0215 市場、新市街、考古学博物館、ベンジャミン・バトン。Benjamin Button

今日は日曜日。
最初に訪れた郷土博物館が休みで出鼻を挫かれる。ガイドブックの記載と異なるのだ。これは大変残念。その後旧市街の外側に広がる新市街を散歩し市場などに行き、旧市街にある考古学博物館へ。内部は写真不可だった。
その後、時間が余ったので昨日僕は見れなかった例の夕焼けを見た後、映画に行く事にした。
町の映画館ではアメリカ映画を2本やっていて「ベンジャミン・バトン」というのを見た。
大きなスクリーンで見るのはヴェネツィア映画祭以来なので久々である。
字幕はポルトガル語。英語がもちろんちゃんとは分らない。なのでひたすら画面を凝視し内容を追うことになる。こういった見方は不便ではあるけど、他方意外と面白みもあるのだ。映像のリズムとかトーンのようなものに普段よりも意識が行かざるを得ないのだ。日本だとどうしても字幕に意識が行き過ぎるのだ。
なので感想を書くのは少し憚られるのだが、この特殊な見方においてこの映画の感想を述べておこう。
まず最初に出て来るケイト・ブランシェットのメーキャップが、かつて見たコッポラの「ドラキュラ」ゲイリー・オールドマンのメーキャップそのままで、はじめは別のホラー映画の宣伝だと思ったくらいだ。(もしドラキュラを見てない方はぜ確認してみて下さい)
それから想起される事はドラキュラも不死を主題にしており、時間と逆行して若返るというこの映画とはつながっているのだ。
で、結局はケイト・ブランシェットの醜いメーキャップは、欧米人の老いに対する強烈な潜在恐怖が図らずも露呈しているのだと解釈せざるを得ないのだ。

画面を見ながら「老いる事はそんなに醜い事なのか?」という問いが最初から出て来て困る。
(クロサワの「乱」における老いもそういえば醜かったなあ。しかしこの映画においては老いと誕生は一つに結ばなきゃならないんじゃないか?アジアでは鶴亀の例の様に老いはめでたいことなのだ)

この映画の中ではベンジャミンの育ての母親の存在感が頭抜けて良いし、船でロシアに行くエピソードなど時々ファンタジックな部分もあるものの、戦後の描き方はいきなり平板になってしまう(つまりこの映画の比較的良い部分は、時間と逆行して生きざるを得ないベンジャミンと基本的にはあまり関係のない所で展開する)。
そして結局やたらと長い。長過ぎる。母親(ブランシェット)と娘の何度も繰り返す挿入シーンなどは全く不要ではないのか。
ニューオリンズのあのハリケーンにダブらせる必然性はあったのだろうか。
観客は後半ひたすらブラット・ピットが若返ること(CG加工やメーキャップ)に意識を向けられていく。これも本来の主題とは関係のない事だ。世界中の人間がブラット・ピットの若返りに固唾をのむなんてちょっと倒錯的な感じがしました。

以上、言葉の理解なしの見地から見た無謀な批評でした。実際はどんなに凡作であったって映画を見れただけで楽しかったんですけど。
まあこの監督「エイリアン3」の時から相性が良くないようだ。もしこの映画が好きな人がいたら許して下さい。

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考古学博物館

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オウムを背負って夕日を見に来る男。

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奇妙な偶然。映画「ベンジャミン・バトン」でこれと全く同じ構図の画面が二度登場する。映画の方は朝だったけれど。

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