終日家にこもり旅でたまった資料の整理。
旅の途中購入した書籍や、ゆっくり目を通せなかった資料に目を通す。
辞書を引きながら、またインターネットで確認しながらの作業なのでなかなかはかどらない。
しかし今回はあまりゆっくり振り返っている時間がない。
次の旅の当面の準備もあるけれど、ほとんどちゃんと決めてなかった後半の旅の見取り図全体を再度描かなければならないのだ。
もちろん、誰かが言ったように旅はちゃんと戻らなければ旅とは言えないので出発前に大きなアウトラインは作って来た。
これまでは若干の修正(例えば8月は少し休んだり、当初思ったよりイタリア滞在が少なくて北ヨーロッパが少し増えたり)はあったもののほぼ計画通りであった。
しかし後半についてはあまり考えてなかったのだ。
これは出発前にそれだけの準備をする時間やゆとりが全くなかったということにもよるのだが、半分は意識的に「行ってみなけりゃどうなるか分からんだろう。」という気持ちもあったのだ。
決めた事をそのままトレースするほうがどっかおかしいんじゃないかという気持ちがあった。
実際、見たり、感じたりするこということは、何かがその都度、自分に刻印され自分の感覚の何かが変化し続けているということだ。実感として。
これは当たり前と言えば当たり前のことではある。しかしこれまでの人生で少なくともこんな短期間にこれ程の量の情報を浴びた経験がないので圧倒されているということなのだと思う。
それで旅先で「やばい」と感じて思わず受信を遮断しよう(インプットを減らそう)とする自分がいるのだ。そしてそれを見ているもう一人の自分が「なんちゅうやっちゃ、お前は」と苛立っているのだ。
ここ最近、みっともないとは思うのだが「苦しい」だの「混乱している」だの弱音を吐いているのはそういうことです。
意外と弱い私をお許し下さい。
この迷いも旅に含まれた大事な要素なんだとここ数日、少しづつ開き直るようになってはいるものの。
9月7日。ミラノで見たグリーナウエイのインスタレーションの様子。画像が小さくて見にくいですが。正面に見えるのが再現されたテーブルです。
http://www.esporre.net/terayama/2008/09/0901leonardos-last-supper-by-p.php
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