具立てで世界を分類、論証していくのだが、とんでもなく複雑(に思える)な例の三角形を作り出した。大抵の人は多分これで挫折する。
(友人のみぎわさんはしぶとくその作業を持続している数少ないパース研究者の一人だ)

しかし僕はこれをもっと真剣に深く考えるべきであったと、今回朦朧とした頭で強く感じたのだ。
あの三角形が仮にパース程の天才でない限り簡単に理解できないとしてもだ。
すぐにあきらめないで少しずつ、そのプロセスを歩んでも良いのではないかと思えて来た。
で、その時にひらめいたのは本を理解しようと読むのではなく、
「自分自身の何らかの制作行為を通じて思考すれば良いのだ」
というのが今回の朦朧思考における最も重要なポイントである。
(書いてしまえば当たり前すぎてどうということもないが)
極端に言えば僕にとってパースを正しく理解する必要はそもそもないのである。
それを正しく理解しなければと考えたのがそもそも挫折の原因であるような気がしたのだ。
道具としての思考と思考そのものの理解を僕は混同していたし、それ故に自分の道具としての思考が時としてブレて、実際の制作と乖離していたのだ。
こんなことを今言うのは自分は馬鹿ですと言っているようなものだ。
実際馬鹿なんだからしょうがないじゃねえかと今は開き直っているところだ。

...まあそれもともかくとして
演繹はかなり論理的な説明であり、分析的で図式的である。故にこれは思考においては川下の「言説」の領域。
帰納は個人的な経験、感情から一般論にいたる道筋。一般論にいたらなくてもよいのだが。例えば絵を見て何か類似物を想起したり、別の記憶を重ね合わせたり、新しい関係物を発見したりするいわば中流域。
そして仮説形成(アブダクション)はもっとも川上にあって帰納を導くための触覚的な手探りのようなもの。環境と自分の間に生起する原初的知覚、あるいは新しい何かに出会うための自己投機的な振る舞い。

この仮説形成は仮に造形においては、これまで見た事もない形や方法に接近するためのものでもある。
私たちが「創発的」と言っているものはこの仮説形成によって生み出される。

その他は長くなるので省略。
(なお以上の説明は僕が勝手に理解していることなので正しいことかどうかは全く分らない)

では何故、今になってパースだと確信したか。
以下推論できるのはおおむね3つの理由による。

まず第一は自分にとって必要なことは哲学などの最先端を理解したりすることでは当然なく自分のヴィジュアル・コミュニケーション行為にとって必要な思考の道具、信頼に足る道具は何かを探すという目的の為であり、それをここ30年程考え続けてきた(つもりであった)。
しかし振り返ると自分の能力を過信し、あれやこれやに手を出し、全くものになっていないことに愕然とした。自分の頭の悪さに気がつかないこと自体が相当な問題であり、実はそれを考えると現在かなり絶望的な暗い気分であるがそれはここではとりあえず置いておく。
ともかくも、風邪のせいばかりじゃなくて自分がかなり心理的に追いつめられた状態であると思われる。

第二にこの旅(現在9ヶ月以上経過)を振り返って自分が採っている知覚の方法が全て基本的にパースが言った通りであった事に「はた」と気づいたこと。

まず非日常的といえる程の膨大な絵、図像、文字、風景などを見ている時、感じて理解したり認知したりする時に自動的に働く思考プロセスである。それは上に述べたような帰納的なプロセス。何か類似物を想起したり、別の記憶を重ね合わせたり、新しい関係物を発見したりすること。アナロジーやメタファーなどの稼働。

そしてまた、うまく言葉化できないけど存在する、単なる理解や納得を超えたある新しい出会いのようなものの遭遇感覚。一般論のためではない帰納的な帰結。

また日常の極めて不自由な言語環境の経験にもよる。つまり沢山の外国語に囲まれて行動する時、自分がとっている知覚と理解のプロセスも同様にパースがあてはまる。
ものを理解したり認知したり思考することは普段無意識に行っているが、ここ外国では無意識には物事は進行してくれない。言葉が理解されない時、出来ない時、全知全能を傾けて何かを発見する志向が起きる。環境、状況、身振り、表情、空気、抑揚、エトセトラ、推論を導き出す為の膨大な情報を必死でピックアップしようとすること。
パースが言っている事は正しいという結論。

第三に僕がこれまであれやこれや寄り道して来たものの起点の多くがパースにあったという仮説形成による。(かなり大雑把だけれどメモとして)
ジェイムス・ギブソン(+グレゴリー・ベイトソン、エドワード・ホール)などの生態学的知覚論、現象学、知覚心理学。
ウイリアム・ジェイムスのプラグマティズム。
現象学およびゲシュタルト心理学。
(ノイラートのいた)ウイーン学団。
エルンスト・マッハの科学哲学。
それぞれへの影響関係と共通項など。

ちなみにソシュールやバルトの「記号論」は社会や表現された表象を読み取ったりすることにおいて重要だと思ったし興味深かったが、今となってはそれだけのもので自分の道具としては今回は全くと言っていい程関係がないことも痛感。

最後にここまでメモしてきて浮かんだ4つめの理由。この旅が終わった後、自分はこれまでのやり方とは違ったやり方で物を作っていきたいと多分(無意識的に強く)思っていたのだろう。
仮に望んだとしても自分が別人になるわけはないのでそれは他人から見れば恐らく大したことではないだろうし、ささやかなことだ。もちろん、それが何かはここには書けないけれども。

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