昨晩は久々にゆっくり眠ることができた。当初、このような拠点(クロアチアにフラットを持続的に借りること)を持つことは少し贅沢なのではないかという気持ちもあった。しかし実際旅してみると、拠点なしの移動(放浪?)生活はあまりにもきついということがわかった。もちろんここリエカでの生活も東京の自宅のように自在とは到底言えないまでも、充分以上にその意味があったことを実感させられている。
トルコで見た様々のものや多くの人と話したことなどが熱をもった大きな一塊となって頭や心に残っており、それらを抱えたままここ数日は過ごさねばならないようだ。整理がつこうがつくまいが、そうしなくてはどうも元の精神状態には戻れないように感じている。それくらいトルコでの経験はインパクトがあった。リエカは今、日本の梅雨のようで雨が降ったり止んだりしている。(僕らが戻る直前までは31度の暑さだったそうだ)
今日は終日荷物の整理などをして一歩も外には出なかった。
トルコ旅行覚え書きの前にこの旅のそもそもの目的を記しておきたいと思う。
このブログを見ている方々には気楽な遺跡巡りにも見えるかもしれませんが、私の旅はこれでも一応研修旅行なのです。
【研究課題】
ヴィジュアル・コミュニケーションにおける「文字」「図像」「書物」など「視覚記号」諸要素の起源、歴史的変遷、環境との関係に関する調査と研究。
【研究理由】
私のこれまでの研究テーマは以下の2点である。
(1)書物、ダイヤグラム、サイン・システムなどタイポグラフィと図像を軸としたグラフィック・デザイン史研究、およびそれらを今日的視点で再解釈し近代の視覚言語とは何かを問うもの。
(2)文字の発生前後からの人類の記述の変遷(History of WRITING)をたどり、その中にヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン史を定位し今日的視点からデザイン概念を再構築すること。
[これまでの研究と今回の在外研究との関連]
(1)トラヤヌス碑文に見られるインペリアル・キャピタルからルネッサンスを経て今日までリバイバルを重ねた人文主義的タイプフェイスの歴史と変遷(記念碑、墓石から印刷された書物まで)の現地調査と資料収集。
(2)2007共同研究「オットー・ノイラート研究」に関連し、ISOTYPE(International
System Of Typographic Picture Education)をヨーロッパにおけるヒエログリフ解読(エジプト再発見)の文脈で考察し、同時に18世紀以降のダイヤグラム、サイン・システムを主とした視覚記号のヨーロッパ各国における展開の現地調査と資料収集を行いたい。
以上が(大学に提出した書類の抜粋なので文章が硬くてごめんなさい)私の今回の旅の大きな目的である。もしこれに付け加えることがあるとすれば、出来る限りそれらが生み出されたその場所に行くことであった。
今回のトルコの旅ではまさにトラヤヌス時代の文字が生まれるかなり以前からその前後までの様々な文字(記号)による碑文、粘度板、円筒印章、貨幣、文様、器具、彫刻、装飾品等をかなりまとめて見る事ができた。それらはシュメールによる楔形文字の発生から彼ら独自のアルファベット(表音文字化)への移行、エジプトの象形文字とそのアルファベットへの移行、象形文字と楔形文字の交流と新たな文字の発生(未解読の多くの文字も含まれる)などである。短く見積もってもBC2000年間の変遷がそこにはある。現在の私の中では整理がつかず混乱状態であるものの、少なくともエジプト、シリア、アラブ、ヒッタイト(トルコ)ギリシアといった地中海をとりまく諸地域が商活動、侵略、戦争、民族移動などを通して、かなりダイナミックに交流し、その中で否応なく文字が生成、流通してきたことが実感として理解できた。このことは今後丁寧にトレースする必要がある。
これまでタイポグラフィの教科書にも全く触れられることのなかった「何故、トラヤヌスの時代(要するに今から2000年程前)に既にあれほど完成された書体ができていたのか」(「それをまさか単純にローマ人の功績に帰すだけでは済まないだろう、では誰がどのようにして?」...これこそが私のこの旅の本当の目的であるが)についてのヒントがいくつもあった。またそのことはただ単に文字の形だけを見ていても理解できないような気がする。当時の人々、少なくとも造形に携わった人間たちの装飾品や建築物に対する数学的、幾何学的対比、比率に対する感覚と密接に結びついている事も間違いの無いことのように思われる。この地域と時代は歴史学的にも考古学的にもまだまだ謎が多くこれからの新たな発見などによって文字の歴史もかなり書き換えられていくような予感も感じた。ある本によれば歴史家は文字が生まれてからを歴史時代としそれ以前を考古学的対象と切り分けるそうだが、コミュニケーションという視点からみるとその理屈はあまりにもアカデミズム的でおかしいと思う。考古学と歴史学のもっと統合的で視覚記号論的な歴史生態学が必要なのではないのかという気もした。(門外漢なので勝手な感想ですが)
今回わかったことはこれまでのわたし達に与えられている歴史的知見がヨーロッパにおいてもたかだか18世紀の終わりから始まったということだ。
私自身も自分の整理の為に地道に年表を作ろうと思っているが自由に参照できる資料が手元に無いので、この場所でどこまでできるかわからない。しかしこれからの旅のためにはできる限りのことをしておきたいと思っている。
この旅において特筆すべきなのはアンカラのアナトリア文明博物館で見たチャタル・ホユックの遺跡出土品であった。(もちろんアレクサンダー大王の石棺における想像を絶する彫刻の完成度の高さとか、特筆すべきものを言い出せばほかにも目白押しなのだけれど)
これは現在のところ人類最古の集落といわれているところである。紀元前7000年頃以降のもの、つまり今から9000年前である。博物館で見る事のできた紀元前5〜6000年から3000年にかけての土器、家屋の復元、地母神の座像、呪術的な造形物の強さ素晴らしさには全く驚かされた。人類が時間を経るごとに賢く(?)というか進歩、成長しているという発達史的な歴史観はこれをみると簡単に吹っ飛びます。ヒッタイト文明やアッシリアなどの「歴史上の」文明とそれ以前の「考古学的」事実であるチャタル・ホユックとの関係、関連を文字で証明するものがないので一般の歴史書には断絶してしか触れられていないが、場所的にみればどう考えても何らかの関係があるように思える。
またこれはアイルランドに行ったときと同様だが、今日の私たちが考えている造形とはそもそも何なのかとも考えさせらずにはいられない。歴史が新しくなればなるほど繊細さや量的な規模は増大するかもしれない。しかしものに込められた造形上の強さはそれに反比例して弱まっていくものなのだろうか?
最後についでと言っては何だけれどももう一つの旅の目的(というよりも野望に近いかも)も書いておこうと思う。(何事も言ってしまえば未来のいつかに実現するような気がするので)今回は諸事情と時間の制約から現在のイラク、シリア、ヨルダン、サウジアラビア、イスラエルといった中東諸国まで足を伸ばすことができない。この1年の旅の後、機会があれば今度は東アジア、東南アジアの側からイスタンブールに向かう旅をしたいと考えている。もちろん1年フルにというのではなく、断片的になるだろうけれども。そうしなければどう考えても自分の中のバランスがとれないだろうと思えるのだ。
以下智子の写真機より
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